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虎になる前に

作者: 雨森菊

自分の心に住む傲慢さを自覚していながら、それをいまだうまく飼い慣らせていない「私」の話。

虎はタイトルにしか出てきません。



 大人になるということは。

 “できる”と見なされるものが増えていくということであり、超えるべきハードルが上がっていくということだ。

 ……少なくとも、私はそう思う。




 日が高くなってきた気配を感じ、プレッシャーからの解放感を覚え始めた頃、ようやく布団から頭を出す。目覚まし時計の針は午前11時45分を指す。数学の授業が終わった時間。

 空腹に耐えられなくなり、ベッドから降りる。リビングへのお供にスマートフォンに手を伸ばすと、軽いサウンドが鳴った。通知が目に入る。


『放課後部室集合』


 部活のグループLINEではなく、個人宛。学校にいるはずの時間、相変わらず校則を守る気もなく、スマホを使っているのだろうか。呆れともなんとも言葉にしにくい感情が顔に表れてるのを自覚する。


『欠席なう』


 話すスピードと大差ないほど滑らかに指が動く。


『^_^b』


 教室に先生が来たのだろうか、それ以降メッセージの更新はない。


 少しため息をついて、問題集を放り込んだスクールバッグの蓋を閉めた。




「おはよう」

「おはよう、もう夕方だけどな」


 ガラリと開けた部室のドア、奥にいるのはメッセージを送ってきた張本人だけ。

 そいつは私の顔を見てニヤリと笑った。


「で、今日はなんで休み?」

「しんどかったから」

「課題は?」

「これ」


 スクールバッグから取り出したのは数Ⅱの問題集とノート。


「じゃ、ちゃっちゃか片付けますか」

「今日終わる量じゃないよ」

「いい、いい。ちょっとでもできたら楽になるだろ」


 うんにゅ、とよくわからない音が自分の喉から漏れる。適した気遣いをされるのも、自分のことをわかられている、いや見抜かれているようで複雑だ。

 苦虫を噛み潰したような顔で、問題集を開いた。




 別に、数学が特段苦手なわけではない。

 多分、毎回授業に出ていれば追いつける。

 と、自分に言い聞かせながら。

 それでも、課題の山という壁にぶち当たる理由の一つは、わからないところをほってはおけないからだ。疑問の解消に時間がかかり、課題を締め切りまでに片付けることが困難になる。


 この人がいれば、その問題はおおよそ乗り越えられる。わからないところはすぐに解説してもらえるからだ。


 解説文の読み解けない部分が解消されると、胸がすく。頭を埋め尽くす不安が軽減される。負担が、また一つ減った。


 しかし、私にとっては、課題の存在そのものが、大きな負担だった。


 締め切りの過ぎた終わっていない課題を抱えて教室になんでもない顔で座る。それがひどく難しい。それだけで、目の前は屋上から見る空のように青く染まる。意識は屋上からの自由落下よろしくくらりとする。

 生きる気力も希望も無くなるほどなのに、登校だなんてとんでもない。時々逃げることを選ぶのだった。


 この悲しいほどの不安症な完璧主義は、どうやら性格の根本に位置していて、どうにもこうにも解決できないでいた。



 だから、部活の時間を削ってまで、この人が付き合う必要が私にはあるわけだ。


 睡眠時間をいくら削っても解消できない課題の山を抱えながら、部活動に励むことなど、到底軟弱な私にできるはずがなかった。


 去年から何度も、部活を辞めると喚いて繰り返し、その度に引き留めたのがこの人だ。

 限界が来るたびに休部し、居残り課題を共にやり、テストが終わって開放的な気分になっているところに部活に引っ張り出され、そんなこんなを繰り返し、とうとう2年の秋。


 実力派、成績優秀、人望ピカイチ、横暴なワンマン経営の演劇部現部長の寵愛を受けた私は、幽霊部員ながら人権を失うことなく、部活の隅に存在し続けられた。


 三年生も春には引退し、実質最高学年の我々ニ年生は良い役が回ってきやすくなった。私も、練習にはほとんど参加できていないながらも、実力は確かであった(ということだろうと思う)ため、この度主役に抜擢されもしたのである。


 しかし、それと気温の急降下、中間テストが被ったのが良くなかった。


 今となっては一週間に3日しか登校していない。多分、体育あたりの単位がそろそろ本当に危ない。


 ついに私は主役の座を手放した。

 だって無理なんだもの。



 私だって演じたかった。ピーター・パン。

 部室のあちらこちらに置かれた台本が、私の気を散らしてしまう。


 思わず、ため息が漏れた。


 本当は、主役を演じたかった。ただ、それ以上に手放せない理由が、自分の中では「部員に迷惑がかかるから」だった。

 自分がやりたい気持ちより、もう限界で逃げたい気持ちの方が強くて、でも逃げられない理由が他人のため。


 そこまで頭の整理がついてそれを全て告白したならば、部長であるこの人は、私に主役降板を促した。

「誰にも迷惑はかけないから」と。


 その言葉は真実だった。

 部長が何故今回役を演じず、裏方に徹すると言い出しのか、その時初めて悟った。

 プレッシャーに潰れやすい私が、いつでも役を降りられるようにするためだ。


 裏方に回ることを告げ、部員に「また次があるよ」と励まされたそのあと。

 私の代わりにセンターに立った部長が、そつなく主役をこなすのを、私は体育館の冷たい床に座って見ていた。

 実力も伴った部長が主役をやることに、誰も文句を言うはずもなく。


 始めから私が降りることは想定内だったのだと、その時悟り、私は少し失望した。


 最初から部長が主役をやるための筋書きだったのだろうか、私が脇役ならばプレッシャーに負けずに済んだだろうか、考えてもNOであるはずの問いが何回も頭を巡った。



 部長が主役をやるためのお膳立てだとしたら、この人をストレートに恨めて楽だったのだろうか。しかし、私はこの人が、心の底から私が舞台に立つのを心待ちにしていることを知ってしまっている。


 私が主役をするはずだった今度の舞台、最も喜び張り切っていたのは、他でもない部長だった。


 何故私が退部するのを引き止めるのか、尋ねたことがある。

 私が演じている姿が好きなのだと、臆面もなく部長は言った。自然に大きく動く手足、飛び跳ねるような歌声、百面相と言っても過言ではない(過言だ)表情。他でもない私の演じ方が好きなのだと、そういった。


 はなからそう言う人なのだ。私には到底理解できない。


 演じているものへのダメ出しが浮かぶことは星の数ほどある。しかし、好きとか、良いとか思った記憶はアマチュア相手じゃほとんどなかった。プロの中のプロの演技だけが、私の心を穏やかにして安心して魅せてくれる。


 私は演じるのが得意らしい、と主観的には気づいていながらも、客観的な裏付けとなる要素を得たのはその時が初めてだった。

 この人の私の演技への執着を見て、私はどんどん演じることへの自信がついた。


 同時に、人をそれほどまでに持ち上げる情熱と情熱を実現しようとするパワー、私にはないそれらを持ち合わせるこの人が、ひどく羨ましかった。


 近くに置いておくには、難儀な人だと思う。

 この人の存在が、私の傲慢を破裂寸前まで膨らませ、嫉妬を音を立てて燃え上がらせるのだから。


 ぽきりとシャープペンシルの芯が折れる。


 この人は、私の演技の中でも、特に主人公を演じることに高く評価する傾向にある。

 物語の中での成長を表現することに長けていると、そう言うのだ。


 ピーター・パンが作中に成長したとは私は到底思えないが、とにかく、演技においては私は主人公気質らしい。

 しかし、ヒーロー気質かといえばどうだろう。この人は、私の演技が他を引っ張っていくというけれど、元の性格を考えると私にはそう思えなかった。

 

 今もこうして部長に助けられている。むしろ悲劇のヒロイン気取りじゃないか?


 部長が部を引っ張っていく姿は、原作よりディズニーの、ロストチャイルドをまとめ上げるヒーローなピーター・パンにふさわしいと思う。

 だが私は、部長が本当に好きな役は、ウェンディのような芯の強い女性であることを私は知っている。知ってしまっている。


 しかしどうだろう。部長は本来やりたいはずのヒロイン役をやることもせずに、私にかまけてヒーローを選んだ。


 それもきっと、この人のやりたいことなのだろう。


 この人が本来やりたいことをできていないのではないかと私が訝しみ不満に思うなど、最もこの人が不服に思いそうなことだった。間違いなく自分の意思で自分の行動を決めていると、自覚し実行したい人だから。


 ただそれが、自分の力不足が生み出している状況だと思うと、やはり納得がいかない。

 私に現状を変える力はないけれど、でもこのまま部長をヒーローにしておくのは……。


「悔しい」


 そうだ、悔しいんだ。

 私は私のやりたいことを貫きたい。この人に助けられるだけ存在ではなくて、本当に舞台上のヒーローのようにキラキラする瞬間が欲しい。


 今のままじゃ、隣に立つことすらできていない。それが悔しい。


「急にどうした?」


 私の本音が声に出たことに、目を丸くする部長。


「主役になれなくて、悔しい」

「あー」


 納得するような声。


 今はまだ自分の足で自分の体を支えられない、踏ん張れないけれど。自分の体を崩れ落ちさせることはしたくないから、戦略的に撤退を選ぶけれど。


 この人をヒロインにできないのは、悔しい。


「悔しいなら、よかった」


 部長はそう言ってニカっと笑った。何がいいのだ、腹立たしい。


「だって、舞台に立ちたいって思ってるってことだから。また見たいよ、お前の演技」


 頬杖をついて、微笑む部長。優しい笑みにムズムズした。


「やるかはわからないけどね」


 そんな憎まれ口しか返せない。


「また主役をやると思うなぁ、お前は。お前は飛べるし、それを信じてるから」


 ”you can fly!”とサラサラとノートに書き込む部長。

 そういうところが悔しいのだというのに。


 「どうかな」なんて曖昧な返事しかできずに、ノートの隅に“I'll grow up!!!!”と書き込んだ。



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