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66 届かない想い

 触れ合った瞬間、そこに熱が生まれたような感覚があった――。


 思わず重ねた唇は一瞬で離れたはずなのに、柔らかな感触と帯びた熱がジワジワと体中を満たすような背徳的な喜びに心まで蝕まれていく。

 ゆっくりと瞼を上げれば、眠り姫のように美しい顔を無防備に晒すディミトリ殿下が視界いっぱいに映る。


 もっと触れたい――そんな欲と共に、ジワリと自分が如何に不味い事をやらかしたのかに考えが行き着いた。


(意識の無い相手…しかも気を許した友人から寝込みを襲われたなんて…これがバレたら嫌われるどころの話じゃないんじゃない…の…?)


 サーっと顔から血の気が引いて行くのが自分でも判る。


 どれだけ親しい友人であったとしても寝込みを襲うような真似は決して許される行為では無い。

 …ましてや疲れているのにも拘らず、親切心から勉強まで指導してくれた殿下に対して、これは恩を仇で返すに等しい行為だろう。


 それに――自分はお仕えすべき“敬愛”と“尊敬”の意味でしかディミトリ殿下の事を好いているとは思っていなかった。

 そこに恋愛感情は一ミリも含まれていないと信じていたのに…。


(えっ…ちょっと待って?!こんな…自分でも止められないような感情は何っ⁈ま、まさか…殿下の事を…す、好きになっている…とか…?)


 そこに考えが行き着いた瞬間、ボンッと顔中が、血が上ったかのように一気に熱くなる。

 鼓動がバクバクと早鐘を打ち、耳朶までもが熱に浮かされた様に熱を帯びた。


(一体…いつからこんな事に…?だって…こんな面倒な相手を…)


 ディミトリ殿下との出会いは、最初から無理やり結ばれた縁だったと思う。

 社交デビュタントの場で、何故か気に入られてルイスの治療費を盾に仕官まで強要された。


 でもそれが、私を遠慮させないための“嘘”で、友人として大切にして貰っていたことにさえ、自分では気が付くことが出来なかった。

 ルイーセとして接しているときの優しい表情も、甘い囁きもディミトリ殿下の一部分にすぎないことは理解している。

 カールの時に見せる真面目な顔も、不機嫌さを隠そうともしない処も、嫌いな食べ物を飲み込むときの泣きそうな表情さえもが愛おしいと…そう感じてしまったのだから始末に負えない。


 …これが恋愛感情だというのなら、この想いだけは彼に知られる訳にはいかないのだ。


(だって彼には想い人がいるんだもの。初恋の女性がディミトリ殿下の手を取った時、私なんか簡単に打ち捨てられてしまう…)


 心を全て彼に預けてしまえば、殿下が別の女性に愛を囁くのをすぐ傍で見続ける事に耐えられる気がしない。

 こんな感情はきっと彼にとっても――不要なものでしかないのだ。

 ディミトリ殿下にこれ以上…心を奪われる前に…彼から離れないと。


 そう決意して立ち上がると、気配を感じたのか殿下が微かに吐息を漏らす。


「う…んん…」


 その声が――微かな身動ぎさえもが堪らなく気持ちを掻き立てるのだから質が悪い。


 これ以上傍に居たら…自分が何をするか判らない。

 自分でも訳の分からない感情に支配されて、その時の私は逃げ出す事しか考えられなくなっていた。

 バンッと扉をあけ放つと、脱兎のごとく部屋を飛び出した私は、既に自分ではどうしようもない感情を拗らせていたのだった。




 ――既に消灯前の自習時間だったことも有り、誰にも会うことはないまま、自室へと辿り着くことが出来たのは幸いだった。

 熱の引かない頬と耳朶が驚くほど熱く、体全体が火照ったように汗が引かない。

 扉の前に座り込んでゼイゼイと肩で呼吸する私を胡乱な目でルイスが見ていることには気づかない振りをして、慌てて額の汗をぬぐった。


「随分と賑やかなお戻りだね。今日は殿下との勉強会だろう?何で教則本の一つも持たないで帰って来るんだい?…まさか、殿下と何かあったのかな…?」

「何かって何っ⁈…いや…別に何も無いけど…って、あれ?私の荷物は…?」


 慌てて手元を見れば何も荷物を持っていない事に気づく。

 …そういえば、あの場から逃げ出すことで手一杯になって、机の上に放り出したままだったことを思い出した。


「い、いつもより遅い時間になっちゃったから…その、人気の無い廊下を歩くのが怖くて…。早く帰ろうと、慌てたせいで荷物を全部執務室に忘れてきちゃったみたい…」


 昔から暗闇に怯えてはルイスのベッドへ潜り込んでいた過去がある。

 だから咄嗟に口から出たのはそんな言い訳だった。


「まだ暗闇が怖かったの?それなら、早く言えば私が執務室まで迎えに行ってあげたのに。…じゃあ、私が荷物を取りに行ってくるから、戻るまでにお茶を淹れてくれるかな。うーん…気持ちが落ち着くカモミールティーが良いな」

「でも…悪いわ。明日の朝にでも自分で取りに行くから…」

「気にしないで良いよ。私はお礼に、カールが淹れてくれた美味しいお茶を飲みたいだけだから。もし戻りが遅かったら先に飲んで待っていて」


 頷くと、優しい微笑みを浮かべながらルイスは部屋を出て行った。


 ――きっと、私の言い訳なんか全てお見通しなんだろう。

 様子がおかしい事に気づいたから、話を無理に聞き出そうとはせず、気持ちが落ち着くお茶を飲んで待っていろと言ってくれたのだ…。


(…ルイスに大切にされていることが嬉しいなんて…私はいつからこんなに心が弱くなってしまったのかしら…)


 じんわりと眦に浮かぶ涙を拭いながら、私はお茶を準備するために床から立ち上がったのだった。




 要望通り、カモミールティーの準備を終えてもルイスが戻ってくる気配はない。

 …もう既に二刻以上が経過しているのに…一体何をしているのだろう。

 温めてあったカップは既に冷え切ってしまっている。

 もう一度温め直すかと、腰を上げれば、先ほどの殿下の唇をまた思い出して、心が震えた。


(何で…こんなに愛おしいと…触れたいと思ってしまうのだろう…)


 指で触れてみても何の感情も抱かない唇は、あの一瞬の触れ合いで驚くほどの熱を運んできてくれた。

 どれだけ願っても、彼の心を丸ごと手に入れることが出来ない事は理解している。

 ディミトリ殿下の心の中には自分よりも先に初恋の女性が住み着いていて、その女性に向ける直向きな愛情以上に彼が欲しているものが無い事も…。


(…恋愛小説みたいに綺麗な感情ばかりではいられないわね…)


 自分の内に渦巻く醜い欲望に吐き気がする。

 愛されたくて、彼の気持ちが欲しくて――だから勝手に唇を奪った卑劣な自分。


(これ以上、彼を求めたらきっと心が壊れてしまう…)


 今日の事は気の迷いだったのだ。

 …ディミトリ殿下に気づかれていないのだから、無かったことにすれば良い。


 温めたティーポットにカモミールを淹れてから、熱々のお湯を注いで数分蒸らしているとふわりとリンゴの様な甘い香りが辺りに広がる。

 その香りに疲れ切った心までが癒されるようで、ほおっと安堵のため息を吐いていると、漸くルイスが部屋へと戻ってきた。


「ナイス・タイミングだったみたいだね。廊下にまで甘い香りが漂っていたよ。遅くなったけれど、一緒にお茶にしようか」


 “はい”と手渡された教則本や筆記帳を小机に置いてから、二人分のカップに温かなお茶を注いでいく。最後のゴールデンドロップまでを注ぎ切ってからカップを手渡すと、ルイスは嬉しそうな顔でお茶を口に運んだ。


「うん、美味しい。同じように淹れているはずなのにカールが淹れると優しい味になるんだから不思議だよね。随分と待たせたから、先にお茶にしていると思っていたのに、待たせたのならゴメンね」

「そんな…構わないわ。それより、随分と戻りが遅かったけれど…何かあったの?」


 私の問いかけに相好を崩すと、ルイスはクスクスと愉快そうな笑いを零しながら執務室でのことを語ってくれた。


「こんな遅い時間だから誰も居ないだろうと思っていたのに、執務室だけは煌々と明りが灯っていてね、消し忘れだろうとノックもせずに扉を開けたんだよ。そうしたら、二人掛けソファーの上で殿下がお休み中でね、無防備だから本当に驚いたんだ」


 …そういえば、殿下を一人で放置するのは不味かったかもしれない…。せめてディートハルト先生にでも声を掛ければ良かったかと考えたところで後の祭りだ。


「君の教則本とかは机の上に一まとめになっていたから、直ぐに戻っても良かったんだけれど、殿下をこのままにしておくわけにはいかないじゃない。だから声を掛けながら揺すり起こそうとしたんだよ…そ、そうしたら…ね…フ、フフフ…」


 堪えきれないとばかりに声を上げて笑うルイスを見つめていると、笑いすぎて浮かんだ涙を拭いながら、後を続けた。


「いきなりガバッと起き上がってさ、突然抱きしめられたから驚いたんだよ。しかも『二度と離さない…愛している』と、口づけまでされそうになったんだ」

「…ハァッ⁈…えっ…まさか、口づけ…し、したの…?」

「ハハハ…してないよ。ハッキリ『殿下のお気持ちは嬉しいのですが、男に興味はありません。私にはマリアーナが居ますし』とお断りした。そうしたら、一瞬目を瞬かせた後で顔を真っ赤にして『寝ぼけていた…すまない』ってバツが悪そうな顔をするから思わず笑っちゃったよ」


 …殿下は意外と寝起きが悪いのかしら。

 そう言えばルイ―セの時も寝起きに襲われたし、今度は無防備に近づかないでおこうと心に誓う。


「あんまり熱烈だったから『そんなに殿下に深く愛される女性は幸せですね。恋人ですか?』と尋ねてみたんだよ。そうしたら『ああ…初恋の女性だ。ずっと彼女の事が忘れられない』なんて蕩けるような微笑みを浮かべるから、こっちまで赤面しそうになった。あんな殿下は初めて見たし、今も大切に想っているんだと伝わって来たよ」


 しみじみと言うルイスの言葉に、心の柔らかな部分が抉られたように痛む。

 …今でもディミトリ殿下が心から欲しているのはその女性だけなのだと事実を突きつけられたことがこんなにも辛い。


「以前はルイ―セに対して執着を見せていたから、まさか自分の妹が正妃になるかもと心配していたけれど、あの様子なら卒業後は初恋の女性を選ぶのは確実だね。これで、安心してルイ―セも身代わりはお役御免になれるじゃないか」


 ――ルイスの言うとおりだ。

 殿下が初恋の女性と結ばれれば、きっと面影を追う必要は無くなり、私への執着も消えるだろう。そうなれば、自由になった私は家を出て、今度こそ市井に降りて翻訳の仕事で生きていくことも出来る。


 それは喜ぶべき事なのに――何でこんなに胸がズキズキと痛むのだろう。


 痛みを隠してルイスに微笑みを浮かべると、自分を叱咤して、敢えて楽しげな声を出す。


「その日が…待ち遠しいわ。私達貴族は、いずれは家の繁栄の為に婚姻を考えなくてはならないもの。殿下も初恋の女性と結ばれれば幸せでしょう。勿論、ルイスだってマリアーナとの婚姻を考えているのでしょう?」

「…まあ、いずれはね。マリアーナには随分と優秀な義弟がいるから、アウレイア家は義弟が継ぐことになるそうだし」


 …ちょっと待って欲しい。兄とマリアーナが婚姻を考えている事は喜ばしいけれど、彼女に義弟が居ることを私は一言も聞かされていなかったんですが…?

 何で隠すの?それぐらいは教えてくれても良いのに…。


「そ、そう‼二人が婚姻の予定まで話しているのなら私が口を出すのは差し出がましかったわね。二人の出会いが、ルイスが“聖女”の力を欲している為だけに結ばれたとマリアーナが勘違いしていたから勝手に心配していたのよ。気持ちが通じ合っているのなら構わないの」


 しかし、私を見るルイスの目は冷ややかで、幸せそうには感じられない。

 思わず眉をひそめる私にため息を吐くと、ルイスは「彼女に私の気持ちは伝えていない」とポツリと呟いた。


「…そもそも、私の“聖魔力欠乏症”が完治した訳ではない事は判っているだろう?今は注射剤で病状の緩和を図っているだけの男が、軽はずみに将来を約束できると思う?」

「…でも、マリアーナは何れ聖女として目覚めるでしょう?そうなれば病気なんか直ぐに治るわ‼」

「それは希望的観測であって、確定した話では無いだろう?それに期待し過ぎて、マリアーナが聖女覚醒の重圧に苦しむことも、私が死ぬことになって、将来を誓った約束を反故にするのも、彼女を苦しめる結末に変わりはない。気安く愛を囁ける相手は本気ではない場合と――永遠を彼女と歩んでいける確約した未来を持てた時だよ」


 兄は――ルイスは本気でマリアーナの事を愛しているのだ。

 生涯の伴侶として彼女への深い愛情を持っているからこそ、簡単に口に登らすことの出来ない想いもあるのだと…そうまざまざと突き付けられた。


(マリアーナが羨ましいな…)


 どれだけ邪な感情から始まった関係だとしても、今の二人には確かに愛情が芽生えている。

 ルイスが言葉にしなくても、愛されていることを彼女が信じている限り不安が芽生える事は無いのだろう。

 人から無償の愛を向けられる存在というのは、その人にとって自分以上の価値があると認められたという事なのだ。


 誰からも唯一無二の存在だと――愛されない私は価値が無い。

 それが酷く――悲しかった。



※更新が遅れていて申し訳ありません。出来るだけ時間を作って書いているのですが、この時期は忙しさにかまけて、中々毎日更新がきつい現状です。それでも良いよと思って下さる、心の広い読者様‼今度ともよろしくお願いします。


※文中に出てくるヒロインの義弟はこちらには登場しません。書く機会があればヒロイン視点とかの別話で出てくると思いますので、深読みする必要はありませんよ。

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