第二話 使えるお金が六百七十円しかない
「美咲、だよな?」
もう一度声をかける。
「そう……ですけど……。おじさん、誰ですか?」
状況が把握出来ない。全てがあり得ないほどの偶然で、当時の美咲そっくりの女子高生の名前がたまたま『美咲』で、懐メロ好きな彼女が同じ曲を練習していただけ? そんなことがあり得るのだろうか?
彼女の誰そ彼に応えられず立ち尽くしていると、背後から転がり落ちるような勢いで自転車が土手を駆け下りて来た。
「美咲! 大丈夫か? おっさん、何の用だよ! 美咲から離れろ!」
左足を軸にドリフトして、彼女と俺の間に割り込むように立ち塞がった見覚えのあり過ぎる男子高校生。
あれ……これ、俺じゃね?
顔といい、声といい、似ているどころじゃない。自転車のメーカーも車体の色も、俺が大事に乗っていた当時の愛車と同じだ。
何を馬鹿なことをと、親戚一同の年齢と性別を思い浮かべる。姉貴の子供は小学生だし、二人とも女の子だ。従兄弟はどうだったか? もう十年、顔も見ていない。
そんな風に血縁関係の可能性を探りながらも、俺には確信のようなものもあった。
ああ、やべぇな。これ……俺だ。
理屈ではない何かが、ストンと胸に落ちて来た。
(ちゃんと彼女を守っちゃうんだ! こいつ、ヒロインを守るヒーローみたいなことしやがった!)
湧き上がる照れくささと『やるじゃん!』という自己肯定感。身内に感じる気恥ずかしさや自画自賛に近い感情だ。とうてい初対面の少年に抱くものじゃない。
自転車の車輪で千切れた草の葉が、突然の風に煽られて舞い上がる。青臭い風は母校の制服のスカートと少年の髪を揺らして、雨の予感を連れて来た。
「君は……一ノ瀬、克哉……くん? 君は、森宮美咲さんか?」
噛みつくような表情で俺を威嚇する少年に、指差し確認をする。
「だったら、何なんだよ! 通報するぞ!」
頭を抱えて座り込む。『何なんだよ』。それは俺も聞きたい。誰か……誰か、説明してくれ。
* * * *
免許証を見せて、俺の状況を説明した。疑いの視線を緩めることのない克哉少年に対して、美咲は意外なほどあっさりと俺を二十年後の克哉だと信じてくれた。
「だって似てるよ! 顔もそうだけど、立ち方とか歩き方がそっくり。目元のほくろも同じだし、つむじの場所も一緒。へぇー! 克ちゃんの二十年後かぁ……。ぷくく! しょぼくれてるね!」
「……信じたくねぇ。こんなん、俺じゃねぇ……」
大概失礼なことを言われたが無理もない。なんとなく『すまん』と謝ってしまった。
二人はもうすぐ十七歳。高校二年生にとって三十半ば過ぎの俺は、間違いなく中年のおっさんだ。
おそらく、タイムリープだかタイムトリップと呼ばれる現象が起きたのではないかと思われる。仮にそうだとして、トリップしたのは、俺か……それとも目の前の二人なのか。
そんなのは周囲を見渡せば街の様子でわかりそうなものだが、ここは片田舎の河川敷。おまけに俺は四年ぶりの帰省だ。
「いつもと変わらないよ。ほら、あそこ工事中でしょ? 先週からはじまったの」
美咲が対岸の道路を指差して言った。そうか、異邦人は俺の方か……。
手汗のにじむ手でスマホを取り出すと、案の定圏外だった。二十年前の平成十四年。iPhoneの初号機が発売されたばかりだな。まだまだガラケーとEメールの全盛期だ。
「平成十四年の八月三日だよ!」
美咲がなぜか嬉しそうに口にしたその日付けに、背中に冷たい汗が吹き出た。忘れられないあの日の……わずか三日前だ。
興味深々の美咲を無理やり家まで送り届け、克哉少年を目についた近所のラーメン屋に誘う。早急に伝えなければならないことがある。
「この店美味いんだ! 有名な老舗だぞ」
「出来たばっかだよ……」
噛み合わない会話を交わしながら、財布の中身を見せる。二十年前……俺の持つ紙幣や硬貨は使えるんだろうか?
「五千円と千円札はダメだな。見たことない。1万円は同じ……あ、なんか裏が違うかも」
「硬貨は?」
「大丈夫だ。でも年号が……。令和って何?」
「平成は31年までなんだ」
克哉少年が額に手を当てて、大きなため息をつく。
「あんた、本当に未来から来たっぽく見える。でも、あんたが俺だなんて、やっぱり信じられない」
「俺だって同じだよ。でもどうしても君に話さなければならないことがある」
けっきょく、俺の財布の中身を全部ひっくり返しても、この時代に使えるのは六百七十円だった。二人分のラーメン代には足りない。
『シケてんなぁ』とぶつくさ言う克哉少年を連れて、コンビニへと向かう。ペットボトルの飲み物を二本買っているうちに夕立が来た。激しい雨と稲光りを見ながら、そのままコンビニの軒先で雨宿りする。美咲を先に帰しておいて良かったと思う。二重の意味で。
この土砂降りは、鮮明に甦ったばかりのファーストキスの記憶をまた呼び起こす。生きて動いている美咲の顔なんか見たら、背徳感で死にたくなる。生J Kヤバイ。
「なんだよ話って……なんか聞くの怖え……」
俺が黙って稲光りの走る空を眺めていたら、隣からぼそりと声がして我に帰る。俯いた克哉少年は、俺の記憶よりも幼く見えた。十六歳……俺の感覚では、まだ子供の範疇だ。
「美咲のことなんだ」
「うん。何となく、そうだと思ってた。あいつに何が起きるんだ?」
「……交通事故だ。俺の生きた時間で、美咲は八月六日の晩、バイクに跳ねられて死んだ」
「はっ? なに……言ってんだよ。面白くねー。へんな冗談言ってんじゃねぇよ!」
よく似たセリフに覚えがある。あの日、美咲の事故を知らせてくれた電話に、叩きつけるように口にした。
そして思い当たる。おそらく俺は、それを止めるために戻って来た。
「まだ起きていないことだ。止められる。止めよう。このまま美咲を死なせるなんて出来ない」
俺がこの時間に干渉することが出来るのかわからない。でもやらずにいられるわけがない。
俺の真剣な様子に、克哉少年がくしゃりと顔を歪めた。あの晩、現実感のないまま走った街の喧騒と祭囃子がフラッシュバックする。
(俺もきっと、こんな顔で走っていたんだろうな)
辺りが一瞬明るくなり、遅れてバリバリと凄まじい音がする。そう遠くない場所に雷が落ちたらしい。コンビニの中から『キャー』という叫び声が小さく聞こえた。
やがて涙目になった克哉少年が顔を上げ、強い視線で真っ直ぐに俺を見返してきた。
「やる。あんたの話を信じる。協力してくれ!」
ああ、俺は……こんな目をしていたんだな。自分の可能性を、理由もなく肯定出来る傲慢で強い目だ。怖いもの知らずで、欲しがりで、挫折のひとつも知らなかった。
まるでこれから育つ若葉みたいだ。育つ気満々のくせに、くしゃりと丸めれば、簡単に握り潰してしまえる。
気恥ずかしくて、鬱陶しくて……そして眩しくて目を逸らす。
「宿題なんかやってる場合じゃねぇ……」
克哉少年が拳を握り、重大な決意を口にするみたいに呟いた。その言葉に、まぁそうだな。宿題よりも大切だよな、と笑った。それ、微妙に格好良くないよと言いたくなる。
目の前の少年は確かに俺だ。アホみたいに一生懸命で、空回りしても……負けん気だけで生きていた。
八月六日まであと三日。たった三日で何が出来るんだろう? 俺は苦笑しつつ、克哉少年の肩を叩いた。運命を変える相棒としては、この上なく頼りない。
「そうだな。変えよう。美咲のいなくならない夏休みにしよう」
俺と克哉少年の、なかったことにするための、三日間がはじまった。