【SSコン:段ボール】 ネオンサインの箱庭
近年、性交渉を億劫に感じる若者の比率が増加していると正にその近年の渦中に身を置く私は願わずとも小耳に挟んだことがある。ホテル街は、瞬きが目を刺す蛍光色のネオンサイン、噎せ返る酒の匂い、排他的な湿っぽい空気で溢れているものと思っていたが、案外空気は乾いていた。やがてはこの肺に亀裂を生じさせてしまうのではなかろうかと思うほどに、鋭い。シャッターが点在的に見受けられ、なるほど些か色気を醸し出すだけの廃れた裏路地と大した変わりはない。金曜日の夜、淫らにいい時間であるのにも関わらず腕を組む男女のただ一組も目に映りはしない。
繁殖行為が億劫。それは本能的にいえば間違いに当たるのだろう。生殖する意欲のない動物はやがては滅びゆく。だが人間はそれを容認し、種族の散りゆく様を傍観しているような諦めの良い動物ではなかったと思う。高々二十数年やそこらの歴史の、愚かに小さく狭い視野の中では少なくとも。何せシンパシーを感じる星を目を皿にして探し続けるような連中である。その手を己の支配の範疇を軽く凌駕した場所までどこまでも高く伸ばし、宙を描く。宙を描き、微かに握られた塵の中から僅かに光る硝子の破片を嬉々として拾うような。その硝子には一遍の曇りも傷もない。なんて、傷つきに傷ついて出来上がった元の形の一つもないそいつを満足気に握りしめるような。
夏の夜は暑い。地熱は、親が死して尚そこに居座り続ける。空気は、それに感化され熱く燃え上がる。轟々と音を立てたそいつは寒気を、またそれに付随した物悲しさを焼き払う。唯払拭しきれずに残った頑固な虚しさは、私の中に。
ホテルは一つ一つがとても大きいとは言えず、萎れてしまった花弁が徐々に茶色く朽ちてゆく様を彷彿とさせる雰囲気を纏っていた。活気は怖気づいて物陰に隠れ、明かりは照ることを拒む。行き場を失くした言葉は巣に戻り、分解される。その破片は再び湧き上がる言葉の一部となり、浮上し、沈み、腐る。淀む。老廃物が溜まる。そいつを吐き出す術を、私は知らない。
いつだかまだそう遠くない、私の背中に張り付くことを諦めない程度の時間を隔てた過去で、箱入り娘のドラマを見た。映画等娯楽を目的とした映像作品が見放題を謳った月額サービスに、新社会人と呼ばれる頃に入ったまま、請求額は毎月私の肩に伸し掛り。退会の手続きを踏もうにも面倒くさいので取れるはずもない元でも取ってみようかとおすすめに表示されたものを、一作。評価はどうだったろうか。私は、どう思っただろうか。
外界を知らずして育った主人公は、どんな人生を送っていただろうか。華やいでいただろうか。素敵な出会いの後、手取り足取り二人三脚で正解を生きて、人生を消費して笑顔を見せただろうか。ぼんやりと私の頭を掠めた違和感は、停滞することなく流れてゆく。
思い出そうとすることを諦めると、それは跡を濁すこともなく消えてゆく。美しい水流は水底を削り、それは何処へ流れ。透明度の変わらぬ川はただ音を立てて駆けてゆくばかり。 恐ろしくなるほどにさらりとした私の過去は、名残惜しさを感じさせてはくれない。血は時間を以て固まり、ドロドロと意固地になる。そうして傷を直してゆく。私の血が、傷を治すことはない。傷ついたら流れるばかり、脈々と巡る血は、心臓から無限に湧き上がり。死ぬこともなく、治ることもなく。
蹌踉と足の向くままに、なんて大層なことを言っておきながらも電車に乗って帰宅することに疲れて自宅最寄り駅から三つほど離れた駅で降りただけの簡単な話で。
満員電車の窮屈感は、深い海で溺れゆく感覚に似ていると思う。最も、溺れたことはないので憶測に過ぎないが。無数の波に押しつぶされて、呑まれて、息もできずにただ人混みの一部として溺れて、沈んで、消える。出勤時は焦燥で息の詰まるそこは、帰宅時には疲弊で息が詰まる。電車に楽しく乗れたのはいつが最後だろうか。
そういえば、実を言えば。二人三脚よりも二人四脚のほうが効率が良い。
「退屈だよ、その話」
口内が言葉を吐き出し続け、唾液も枯渇しようかという頃合いに、セミダブルのベッドの上私の手指を弄っていた女が声を上げる。私の話はそれの片手間であろう。
レズビアン用の風俗店は、以外にも私のような客も多いのだと気の迷いで立ち寄ったその日に求めずとも聞かされた。女性と性的な行為をする目的ではなく、ただ空虚に空いた穴を塞いでしまいたくて、話を聞いてほしいと頼まれることも珍しくはないのだと。
ただ正直、私は自分のどこかに穴が空いているとは思っていない。仮に空いていたとしても、私は元来そういう姿で生まれてきたのだ。
ではなぜかと問われればそれはわからない。暇つぶしで立ち寄るには財布が身軽になりすぎるし、下手したら、本当に下手したらもしかしたら同僚に見られたら。やはり、出世欲はないが自らが軽蔑される社会に身を投じるのは痛い。利点があるのかと言われれば、恐らくあまりないのだ。
「そう、ならやめる」
「ありがと」
必要性がないので服は脱いでいない。私は、性的行為を欲していない。そういう面では、私も会話を欲す承認欲求に飢えた顧客の一人であるのだろうか。彼女と満足の行く会話が出来ているのかと聞かれれば否ではあるが。
室内塗装は滲んだピンクを点在させた白。以外にも水商売的な雰囲気はない。煙草臭さが染み付いた壁は、一体幾つの行為を見てきたのだろうか。その中に愛し合った者同士の美しき交配など一つとしてない。それを前に何を思っているのだろうかなんて、不毛なことを考えてしまう程度にはこの場所に意義はあるのだと思う。
「箱入り娘、どうなったのか覚えてない?」
女は私のつまらない話の中何故か唯一それに興味を示して、結末を知りたがる。そいつがどこで産み落とされ、何を食べて育ち何を聞いて、見て世界を育み、生きてきたのかも知らないくせに。他人の人生の結末だけを知ろうとするのは酷く傲慢だ。
「うん。それに、架空の人物がどうなっても私は」
私は、どうでもいい。どこで誰が死んで誰が生まれても、幸福でも、不幸でも。勝手ながら私は世界をそういったものと認識している。
どうせ、いつどこで死んだって、もう天国などとうの昔に満床だろう。
「なにそれ、つまらない」
足蹴にされた私の言葉は床に転がり、起き上がろうにも膝を擦りむいてしまい上手く立ち上がれない。やがて這いながら、居心地の悪いこの場所から逃げようとする。そいつの腕を踏みつけてやると、じたばたもがいた末に息絶える。
そいつの屍は持ち上げるとまるで体重がない。重みがない。腐敗臭だけが鼻を突く。
「そろそろ、帰る」
それは酷く気味悪く脅迫的だ。
「まだ時間はあるけど」
女が壁の高い位置にかかった時計を見る。そいつは静かに針を動かす。
「またね」
まとめる程にもない荷物は、私という生命の軽薄を嫌というほどに物語る。この薄い壁は、脆い壁は、統べ括って箱である。土臭く雨に打たれ弱い。それに守られることでしか、安心できない私はきっと。
そう遠くないいつか再び社会に捨て去られたときに、私はまたこの場所でうずくまっているのだろう。小さな箱の中でこの頭を撫でる手を待つ私は。
扉を開けると、猫が鳴いた。見ると、私の足元で蹲るので。