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プロイセン戦役

 さて、イングランドとの争いのケリはついた。

王党派を支援していたイングランド政府やアルトア伯爵などはロシアに逃げ出したので、当面の間はイングランドが策謀の中心地になることはないと思いたいものだ。


 そしてイングランドが対仏同盟から脱落したことでプロイセンがふたたび中立に戻るかというと残念ながらそんなことはなかった。


「一度拳を振り上げたからには簡単には下ろせぬということか」


 そして本来であれば、プロイセンとのイエナ・アウエルシュタットの戦いでナポレオンはイエナのホーエンローエ軍を主力と誤解してベルナドッテとの軋轢を生じさせ、ダヴーの第3軍団には単独で倍以上の戦力のプロイセン軍主力と相対させる事となるが、プロイセンの兵力の逐次投入という愚策とダヴーの的確な指揮により、事実上のプロイセンの総司令官であるブラウンシュヴァイクと師団長であるシュメッタウを負傷させた。

そして、プロイセン軍の指揮統制は崩壊し、その後の追撃戦によってプロイセン軍に壊滅的な打撃を与えた。

その後のポーランド戦役でフランス軍はアイラウの戦い、ハイルスベルクの戦いでは苦戦するものの、プロイセンを降伏させ、フリートラントの戦いでロシア軍を破ってロシアとも和平を結んだ。

その結果としてプロイセンは領土のおよそ半分をフランスに割譲し、そこにはヴェストファーレン王国が建設され、プロイセンは兵力を4万までに制限される軍縮と1億2000万フランの賠償金を課せられ、ポーランドはプロイセンとロシアからも独立しワルシャワ大公国が建設された。


 しかしこの結果、革命戦争のオランダなどの民衆から、君主制度による支配からの解放者と扱われていたフランスは、ヴェストファーレン王国では重い軍役などの負担に苦しんだ民衆の反感を買い。プロイセンではフランス共和国は領土を奪った侵略者とみなされた。

そしてシャルンホルストやグナイゼナウをリーダーとした参謀制度が創設されて、プロイセン国内では政治や軍政などの様々な改革が行われた。

そしてナポレオンがロシアで大敗したのちの第六次対仏大同盟で同盟軍は全軍を3つの方面軍にわけ、そのうちひとつがナポレオン直属軍の攻撃を受けもち、他の2つがナポレオンのいない所を攻撃することで、ナポレオンの部下を次々に打ち破った。

ナポレオンの元帥達は皇帝の命令を忠実に実行するしか能がなかったが、同盟軍の各方面軍は独自の裁量で動けるだけの指揮能力を備えていて、その中心となるのは強力な軍制改革を経たプロイセン軍の参謀達であったのだ。


 結果としてライプツィヒの戦いでプロイセンを主力とする同盟軍にフランス軍は大敗を喫し、その後パリを占領されてその覇権は終焉する。

むろんそれを繰り返すべきでは無いな。


 そしてフランスはその後プロイセンに普仏戦争で圧倒的敗北を喫しナポレオン三世による第二帝政から第三共和政への移行を余儀なくされた。

つまりプロイセンが軍事大国になるきっかけはナポレオン戦争による大敗である。


「つまり勝ったからと敵対国を力ずくで支配しようとして

 相手の国民の怒りを買ってはいけないということだな」


 とは言え指をくわえてみているわけにも行かない。

私はプロイセンの宣戦布告に対して、オッシュ元帥に出撃を命じた。


「オッシュ元帥。

 軍を率いてドイツへ向かいプロイセン軍を打ち破るのだ」


「はっ、承知いたしました」


 プロイセン軍はライン同盟の1つであるテューリンゲンへ侵攻した。

この際プロイセンの名目上の総司令官は王であるフリードリヒ・ヴィルヘルム3世だが、実際の指揮は最先任将校のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントが執っていた。

彼はフリードリヒ大王に「プロイセン軍最高の元帥」と若い頃は呼ばれていたが年を取り優柔不断になっており、フランス革命戦争でもいいところはなかった。

だが、爵位こそが指揮権を優先するプロイセンは彼を総司令官にするしかなかったのである。


 さらに厳密に指揮権が規定されていたわけではなく、各師団同士の通信や伝令も徹底しておらず、同格の指揮官同士におけるいがみ合いなどでの指揮の不統一とあいまって各軍の連携は取れていなかった。

結果として言えば、オッシュはテューリンゲンでプロイセン軍を完膚なきまでに叩きのめした。

フランス軍はそのままプロイセン本土まで一挙に侵攻しベルリンを陥落させる。

しかし、元はポーランドであった東プロイセンのケーニヒスベルクにフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は逃亡しロシアの援軍をもって、フランスから国土を回復しようとしていた。


「果たしてロシアが素直にそれに応えるかな?」


 アウステルリッツの戦いでオーストリアと連合して戦ったロシア軍であったが、その結果クトゥーゾフを失い、得るものは何もなかった。

その為ロシア軍内部でもプロイセンへの援軍は意見が別れたようだ。

そして逃げ出したプロイセン王に代わって王妃ルイーゼがフランスに対して講和を求める事になった。


「どうかプロイセンに対する温厚な処置をお願いします」


 私は頷いた。


「うむ、わかっている

 不当に厳しい処置は行わなうことを約束しよう」


 プロイセンへはあまり厳しい処置は行わず、降伏したプロイセン貴族はそのままの地位を保証した。

しかし、ポーランドのプロイセンからの独立のみは認めさせた。

しかし、それが決め手となってロシアが東プロイセンへ援軍をだすことが決定したのである。


「ポーランドは独立させ、ロシアやプロイセン、オーストリアへの

 牽制と緩衝の役割をさせたかったがロシアはそれを認めないか」


 結局ポーランドでのロシアとの戦闘は避けられそうにない。

であれば兵への防寒装備を備えなければなるまいな。

防寒性の高い綿入れPコートや前開きVネックセーターの生産と配布を優先させるべきか。

凍傷などで兵士を多く失うのは避けたいからな。

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