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トマトの心臓

作者: 月野 嘘

「たかが十七年間で終わらせちゃうなんてねぇ。人生長いんだから良い事だってあるだろうに、本当に馬鹿な話だよ」


短い溜息と共に吐き出されたお祖母ちゃんの言葉。急に何の話をしているのだろうと思って視線を移すと、丸まった背中越しにお昼のニュース番組が流れているのが見えた。

十七歳の少女がいじめを苦にして自殺した、というニュースだった。

ニュースキャスターの四角い声が右耳から左耳へと抜けていく。自室で首を吊っているところを発見、遺書にはいじめへの苦悩が、学校側はいじめの存在を否認しており――。


「いじめなんぞに負けるんじゃないよ。折角の命を」


お祖母ちゃんの呟きが耳に刺さる。その背中を直視するのが後ろめたくて、私はそっと広げていた勉強道具を片付け始めた。グラスの汗が数学のノートの端をふやかしている。中に残っていた麦茶を飲み干すと、いつもよりほんの少し苦い味がした。


「あれ、瞳美ちゃん、どこにいくの」

「ちょっと二階で勉強するね」


重ねたノートで胸を押しつぶし、無理矢理笑顔を浮べると、お祖母ちゃんは申し訳なさそうに眉を下げた。


「テレビがうるさかったかね。お祖母ちゃん消すから、二階に行くのは止めなさい。熱中症になってしまうよ」


ちりん、と風に吹かれた風鈴が涼やかな音を立てる。予想通り私の考えとはずれた心配だった。別にテレビの音がうるさくて集中できないから二階に行くとかそういう理由ではない。寧ろ少しうるさいほうが自分は勉強に集中できる性質なのだ。

しかし、そういったことを説明するだけややこしくなるだろう。

お祖母ちゃんの折角の忠告をむげにするのも悪い気がして、私は曖昧な笑顔を浮べたまま、さっき立ったばかりの席に再び腰を下ろした。

皺々の手がリモコンを掴んでテレビを消す。いつの間にかニュースの内容は変わっていて、今年の猛暑についての話になっていた。ちらっと映った図によると、名古屋は三十九度近くになるらしい。まるでお風呂だな、お母さんは大丈夫だろうか、と思ったところで画面は真っ黒になってしまった。


「よっこらせ」


掛け声と共に丸まった背中がむくりと起き上がる。こちらに来てから一日数十回は聞いている言葉だった。お祖母ちゃんの口癖みたいなものなのだろうか。

数学のノートと問題集を開いて、よれた端を扇ぐ。ぺたんぺたんとお祖母ちゃんの裸足で歩く音がやけに耳についた。板張りだから余計にそう感じるのだろうか。極めて自然に持っていかれる空のグラスを横目にシャーペンを手に取った。


「瞳美ちゃん、砂糖は入れるかね」


台所の方から声がする。

どうしようか、入れようか入れないでおこうか。先程飲んだ麦茶の苦さを思い出して、私はシャーペンの尻を突いた。


「お願い、お祖母ちゃん」


不意に同級生の歪んだ口許が視界にちらついた。『高原さん、麦茶に砂糖入れてるんだって』『なにそれありえなーい』『味覚音痴なんじゃないの』『そうかもねぇ』……ぞくっと背筋に悪寒が這い上がる。

どうして私、彼女達に怯えなくてはいけないのだろう。

――ほんの数ヶ月前までは友達だった子も、いるのに。


「少し多めに入れたから甘いよ」


からん、と氷とグラスがぶつかる音がする。強張った顔を見られたくなくて、私は数学の問題集に視線を落とした。もともと俯き加減だったから違和感はないはずだ。頁に描かれたグラフには座標の示された点が三つ並んでいる。


「じゃあ、邪魔しちゃ悪いから、お祖母ちゃんは畑の方に行ってくるよ。何かあったら言いに来なさいね」

「うん」


俯いたまま返事をする。頭蓋骨のくぐもりを通さない声はどのように聞こえているのだろうか。ぺたりぺたりと粘着質な足音は少しづつ遠ざかっていく。

迷惑掛けている、それを感じないぐらい鈍いわけではなかった。

お祖母ちゃん、というか他人の目がなくなったせいか、緊張の糸が切れてしまったようだった。ぷつんと音を立てて。私はノートにキスするように勢い良くうつ伏せに倒れこむ。


「あー、何かもう、嫌だな」


頭で考えるよりも先に呟きが口を付いて出ていた。一体何がどう嫌だというのか、その説明は勿論出来ない。一つだけ言えるのはその『嫌』は今に対しての嫌ではなくて、これまであったこと、これからきっとあることに対しての漠然とした嫌であるということだった。

数式を書いた紙が額の汗を吸う。おでこに文字が写ってしまうなと思っても、体が重くて起き上がることが出来なかった。近すぎるが故にぼやけている視界、そこに彼女達の瞳が瞬きをしている。鮮明に思い出せる、得体の知れない宇宙人を目にしたかのような視線だ。


「たかが十七年だけど、でも一番の失敗だ」


人間失格の最初の一文が『恥の多い生涯を送ってきました』ではなくて『私は、その男の写真を三葉、見たことがある』だったからと言ってそれがなんだというのだろう。数ヶ月前の馬鹿な私は、それをむきになって訂正して、……それこそ恥の多い生涯を送る羽目になりそうだ。

少女の領域というのは恐ろしい。どうでもいいことで目を付けられたら最後、賛同と視線の暴力で爪弾きにされてしまうのだ。愛想笑いと曖昧な頷きがいかに大事なものであったのか、思い知らされる。

お祖母ちゃんの背中に思わず反感を覚えてしまったほど、今の私はニュースで自殺したという少女に近いのかもしれない。

ずるずると身体を引き起こすと、長針はいつの間にか一周を終えてしまっていた。時間が経つのは早いものだ、というよりは自分の沈みがそこまで長い時間だったのかと驚嘆してしまう。すっかり温くなった麦茶を手に取ると、グラスに付いた雫が腕を伝ってショートパンツに点々と染みを作った。生温く、仄かに甘い。


「瞳美ちゃん」


不意に名前を呼ぶ声がして、慌てて廊下のほうへ視線を向けた。開けっ放しの戸の向こう側には誰の姿も見当たらない。


「そっちじゃなくて、縁側の方」

「お祖母ちゃん?」


正しくそちらのほうに顔を向けると、麦藁帽子を被ったままのお祖母ちゃんが笑顔で手招きをしていた。こちらへ来いということらしい。皺々の両腕で抱え込んだ笊の上には、眩しい色彩の野菜が沢山載せられている。トマトに胡瓜、なす、トウモロコシ。


「採れたてで新鮮だよ。食べるかい?」


微かに汗を浮べた顔がにっこりと破顔する。いらない、と言いかけていた私は咄嗟にその言葉を飲み込んで、首を縦に振った。


「はい、トマト」


齧り付くには少し大き過ぎるトマトが手渡される。目に痛いまでの赤色だ。一瞬心臓のようだなと考えて、どうして自分はそんな感想を抱いたのだろうと首を捻った。全く似ていないのに。


「ありがとう、お祖母ちゃん」


私が縁側に腰掛けると、お祖母ちゃんもよっこらせと呟いて隣に座ってきた。こぶし四つ分ぐらいを開けた距離で、ともすれば肩がぶつかってしまいそうだ。しかし、離れるのもなんだか失礼な気がして、お祖母ちゃんが右側に笊を置くのを黙って見ていた。トウモロコシがゴロンと一回転する。


「ねぇ、瞳美ちゃん」


口付けるわけでもなくトマトを両手で弄んでいると、首に掛けたタオルで汗を拭いながら、お祖母ちゃんが口を開いた。私はその顔を直視することが出来ない。


「夏休みは残りどれぐらいあるのかね」

「あと三週間。だから、二週間後には名古屋へ帰る」


自分の声が冷たく耳に触れる。三週間後。三週間後には二学期が始まるのだから、私はまた学校に通わなくてはならないのだ。こびりついた嘲笑の耳鳴りが気分を重く灰色に染めていく。

自殺した少女のニュースが、脳裏を過ぎる。顔も知らぬ彼女も、今の私と同じような気分で毎日を過ごし、命を絶っていったのだろうか。それは、今頑張って生き延びていくのとどちらが大変な行為なのだろう。


「さっきは悪かったね」


文脈が繋がらなくて、私は思わずお祖母ちゃんの顔をまじまじと凝視してしまった。眩しそうに目を細めて遠くを見ている横顔は、私のほうを見てはいない。


「お祖母ちゃん?」

「自殺のニュースの話さ。お祖母ちゃんが言った言葉に、瞳美ちゃんは気を悪くしていただろう」


見抜かれていたのか、と背筋が薄ら寒くなる。正しい一般論がお祖母ちゃんの言葉のほうであることがわかっている分、それを見抜かれたというのはどうしようもなく後ろめたい気分になった。悪いことをしていたつもりは微塵だってないのだが。


「瞳美ちゃん」


身体を強張らせた私を労わるように、お祖母ちゃんがふっとこちらを向いた。琥珀色をした瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。深く優しい色だった。


「瞳美ちゃんが言いたいことはわかる。けれど、お祖母ちゃんはそれに賛成は出来ないよ。今は確かにつらいかもしれない。この先だって嫌なことが沢山あるかもしれない。努力は報われないことのほうが多いさ。何もかも上手くいくなんて、そんなことはない。だけど、そんなことに囚われて、僅かにでもある楽しいことを逃しちゃうのは勿体ない……とお祖母ちゃんは思うんだよ」


ふふっと照れくさそうにお祖母ちゃんが唇を歪めた。


「瞳美ちゃんには綺麗事に聞こえるかもしれないけれど、お祖母ちゃんは、少なくともお祖母ちゃんは生きていて良かったなと思うからね」


浮いた汗をタオルが拭う。よく見れば端に小さくイニシャルが入れてあるそれは、確か私が数年前に誕生日プレゼントで渡したものだった。

風鈴がちりんと音を立てる。

私は無言のまま、トマトに思い切り齧り付いた。

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