ラストシーン
葬式は、好きじゃない。
陰鬱な雰囲気になることだけが理由じゃなく、近所付き合いがその時にだけ発生するから。
殆ど交流のない人たちが、まるで義務であるかのように寄り合う。
村八分っぽいところが嫌い。
実際にそういう廃れた関係かどうかは、他人にはわからないが……。
親はどうか知らないが、おれ自身は近所と交流がない。
畑の裏のおばちゃんは成長したおれのことを知っているようだが、おれの旧い記憶はデスクトップのゴミ箱からも削除されたかのように――全く覚えていない。
根っからの八方美人を養子縁組して跡を継がせなければ、森本の家は凋落の運命を免れないだろう。
世間に対して疎隔や疎外感を持つおれには、嫡子の責務は荷が重過ぎる。
十川謙哉も長男だった。
おれと似たようなプレッシャーを感じていたかどうかわからないが……永遠に解放されて、そういう世俗的なものとは無縁の世界へ――昇って逝った。
「魂には絶対数が決まっていて、それ以上増えることも減ることもない。死は終わりではなく始まりであり、新たな可能性を求めて輪廻転生を繰り返す」――現世で誰からも必要とされない命から順番に【救済】されていくのなら納得もいくが、おれの身近にある現実は、そういう説法を信じる気分にはさせない。
補完のためのステップアップとして様々な形あるモノを経由するわけじゃなく、ただ宿主をとっかえひっかえするだけの生まれ変わりには全く意味がない。
前世の行いがどうのこうの――一般人と同じように記憶をリセットされている生臭坊主に言われたって、何の説得力もない。
非戦争主義者の前世が快楽殺人者だってことを否定する物証なんて、何も有りゃしないだろ?
結局……死んだら、それまでなんだ。
命の重さだとか寿命の長さだとか、動物だとか植物だとか――誰の裁量か知らないが、命の価値は不公平に創られる。
唯一の平等は、全ての生命体にそれぞれ一度だけ生と死が訪れるということだ。
人間として生まれた聡い命は、その根源を当然とは認めず、欲張って哀しむ。
親や親類が親や親類として存在することは、偶然に過ぎない。
お互いが望んで他人ではなくなる関係こそが、自由に選択できる必然だ。
あの場所で涙を流す権利があるのは、人生の伴侶になる予定だった五十川忍だけだと思う。
涙腺が鈍感なおれは、そう思うことで自分を肯定しようとする。
こんなヒネクレモノのおれが死んだ時でも、形式的な儀式に参加してくれる人はいるだろうか?
まだ生存している他の幼馴染みに、ナンボ包むか相談している……自分が嫌い。