スリーピング・ヒーロー
ヒロシは、夢や希望などというものは、小説やドラマの中だけの
ものであって、自分には、永遠に縁のない代物だと思っていた。
彼は、もうすぐ30歳にもなろうというのに、ちゃんとした正規
の職にも就かず、半年から1年間隔で、単純作業のアルバイトや
工場労働といったブルーワーカーの仕事を渡り歩いていた。
当然、生活に余裕はなく、何とか親元にいることで、ちょっとした
趣味に興じるくらいの楽しみを確保していた。
ヒロシの趣味は、昔の漫画本を集めて読みふける事だった。
最近のアニメや漫画、ゲームなどには、何となく馴染めず、古本屋
で手に取った昭和のヒーローものを読んで以来、そのとりこになり、
少しずつ、気に入った作品を集めるようになった。
特に好きなのは、本宮 ひろ志(名前が一緒なのも気に入っているら
しい)の『男一匹ガキ大将』だ。
彼の学生時代は、何の変哲もなく、淡々とした味気ないもので、そ
の分、漫画の中で繰り広げられる壮大なストーリーには心が躍り、
読後の一瞬間は、自分もヒーローになったような気分で、日頃の鬱
屈を少しだけ晴らせたようでもあり、唯一の至福の時間であった。
そんなある日、ヒロシに悲劇が訪れた。
通勤の途中、いつもの十字路を自転車でサッと過ぎようとした時、
猛スピードで左から走ってきたトラックにはねられてしまったのだ。
重体ながらも、何とか一命をとりとめたヒロシだったが、その意識は
戻らず、手術にあたった医師も、意識が戻る可能性は、かなり低いだ
ろう、という見解を家族(彼の両親)に示していた。
そして、医者は、家族に次のような話(相談)をするのだった。
「このまま植物人間として生き続けることは可能でしょう。でも、そ
れは、残された家族に大きな負担を強いることになります。」
「それでも、安楽死《この時代、家族の同意があれば、一定の条件
(ヒロシのような植物状態や末期の癌など)の元、安楽死させること
が認められていた》を選択するのは、家族には容易ではありません。」
「そこで、提案ですが、スリーピング・コミュニケーターを使って、
患者の意思を確認し、その上で、最終判断をされてはどうでしょう。」
スリーピング・コミュニケーターとは、特殊な訓練を受けた一種のエ
スパーで、専門の医療機器を用いて、ヒロシのような意識の回復が難し
い患者と潜在意識化で接触する人間のことを言う。
コミュニケーターが接触した情報を信じるかどうかは、家族次第では
あるが、それでも、一応本人の意思が確認できるとあって、家族の下
す決断の重さも、随分と和らげられると評判を呼んでいる最新の治療
法だ。
彼の両親は、その医者に、迷うことなく、コミュニケーターの手配を
お願いをすることにした。
彼と接触することになったのは、まだ20代の中頃と思われる若い女
性であった。
両親は、年配の女性をイメージしていたので、かなり驚き、不安にも
なったが、その女性の落ち着いた話しぶりに、徐々に落ち着き、もの
の数十分も立たない内に、彼女に対して絶対的な信頼を寄せるまでに
なった。
それだけ、彼女が優秀なコミュニケーターであるという証拠だろう。
彼女の名は、サオリと云い、コミュニケーターとしての仕事に誇りを
もって、患者や家族の為に、献身的に取り組んでいた。
いや、人生の全てを捧げているといってもいいくらいの取り組みよう
だった。
何故、そこまでストイックになるのか、その理由を知るために、
いずれ、彼女の過去にもふれざるを得ないだろう。
そして、いよいよ、彼女がヒロシと接触する時を迎えた。
その頃、ヒロシは、あこがれの『男一匹ガキ大将』の世界に入り、主
人公を含めた多くの登場人物たちと丁々発止を繰り広げる堂々とした
スーパーヒーローになりきっていた。
彼の心のどこかでは、この世界が夢、幻の世界であり、リアルな現実
世界に戻るには、多分、目を覚まし、この世界に背を向けるしかない
とわかってはいたが、この素晴らしい世界に、終わりを告げる気には、
到底なれなかった。
もし、このまま目を覚ますことなく(現実世界で)死んでしまったと
しても、悔いはないと考えていた。
そんな時、ヒロシの目の前に、突然、サオリが現れたのだ。
彼は、驚いた。
サオリは、自分の過去(現実世界)を詳しく把握していた。
何故、何故、何故、、、。
彼は、サオリに問いかけた。
「君は、何者だ。どうして、俺の過去を知っているんだ。」
サオリは、静かにヒロシに語りかけた。
「あなたは今、現実と死者の世界との境界線にいるの。」
「現実の世界では、あなたを安楽死させるかどうか、ご両親が
悲しみと絶望に心を痛めながら、とても、悩んでらっしゃるわ。」
「だから、私が、あなたの意思を確認するために、ここへ送られて
きたの。」
「あなたは今、楽しい気分かもしれないけれど、それは同時に、
あなたを思ってらっしゃる人たちに、果てしない苦しみを課す
ことにもなるのよ。」
ヒロシは、ぶるぶると震えながら、彼女に問いかけた。
「じゃ、じゃあ、もし、両親の苦しみを救うために、安楽死を
選んだとしたら、俺が今いる、この世界はどうなるんだ。」
サオリは、きっぱりと答えた。
「あなたは、無の存在になる。そして、いつか、新しい意識(魂)
として、現実の世界に帰っていくの。それが、人間の定めなの。」
ヒロシは、既に、現実世界の平凡な人柄(本当の姿)に戻っており、
サオリの言葉に言い返せないながらも、心の底からの言葉を発して
いた。
「オ、オレは、夢や希望のない現実世界になんか戻りたくない。
ずっとずっと、この世界で暮らしていきたい。」
「お願いだから、そっとしておいてくれぇ~。」
叫びながら、ヒロシはサオリに背を向け、駆け去っていった。
その姿を、サオリは、哀しいまなざしで見つめ続けていた。
現実世界に戻ったサオリは、両親に、次のように語った。
「ヒロシさんは、安楽死の話に戸惑っているようでした。出来れば、
このままそっとしておいてほしい。そんな、返答でした。」
「無理もないと思います。後は、ご両親の判断です。あまりお役に
立てず、申し訳ありませんでした。」
数日、迷った両親は、自分たちの先行きもわからないことから、泣く
泣くではあるが、安楽死という道を選択した。
その話を聞いたサオリは、医者と両親に、最後にもう一度だけ、彼と
接触する機会をつくってほしいと頼み込んだ。
彼女は、以前、とても愛する人を事故で失っていた。
正確に言えば、今回のヒロシと同じように、植物状態となった彼を
救えず、結果的に、安楽死という道を選ばざるを得なかったのだ。
その当時、彼女はコミュニケーターとしての駆け出しで、彼との接
触は、別のコミュニケーターに頼らざるを得なかった。
そのコミュニケーターが、彼が「安楽死」に納得し、残った人たち
への感謝の言葉を語っていたと聞いたとき、彼女は微妙な違和感を
感じていた。
本当に、そうなんだろうか。
そんなに、淡々と、この世に別れを告げられるんだろうか。
若い彼女には、とても納得できなかった。
その後、正式なコミュニケーターとなってからも、彼女は人間の本
質や潜在能力について、独学で学び続けていた。
人間とは、何だろう。
生きるって、どういうことなんだろう。
コミュニケーターとして、多くの死線をさまよう人たちと接触をして
いく中で、彼女は一つの気づきを得ようとしていた。
人間には、いろんな感情が備わっている。
そして、その感情は、生きている中で、激しくもまれ、かがやき、
一人一人の個性や尊厳を形作っていく。
人は生まれながらに、逃れられない宿命を背負っている。
それでも、種としての人類は、確実に子孫を残し続けている。
一人一人の人生は、小さな小さな一本道かもしれないが、その道が
いくつも連なっていく中で、いずれは大きな大河となり、人類という
大奔流が流れ続ける。
生きていくこと、人生とは、一瞬一瞬の意識と無意識との葛藤だが、
生きるという選択は、常に称賛されるべき決断ではないだろうか。
特に、苦しく厳しい局面、境遇においては、、、。
人は、それを悪あがきだと言ったりもするが、本当にそうだろうか。
もし、大きな罪や間違いを犯せば、その償いとして、安直に死を選ぶ
のではなく、生きて贖罪を晴らす、という道を選択する。
その行為は、人間ならではの決断、判断ではないだろうか。
自分は、悪くないのに、何故、こんなに苦しく、つらいのか。
それでも、より良い人生を信じて、苦しくても、つらくても、
生き続ける。
その思い(感情)こそ、人間の気高さのような気もする。
ただ、彼女が関わっている現実世界、安楽死の問題は、単純に「生きる」
という意味を問うだけの問題ではないような気もする。
そこには「生ききる」という[永遠不変の]人類のテーマも見え隠れして
いる。
どう、生ききればいいのか。
本当に、生ききったのか。
その答えは、一人一人で違っている。
当然だろう。
一人一人の思い、感情は、一人一人で違っているのだから。
それでも、哀しいかな、愚かな人間は、その答えを探し続けている。
ゆれる思いを嚙みしめながら、サオリは再び、ヒロシの住む世界へと
己の意識を集中させていった。
彼女は、一つの決心、思いを胸に抱いていた。
彼の魂を、人間の尊厳を、もう一度確かめてみよう、信じてみようと、、。
ヒロシは、彼の世界のトップ、スーパーヒーローとしての日々に
埋没しきっていた。
素晴らしい世界だった。
全てが、彼の意のままだった。
誰もが彼に従い、彼を称賛した。
でも、心のどこかに、冷め切った自分がいて、いつかの女性の
姿、言葉に、少しずつ惹かれ、納得している自分に、とまどっていた。
「俺の住む世界は、本当にここなんだろうか。」
そんな思いがよぎった時、突然、目の前にサオリが現れた。
「き、君は、どうして、ここへ、、。」
「あなたに、私の最後の希望を託したくて、戻ってきたの。」
サオリは、やさしいまなざしで、ヒロシに語り始めた。
「私には、わかる。あなたには、現実世界に戻れるだけの
強い意志とパワーが備わっていることを、、。」
「その力は、決して、この(まやかしの)世界では、使え
ないことを、あなたもわかっているはずよ。」
「生きることをあきらめないで、、。」
「もうすぐ、あなたのご両親の悲しみに見送られて、現実の
世界で、あなたの命の灯が消されようとしている。」
「あなた自身の力で、その現実を変えてほしいの。」
「きっとできる、必ずできる、私は信じている。」
ヒロシは、彼女と目を交わすうちに、自然と涙が流れ、
身内に熱いものがこみ上げてきた。
「俺は、俺であることを、放棄していたのかもしれない。
もう一度、ありのままの自分に戻ってみよう。」
「サオリさん、俺、頑張ってみるよ。」
自分を信じてくれる人がいる。
その喜びに背中を押され、ヒロシは、さらにサオリに問い
かけた。
「サオリさん、俺は、今、本気で現実世界に戻りたいと
思っている。」
「今の俺には、わかる。夢や希望は、誰かが与えてくれる
もんじゃない。自分で悩み、考え、生きて、手繰りよせる
ものだってことを、、。」
「サオリさん、教えてください。現実世界に戻るには、
俺は、どうすればいいのか、、。」
サオリは、優しく微笑みながら答えた。
「チャンスは、一度だけよ。ヒロシさん。」
「この後、私は病室のあなたの手に、そっと私の手を
重ねます。」
「そのぬくもり、鼓動を感じたら、ほんの少しでいいから、
握り返す努力をしてください。」
「その波動は、必ず私が受け止めます。」
「私を信じて、頑張ってね。」
「本当の世界、現実世界で再会できることを楽しみに
しています。」
最後の言葉を発すると同時に、彼女の姿は忽然と消えた。
その場所に佇み、ヒロシは、今までに味わったことのない
ほどの夢と希望に心を満たしていた。
「よぉ~し、ここから、俺の本当の人生が始まるんだ。
俺はあきらめない、もう、決してあきらめない。生きる
ことを、生き続けることを、決して投げ出さないぞ。」
サオリは、病室に戻っていた。
医者と両親に、10分間だけの猶予をもらって、彼女は、
ヒロシの右手に、そっと自分の手を重ねた。
「ヒロシさん、私はここにいます。」
「ここにいる私が本当の私、生きている現実の私です。」
1分、2分、3分と短い時間が過ぎていく。
医者も両親も、ほとんど諦めている中で、サオリだけは、
ヒロシの返事を待ち続けていた。
信じ続けていた。
9分、9分10秒、15秒、30秒、、、。
容赦なく現実の時刻は流れ続け、医者が安楽死の
準備を始めようと立ち上がったその時、奇跡が起きた。
ヒロシの小指が、ほんの少し、内側に動いたのだ。
それは、ヒロシにとっては、死神との必死の攻防だった。
そして、ヒロシは、その死神に打ち勝った。
本当のヒーロー、現実の世界のヒーローになれた瞬間だった。
「信じてよかった。本当によかった。」
サオリは、ヒロシから、人を信じることの素晴らしさを学んだ。
数年後、順調にヒロシは回復し、病院でリハビリに励んでいた。
ベッドの傍らには、サオリからの絵葉書が置いてあった。
そこには、こんな文章が綴られていた。
「あなたに、新しい夢が芽生えたことを喜んでいます。小説家の
道、大変だと思いますが、頑張ってください。私はいつもあなた
の味方、あなたの夢を応援しています。」
「私は今、コミュニケーターとしての新たな一歩を歩むために、
ニューヨークに来ています。私も、少しずつ、多種多様な人類
の生きざまを見極める、という夢に向かって邁進しています。
お互い、励ましあいながら、夢を追い続けましょう。」
窓の外では、子供たちの声が響き、白い入道雲が、夏の季節を
彩るように、まぶしく輝いていた。