第三話 実家の麦茶が甘いのは俺のせいじゃない
「ところでおっさん、今日どこで寝るの?」
座り込んでいた克哉少年が立ち上がって聞いてきた。
「君におっさんって呼ばれると、こう……なんつーか、自虐みたいな気持ちになるな……」
質問に答えずに切り返す。
「あはは、俺はあんたに君とか言われると、うへぇって気持ちになるよ」
ほんとそれな! さすが俺!
話し合いの結果、『イチさん』『克哉』と呼び合うことになった。お互いそこはかとなく照れくさい。呼び方を相談するとか、つき合いはじめのカップルかよ!
しかし……現実問題として、とっぷりと日が暮れているわけだし腹も減った。そして、財布の中身が使いものにならない。寄る辺なさに泣けてくる。
「しゃーねぇな! 俺んち来る?」
克哉がガシガシと前髪をかきむしりながら言った。
「それしか、ないよな……」
無意識のうちに同じ仕草をしたら『俺、二十年後もその癖治んねぇの?』と苦笑された。お返しに『薄くなるから治した方が良いぞ』と言ったら、ムンクの叫びみたいな顔をした。イジり甲斐のあるやつだ。……俺だけど。
雨が上がったので並んで土手の上を歩く。これから克哉の家……俺の実家へ帰るわけだが、両親になんと紹介してもらえば良いのだろう。
ああ、二十年前なら姉貴もまだ居るなきっと。
「いるよ。当たり前だろ?」
独り言として呟いたのだが、克哉が律儀に返事をしてくれた。
「嫁に行くからさ。うーん、三年後の秋だな」
「……相手は?」
「つき合ってるの知ってるだろ? おまえの担任」
「…………」
克哉がむっつりと黙り込む。傷つけてしまっただろうか? 思春期って難しいな。
「なんかそういう未来の情報って、すげぇ魅力的だけど、聞いちゃっていいのか、わかんねぇ」
「……ほんとだな」
戸惑いの表情を浮かべる克哉の横顔が、ピュア過ぎて直視出来ない。『株でも買ってみるか!』とか考えてました。薄汚れた大人になっちゃって、なんかすまん。
「あんた……イチさん。婆ちゃんがいつ死ぬかも知ってるんだろ?」
「……ああ」
「教えないで欲しい……」
「わかった」
そんな会話をして、少し黙り込むうちに自宅へと到着してしまった。
「なぁ、事情を話さないと、泊めてもらえないと思うか?」
「んあ? 母さんたちに? うーんどうだろう。でも友だちっていうのは無理がある気がする」
そうだよな。『元のところに置いて来なさい』って言われそうだ。河川敷に捨てられるとか、切なくなるな。
二人で考え込んでいると、玄関がガチャリと開いて、猫を抱いた姉貴が出てきた。
「あら、克哉。おかえり。……なにやってんの?」
「ただいま……」
声をかけられて、反射的に応えてしまった。俺じゃない。克哉への言葉だ。克哉が隣でわかりやすく『やべぇ!』という顔をする。
「えっ?」
姉貴が不審そうな顔をして俺を見上げる。うわぁ、めっちゃ若い! こんなだったっけ? そして抱いている猫に目が釘付けになる。
「チャー介……生きてるのか……」
中学生の時にあの河川敷で俺が拾って来て、スポイトでミルクを飲ませて育てた茶トラのオス猫。ずいぶんと長生きして、五年前に十六歳で死んだ。思えば俺が実家から足が遠のいたのは、チャー介が死んでからだった。
ポロポロと、いとも簡単に涙がこぼれた。姉貴の呆気に取られたような顔が目に入ったが止まらない。克哉はもはやどうして良いかわからないらしく、気まずそうに明後日の方向を向いている。
「……入って。麦茶でも飲んで行けば?」
玄関先で中年男が泣いているのは、外聞が悪い。田舎町の噂話は侮れない。
リビングでソファーに座り、膝に乗せたチャー介を撫でながら、片手で顔を覆って泣く中年男。姉貴、よく家に入れたな。警察を呼ばれなくて良かった。
「チャー介、懐いてるね……すごい人見知りなのに」
俺の手に頭をすり寄せているチャー介を見て、姉貴は冷たい麦茶をテーブルに置きながら、あきれ顔で言った。
麦茶は口に含んだらほんのり甘い。懐かしい実家の味だ。
「ねぇねぇ、克哉!」
勢い良く呼ばれて、俺と克哉が同時に顔を上げる。
「……なんでこの人、反応するの?」
今度ははっきりと、克哉に向けて言った。……しまった。またやっちまった。姉貴のあっち向いてホイみたいな誘導に、二人して簡単に乗せられた。
「ねぇ、この人……誰?」
* * * *
「うーん……にわかには信じがたい話だけど……」
洗いざらい白状させられて、免許証も取り上げられた。俺も克哉も姉貴には逆らえない。それは魂に刻まれた何かによる、強制力みたいなものだ。……たぶん。
「二十年後とかは良くわからないけど、あなたが克哉だっていうのは納得出来るかな。だってほら、チャー介もわかってる」
姉貴の言葉にまた目頭が熱くなる。呆れた顔で見てくる克哉に面目ない気持ちになる。いや、普段はこんなじゃないから。
「三日後に美咲ちゃんが……ってのも、止められるもんなら止めて欲しいわね。つーか、私も協力するわ」
美咲は何度もうちへ遊びに来ていたし、姉貴とも気が合っていた。
そろそろ母親が帰って来る時間なので、姉貴が車を出してくれることになり三人でファミレスへと向かう。話し合わなければならないことはいくらでもある。俺と克哉は、かなり心強い味方を得ることができたらしい。
「まずはイチさんの身の振り方よね。お金、使えないんだっけ?」
「デザインが変わってる。自販機はわからないが、使うにはリスクが高い」
「両替してあげる。二十年後には使えるんでしょ? なら問題ないわ」
帰省にともない、いつもより多く現金を持っている。これは非常にありがたい申し出だ。銀行のATMへ寄り、八万円と少しの使える現金を渡される。それだけで、ずいぶんと気が楽になった。とりあえずしばらくは、これで何とか凌げるだろう。
「父さんと母さん、信じてくれるかな?」
克哉がトリ五目チャーハンをかっ込みながら言った。
「きちんと説明すれば信じてくれる気はするけど……面倒くさいわね」
「ああ、俺、ビジネスホテルにでも泊まるよ。金が使えるなら問題ない。連絡は……」
スマホをポケットから取り出して、圏外なのを確認する。やっぱり使えないようだ。第一、俺の携帯番号は高校生の頃から変わっていない。つまり克哉と同じだ。
「ダメみたいだな……」
「それ、ケイタイ? うわっ、すっごい画質! 全面液晶でタッチパネルなの? 信じられない!」
「これゲーム⁈ なにこれ、なにこれ! スゲェェェ!」
二人でスマホを覗き込み、大騒ぎになる。イッキに注目されてしまい、慌てて取り上げる。
「あとでゆっくり触らせてやるから!」
実はリュックの中に携帯ゲーム機も入っている。オフラインで遊ぶなら、そっちの方がいいだろう。
「二十年前か……プリペイド携帯ってあるか?」
「ああ、なんか聞いたことあるかも。先に料金支払うやつだよな?」
「明日買って来るよ。そしたら連絡も取れる」
二十年前の両親にも会ってみたい気もするが、きっとがっかりさせてしまう。不甲斐ない現状を思い出して気後れする。
「イチさんさぁ……もちろん克哉にも似てるんだけどさ」
姉貴がチラチラと俺と克哉を見比べながら言い、ふふふと含むように笑う。
「「父さんそっくり!!」」
姉弟二人が声を揃えて言った。
姉貴はキャハハと声を上げて笑い、克哉が頭を抱えてテーブルに突っ伏した。