8、
鼻血騒ぎの翌朝、クレアは普段(といっても、結婚してまだ2日目だが)と変わらぬ生気のない顔をして食事室に入ってきた。
長テーブルの端にある席にバーナードに案内されて座るが、スープを目の前に置かれても、反対側のテーブルの端に座るルイスが食べようと促しても、テーブルの下に隠された手を上げようとしない。
「どうしたの?」
ルイスも食事に手をつけず優しく声をかけると、クレアは少しためらった後、少しだけ顔を上げてか細い声で言った。
「……お体は、大丈夫ですか?」
ルイスは慌てて口ごと鼻を覆う。昨夜大惨事を引き起こした台詞を思い出し、鼻の奥によくない前兆を感じ取ったのだ。
それを見たクレアは、青ざめて小さく叫んだ。
「大丈夫ですか……!?」
「だ……大丈夫だった」
ちょっとだけ間を置いて、顔から離した手に血が付いていないのを確認しながらルイスが言うと、クレアも一緒に安堵のため息をこぼす。
前日、前々日までとは違う、クレアの人間らしい反応。
人形のようであるより、悪くない傾向だ。──たとえそれが、ルイスの昨夜の醜態のおかげであっても。
クレアを動揺させたという根本的な問題を忘れてしみじみ思っていると、クレアはまた下を向いて、今度は泣きそうに表情を歪めた。
「き……昨日は、本当に驚いたんです。手の間から血があふれて……何か悪い病にでも侵されているのかと──」
本当に泣き出しそうになった様子を見て、ルイスは反省してクレアをなぐさめた。
「クレア……ごめん、心配かけて。悪い病気とか、そういうのじゃないんだ。ただ」
「興奮しすぎて鼻血を噴いただけですので、案ずるには及ばないのです」
「おま……っ! 何バラしてんだ!?」
壁際に立ってしれっと暴露するバーナードに、ルイスは視線を向けて怒鳴る。
叫んでからそれが肯定と変わらないことに気付いたルイスがはっと視線を戻すと、クレアは少し潤んだ目を上げて訳がわからない様子できょとんとしていた。
どうやら意味がわからなかったらしい。
ほっとした上に、クレアの涙も引っ込んだのを見てとって、バーナードに感謝すべきように思うけど礼は言いたくないという複雑な思いに駆られる。
ともかく、氷のようだったクレアの心にひびが入った。割れ目の向こうに見え隠れする感情を上手く捉えて、温かい日の下に連れ出してやろう。
──などと、得意でもないのに詩的(?)なことを考えながら、ルイスはクレアを庭に誘った。
「はい、わかりました……」
再び心を閉ざしてしまったクレアが、あまり浮かない様子で答える。
行きたくないのではと一瞬思ったけれど、そんなことはない。
クレアと出会ったのは、隠れ家のような庭園の片隅だった。
クレアの裕福な実家より少し小さいけれど(領主のほうが偉いはずなのに……ま、金儲けが得意な庶民のが栄えていくというのが、世の常ってもんさ←少しひねてる)、庭師が丹精込めて手入れしている庭だ。──ということは知っているのだが、庭を愛でる趣味のないルイスは、この庭を歩くのはずいぶん久しぶりだ。小さい頃はここでかくれんぼをしたりして遊んだ覚えはあるが、領主になるために呼び戻されてからは、慣れない仕事(と結婚式の準備)をするので精一杯で、庭に目を向けることすらしなかった。
庭は、ルイスの記憶と少し違うような気がする。記憶に残っている庭は何年も前のものであるため、多少作りかえられている部分もあるのだろう。
腰丈ほどの高さに選定されている薔薇の園の向こうに、背丈ほどの庭木で目隠しされている庭が見える。
最近流行りのスタイルの庭は、クレアの実家にもあった。
ルイスはふと思いつき、道すがら薔薇を愛でながら、気が急くのをこらえてクレアをその庭に誘導する。
思っていた通りこの庭にも、奥まったところにベンチが置かれていた。恋人たちが隠れて愛を語らうのにおあつらえ向きだ。
ルイスは手入れされたベンチにクレアを先に座らせると、自分もその隣に座った。
「初めて会ったのも、こんな感じの庭だったね」
「……はい」
返事をするクレアの声は固い。まるで会話を拒否しているかのようだ。出会いを懐かしんでくれるのを期待していたルイスは、がっかりしながらもこれからこれからと話を続ける。
「君はこんな感じのベンチに座っていて、そこに僕が現れて、こうして並んで座ったんだよね。なつかしいな……」
ほんの一カ月前のことなのに、妙に昔のことに感じる。
あの時と、クレアの様子がまるで違うからだろうか。
気詰まりな園遊会を抜けだして好きなものを頬張ろうとしていたクレア。
あんな無邪気な彼女に戻ってほしい。
そう思ってあの時の思い出を語るのだけど、クレアの表情はみるみる強張って、とうとう相槌すら打たなくなる。
クレアがそうまでなったところでようやく自分の作戦が失敗したと悟ったルイスは、庭に誘う名目で始めたミニデートを終わらせた。
クレアの心はどうして溶けない?
初めて会った日、はにかんだ笑みを見せてくれた彼女は、愛ではなかったかもしれないが、間違いなくルイスに好感を持ってくれていた。なのに今は、まるで溶けない氷のかたまりのようにルイスを拒絶する。
何とかしてクレアの心を溶かしたい。
そう思っていたルイスは、思い出のあの手に打って出ることにした。
「家政……ま、マリリエンヌ」
「何ですか? ご主人様」
「今から頼むことを、クレアに内緒で準備してほしいんだ」
「はあ……」
そうしてお茶の時間になって、談話室でクレアと落ち合う。
お茶のおともに用意されたのは、ジャムとクリームと、それをつけるためのパン。