おばちゃんは戻ってはこなかった
ブラインドコーナーの向こうから現れたバイクに、私は右手を高く掲げ、五指を広げて停止をうながす合図を送った。
ライダーは素直に停まってくれた。
彼はヘルメットを取るなり「脱輪っすね」と視線を軽自動車に向けながら言った。
「二人でなんとかなるかな」と、私は少年のような若い彼に協力を求めた。
「やったことないですけど」と彼は言うが、私だってそうだ。
「やってみますか?」と彼は積極的だった。
私は自分のカブに歩み寄り、シートに置いていたグローブを手にして戻り、軽の後部に彼と並んで立った。
はたして二人で持ち上がるものだろうか。
おばちゃんは黙って成り行きをみている。
二人で無理だったら、おばちゃんの力も借りることになるだろう。
さて始めますかという段になって、歯切れの良い4スト単気筒の排気音が、谷間の反響を伴って飛び込んできた。
まさに朗報だった。
オフロードバイクの青年が加わり、男3人掛かりであっさりと軽は路面に復帰した。
おばちゃんは恐縮して何度も頭を下げ、このままでは気が済まないので何かお礼をしたいと言う。
それについては、いちばん年長の私が三人を代表するようなかたちで辞退した。
それでもおばちゃんは、この峠道を下ったすぐの所に実家があり、冷たい飲み物を持ってくるから待っててくれと言う。
時間は掛からないからと言うし、飲み物くらいならと三人で顔を見合わせ、何となく合意に達した。
おばちゃんはそそくさと車に乗り込み、山道を下って行った。
三人は並んで、ガードレールに腰を預けて待った。
バイクの分野も年齢もバラバラの男三人にこれといった話題もなく、ただ黙って私は煙草を吸った。
しばらくしてオフロードバイクの青年が「やっぱり僕、急ぎますんで」と離脱した。
無理に引き留める理由はない。
それからまたしばらく待ったが、おばちゃんは戻ってこない。
場つなぎな会話も長くは続かない。
少年のようなライダーも、そろそろ待ちくたびれたようだ。
「来ないっすね」
「どうしたんだろうね」
30分は経っただろうか。
山の夕暮れは早い。
日はすでに山の陰だった。
「もう無理っす」
「来ねえな、行くか」
私のカブと少年のようなライダーの2ストレプリカの2台で峠道を下り、突き当りのT字路で国道に出て2台とも左折した。
少年のようなライダーは左手を軽く挙げて挨拶を送ってくると、アクセルを全開させてあっという間に緩いコーナーの向こうに消えて行った。
私の前には2ストオイルの燃えたにおいだけが残った。
まだ携帯電話も一般に普及していない頃の出来事だった。
あれから私は長年の不摂生がたたり、今ではバイクに乗れない体になって久しい。
元気だったころのバイクにまつわる思い出は良いも悪いも含めてたくさんあるはずなのに、不思議と思い出すのは決まってこの場面だ。
偶然出会っただけのライダー3人が行儀よく並んでガードレールに腰掛けていた。
私の吐き出す煙草の煙は、初夏の緩い風に乗って山間の空間に拡散していった。
谷を挟んで、まだ日が残った対面の山々の稜線上のすぐ上あたり、一羽の鷹だか鷲だかが翼を広げたまま風に乗って一点に滞空し、時おりくちばしを左右に振って悠々と下界を物色していたっけ。
あれからはたしておばちゃんは戻ってきたのだろうか。
あの二人のライダーは今でも元気にバイクに乗り続けているだろうか。
すべてどうでもいいような事だが、年を取って体も病んだ私は、何故かふとあのときの情景を、切ないくらいに懐かしく思い出すのである。
終わり