第九話 バタフライ効果を考えないわけじゃない
姉貴が帰ったあと、俺はファミレスに残って一人で卒業文集を確認することにした。
名簿の名前をクラスごとに丁寧に追ってゆく。蓮水達彦の名前を見つけたのは三冊目……梅田中学三年二組の名簿だった。卒業アルバムで顔を確認する。
七年以上前の写真だがないよりはマシだろう。一応スマホのカメラで写真をアップで撮影しておく。
写真の蓮水達彦は普通の中学生だった。野球部だったらしく中途半端に伸びた前髪を立ち上げて、精一杯大人ぶっている。
じっと写真を眺めていたら、仄暗い想いがふつふつと湧いてきた。
(こいつのせいで美咲は……! 助けてやる必要なんかないんじゃないか? 酔っ払い運転なんて、死んだって自業自得だろう⁉︎)
美咲を死なせ、一緒に歩いていていた早川亜紀に大怪我をさせて、罪を自覚することもなく逃げるように死んだ。そんなやつにヘラヘラと近寄って『今日は酒を呑むのは止めた方がいい』などと忠告するのは、どうにも滑稽に思えた。
イラついて、肩掛けバッグから電子タバコを取り出す。完全に禁煙が出来なくて、三年前から電子に変えた。
あ、でも二十年前だと、電子タバコってどうなんだろう? まだ流通していないのか?
目立たないように喫煙席内を見回す。みんな普通の煙草を吸っている。電子タバコはまだらしい。
頭の中が喫煙モードになってしまったので、ファミレスを出てコンビニへと向かう。その途中で朝から何も食べていなかったことを思い出し、段取りの悪さに舌打ちをする。
仕方ないのでコンビニで煙草とライターの他にも、おにぎりと缶コーヒーを買ってブラブラと歩きはじめる。ビジネスホテルは連泊の手続きをして来たが、あの狭苦しい室内へ戻る気にはなれなかった。
何も考えずに歩いていると、どうしても足は実家の方角へと向いてしまう。昨日と同じ道を辿り、河川敷へと向かう。そして途中で後悔する。
俺が過ごしていた時間軸では、八月は終わり九月に入っていた。ところがここでは、今日の日付は八月四日。夏真っ盛りだ。太陽が真上に差し掛かったこの時間に、外でのランチは無謀だった。
引き返す気にもならなくて、俺はそのまま足を進めた。河川敷に上がるのはやめて、橋を渡る。この橋を渡り終わったところで、美咲は事故に遭った。
橋の真ん中まで来ると、川の上を吹く風が強くなる。俺は橋の欄干に両肘をついて、煙草に火を点けた。
久しぶりに本物の煙を、ゆっくりと肺に入れながら卒業写真の蓮水の顔を思い浮かべる。今は二十二、三歳になっているはずだ。酒を飲んで酔っ払い、中型バイクで美咲を跳ね飛ばし、自分も吹っ飛んで死んだ。
いや……それは俺の時間軸での話だ。ここでは、まだ何もしていない。酔っ払い運転をしなければ……事故を起こさなければ、けっこう平和に普通の人生を過ごすのかも知れない。
無関係の女子高生を二人も巻き添えにして死んだのだ。家族は俺以上に苦しんだに違いない。
(つい魔が差したとか、どうしてもの理由があったのかも知れないしな……)
それに、ここで蓮水を見殺しにして恨みを晴らすのは、あまりにも自分勝手な押し付けだ。
この時間軸で未来を知る俺の動きは、おそらく多くのものに影響する。自分の願う通りの未来を作ることは、生身の人間には荷が重い。
俺は本来、ここにはいないはずの人間だ。影響は最小限に留めたい。バタフライ効果とか、考えると怖くなるな。
見飽きた景色を眺める。
(ほんっと、この辺は変わんねーな……)
土手の上の自転車道、その内側の寂れた公園と野球場。川沿いに広がるススキ野原と石だらけの川原。この先二十年後もこのままだ。
(本当にそうなのか?)
克哉や姉貴と話すたびに、頭に浮かんだことがある。
この景色は二十年前の俺の知るものだが、二十年後に俺の知る景色と丸っ切り同じになるとは限らない。
この時間軸の克哉や美咲や姉貴は、すでに俺の知らない未来へと向かっているんじゃないかと思う。
八月六日に美咲が死なない未来を作れるとしたら、その後の美咲は『俺の知らない美咲』だ。
克哉は高校生の頃の俺だが、二十年後にはおそらく『俺とは違う克哉』になる。
つまりこの時間軸で美咲が死なずに済んで、俺が元の時間に戻れたとしても……。
そこで生き返った美咲に会えるわけじゃない。
なぜなら、俺は美咲が死んだあとの時間が『今の俺』を形作っているから。
それでも俺は、必死になって美咲の事故を回避する方法を探している。手を差し出せば死なずに済みそうな人間がいたとしたら、普通の倫理観を持った人間ならば、当然手を伸ばすだろう。それが見知った人間ならば尚更だ。ましてや、美咲は俺の初めての恋人なのだ。
だが……それだけじゃない。
『くだらない喧嘩なんかしなければ良かった』
『すぐに謝って仲直りすれば良かった』
『何で簡単に別れの言葉を口にしてしまったのか』
『俺が一緒に祭りに行けば、守ってあげられたかも知れない』
『もっと優しくすれば良かった』
『大好きだと、なぜ伝えられなかったのか』
俺は自分部屋の壁に頭をぶつけながら、何度も何度も後悔した。何もかもが取り返しのつかない、『もう遅い』ことだった。
目の前にあるのは『今ならまだ間に合う』という、あの頃の俺がどう足掻いても手に入れられなかったアドバンテージだ。
美咲が死なずに祭りの初日を乗り越えれば……。あとのことは、本当に美咲と克哉だけの問題になる。
あの焼けつくような苦い後悔を、克哉に味わせずに済むと同時に、俺の舌に残る苦味もやわらぐような気がした。
「おい、何やってんだよ」
後ろから唐突に声を掛けられた。
振り向かなくてもわかる。俺に声をかけるような人間は、この時間軸に三人しかいない。
「飛び降りる直前の人みたいだぞ」
自転車に乗った克哉が、顎まで垂れた汗を手の甲で拭いながら言った。髪の毛の蒸れた臭いが鼻をくすぐる。
うわ、すげぇ懐かしいな。夏の部室の臭い。姉貴や母さんに『チャー介よりケモノ臭い』とか言われていた。思春期特有の汗の臭いだ。うん、クッセェ!
「部活、終わったのか? 美咲は?」
「うん、バイト。ちゃんと送り届けた。六時に迎えに行く」