ディナーパーティー
ここに来るのは、初めてじゃない。
だから……ゴージャスなレストルームを見ても、驚かない。
レバーを引くだけで自動的に三角折りができるトイレットペーパーホルダーを見ても、もう驚かない。
金縁の大きな洗面鏡に映った小顔の男に「おまえはここにいてもいいレヴェルの人間だ」と言い聞かせた。
リカと別れて――宝石屋の顧客であることを後悔しかけていたが……ステータスだけなら、申し分ない筈だ。
オートクチュールで仕立てた50万以上するエルメネジルド・ゼニアのスーツ。
サファイアをあしらった60万くらいのカフス。
袖ボタンのところに切れ目がある5900円のカッターシャツ。
その時一緒に同系色で揃えた2900円のネクタイ。
フレーム+レンズで4500円の眼鏡。
散髪代1700円の癖毛をセットする380円のジェル……。
今はまだタイタックだが、いずれジルコンの地位を引き摺り下ろしてエンゲージリングに落ち着くだろう税込み126万(現金一括!)のダイヤモンド――。
目立った言動を慎めば、キャッシャーの脇で仁王立ちする黒服を纏ったウェズリー=スナイプス似の用心棒に撮み出されることはないだろう。
赤い絨毯を歩むツヤ消しの靴も、頗る軽快だ。
流石に「シューフィッター」と豪語するだけのことはある。
田中且行……の知り合いには、感謝しなければならない。
給仕さんに椅子を下げてもらい、おれは席に腰を落ち着かせた。
日常生活に使用人がいないおれは「どうもどうも」といった感じで頭を下げて。
って言うんじゃな〜い。でもあんた、低いのは姿勢じゃなくて身長ですから〜。残念! 最上列の棚がレンタルできません、斬り!
見下ろした窓の外には、いかにも都会チックな光が踊っていた。
世界遺産に認定されているドナウ川周辺のような絶景ではないが……高級感溢れる雰囲気は、そこそこ漂っている。
カップル用の席が15コ、夜景が愉しめる窓際に配置されている。
その内周に、家族用だか接待用だか……大きめのテーブルが3つ。
床面積の割には、そんなに席数は多くないため、席間が広々としていてゆとりがある。
今し方通り抜けて来た回廊に飾られたホアキン=トレンツ=リャドの薔薇の右奥に分岐するVIP専用っぽい扉の向こうにも、セレブな感じの豪華な席があると思われる。
燭台も、おれたちのなんかより何倍もでっかいヤツが並んでいるだろう。
間違いない!
厨房へ続く通路の左手(おれの席から見て)にささやかなステージが設けられていて、ピアニストらしき女性がささやかな音色を奏でている。
クラシックに造詣が浅いおれにとって、初めて聴く曲だ。
衣装は「ささやか」とは言い難い。
……どこ見てんのよ!
高い天井には写実主義(何となくそんな感じ)の壁画が描かれていて――高そうなペンダントタイプの縦長シャンデリアが5本、葡萄が生っているみたいに吊るしてある。
……絵画にも造詣は深くない。
けど、アルフォンス=ミュシャが描く女性の絵は好き。
タロットカードっぽいのがいい。
聞いたところによると、彼の作品には模作が多いらしい。
……模写とカけてるわけじゃなくて、マジで。
絵画は眼で判断できる価値なんだから、贋物を掴まされても――幸せだと思う。
一生、気付かなければ……。
紗唯は、まだ席に着いていない。
シナリオ通り――準備段階だ。
それを遂行するために、おれは現地まで赴いて予約を入れた。
前日にも拘わらず、空きがあった。
デフレの波がなかなか退かず、バブリーな人間が少ないからか……おれたちの誕生日が、世間的に【特別な記念日】じゃないからか……単に暦の上で、平日だからってだけかもしれない。
って言うか、デカい。
写真よりも、かなり。
まぁ……12.1型の液晶画面と比べりゃ、当たり前か。
吹き抜けと言うか、メゾネットと言うか……サーキュラー階段を上ったところに、フィッティングルームがある。
ちょうど、厨房の真上辺りだろう。
紗唯は今そこで、衣装合わせの最中だ。
ホームページで貸し衣装のサービスがあることを知って、利用することにした。
サービスって言っても、ケチなおれが跳び付くような……無料じゃねぇけど。
それだけなら電話でも済むが……それだけじゃないから――ソレを持参して、昨夜訪れた。
彼らの居場所は、薄暗い箪笥の中じゃない。
多くの人の目に触れることで、美しく輝ける。
これで少しは……元が取れる。
パライバトルマリンのプラチナネックレスは、おれ自身が身に付ける機会を生むことができるから、ちょっとずつ減価償却できる。
しかし、女物はちょっと――
?
どこを見渡しても……時計がないな。
時間の束縛を忘れさせようという店側の配慮だろうか?
19時47分――。
あ、忘れてた。
紗唯が電車に揺られておれに逢いに来たあの日以降、紗唯と会う時は必ずその直前に電源をOFFってた。
メールはやっているから、送受信の一瞬なら気分を害することはないだろうが、会話中ずっと基地局から送られてくる電波は、繊細な体に支障を来す。
鈍感な本人は、全くその痛みがわからない。
喩えるなら――犬の鼻前で、すかっしっ屁を放つような……そんな罪悪感。
留守電モードにさえしておけば、長時間の有害電波に蝕まれる心配はないと思う。
しかし、念には念を――。
それなのに、今日に限って、何故か、入れっぱなしにしていた。
急用が舞い込んでくるのを期待して?
そうすれば、逃げる口実になるから?
――覚悟を決めろよ、いい加減。
左手の親指でフリッパを開け、電源を長押ししてから、ケータイを右胸の懐に戻した。
画面が暗転する直前、一瞬着メロが鳴ったような気がするが……ほかっとこう。
今これから起こる奇跡よりも重要な事件なんて、おれを取り巻く環境の中では起こり得ない。
窓の外は、既に華やかな街のネオンを着こなしている。
都市圏に於ける【横】への拡がりが飽和状態になり【縦】への意識が強まる近代にあって、この店は超高層建築物とは言い難い。
しかしながら、地上25メートルの夜景は結構ロマンティックだ。
高級レストランという雰囲気がそうさせるのかもしれない。
最上階から展望する景色もまた格別だろうが……縁遠い。
食前酒でさえ拒んだおれが、カクテルラウンジなんて……。
それからもうひとつ――最下階にも縁遠い。
ダイニングチェアの下には、何度も耳にしたことのあるブランドショップが店舗を列ねている。
ことを、エレベーターの案内図で目にした。
買うつもりじゃなく、ただ見るだけのウィンドゥショッピングができなさそうな雰囲気なので、このフロアで降りたことはない。
っつっても、まだ2回しか来てねぇけど。
……もう、来れないかもしれないけど。
いろんな意味で――。
3層の立体駐車場を挟んで、地下にはカジノスペースが設けられている。
本当に空間があるだけで、中はがらんとしているらしいのだが、実際のところはどうだか。
ロバート=レッドフォードみたいな中年紳士が、連日のように『幸福の条件』みたく豪遊してんじゃねぇのかぁ?
……まぁ、ここは管制室にいた老健な媼の話を信じよう。
法案が通る前から、設計段階で確保しちゃう店側がすごい。
すごい先見性だったと思える日は、一体いつになるのやら……。
とにかく、この建造物は言わば「高級複合施設」だ。
何はともあれ――そこにおれたちは、いる。
☆
後方で老夫婦(たぶん、夫婦)のどよめきが聞こえて、振り向いた。
着付けの女性(たぶん、そう)に左手を引かれて、右手でゴールドの手摺を辿りながら、円形階段を下りてくる。
付き添いは右手でスカートの左腰の辺りを持ち上げながら、半身の体勢で下りてくる。
それに劣らず、慎重に……プリンセスは履き慣れない不安定なミュールで、一歩ずつ――。
細い右足の踝に輝くアンクレットが階段を下りきったところで、髪をやってくれた女性(たぶん)が裾を上げる手を離して、エスコートする手を左から右に持ち替えた。
右は脹脛の辺り、左は引き摺るか引き摺らないかの丈のひらひらスカート。
それとは対照的に上半身はスリムなデザイン。
大胆に露出した肩をシースルーのショールが覆う。
結び目が鳩尾辺りにあって、そこに咲き誇る花が印象的だ。
大きく空いた胸元とのバランスも良く――一際引き立ててくれる。
……ぃや、谷間じゃなくて。
谷間はなくて……。
淡いブルーのドレスが、テーブルの前に到着した。
「どぉ?」
裾を上げて、紗唯がゆっくりその場で回転する。
大胆にカットされた背中に、肩甲骨がうっすら浮かぶ。
アップにした髪の下から初めて見る項と金の髪飾りが数秒――そして、両鬢の後れ毛が正面を向く。
耳朶の下にも――揺れている。
大人っぽいメイクが、はにかむ。
「いいんでない?」
引いてもらった椅子に、ゆっくりと腰掛けて――ヒロインは一息吐いた。
「座り難そうだな」
腰を浮かせて、何回かポジションを微調整する。
「下のほうがもっこりしてる」
「下のほうがモッコリ言うな」
マメうんちく――ネックレスのことを、韓国語で「モッコリ」と言う。
……クスクスって、笑われた。
「とってもお似合いですよ」
紗唯だけじゃなく、おれも含まれてるのか……それとも、おれたちの会話が分相応に低俗だったから皮肉っぽく……自らテーブルへ案内したんだから、そこは認めないか。
丁寧に一礼して、コーディネーターは掃けた。
「だって」
微笑は――無邪気だ。
「仕事だから……決り文句だよ」
本当に素敵ならいいが、そうでもない時は……他人を褒める仕事は、おれにはムリだ。
正直ジイさんだから。
「なんか、紗唯じゃないみたい」
右手で取った空のグラスを顔の前に近付けて、16歳の少女が付け睫毛の下から化粧を覗き込む。
アングルをいろいろ変えて、薄い藍色のアイシャドウが何度も瞬きをする。
本当に生まれ変わったんなら……すぐに死が訪れることはない。
間もなくテーブルにやって来た女性が、おれのグラスに水を注ぐのを見て、紗唯はグラスを元の場所に戻した。
が、それとは違うグラスにミネラルウォーターが注がれた。
おれは彼女に、同じ物で、何か料理に合う……ソフトドリンクをお任せした。
高級レストランのソムリエールに、ノンアルコールを選ばせる――何て贅沢な起用だろう。
料理もお任せにした。
昨日メニューを見せてもらったが……わからない。
フランス語っぽい筆記体も、その下に訳された日本語の意味もさっぱり。
できあがったカタチが想像できない。
マリネやらズッキーニやらジビエやら……何? 地名? 人名?
昨日の時点で、料理長のお奨めコースを注文しておいた。
支配人にご予算を訊ねられて、平均的な額を訊き返した。
椎礼琉の店の――倍の倍の倍くらいだった。
平均なんだから、下はいる。
だから、下回ったって恥じることはないのだが……おれの中の【えぇ恰好しぃなおれ】が勝手に声帯を奪って……中の中のちょい上くらいの価格設定で、宜しくお願いしてしまった。
これから職を失うって時に……。
ぃや「失う」とは言わないか。
自ら望んで、時間を創造するわけだから。
紗唯の左手が、グラスに伸びた。
中指の付け根――ちゃんと輝いている。
これで、全て確認した。
昨夜おれが店に預けたパールたちは、今漸く――紗唯に活かされている。
ネックレスとイヤリングのセットが収めてあるいい香りのする桐箱の蓋の表には、誰が命名したのか「花球真珠」と書かれており、その金色の達筆は誇らしげに光っている。
流石に……値が張るだけのことはある。
パールのファッションリングは、デザイナー曰く「指が長く見える」のが特徴らしい。
それにしても……1個だけなのに、こっちの単価が箆棒に高いのは何でだろう?
……テツ&トモが、リフレインする。
まぁ、いいか。
どうせ……おれの資産じゃねぇから。
宝石は、おれ自身の資産じゃないと思っている。
金を出すのはおれだが、おれ自身のために金を遣うわけじゃない。
だから、どれだけ金に困ることがあっても売り払うことはしない。
おれが真の価値を知る必要はない。
知らないほうが良かったと、後悔するかもしれないし……。
貰ってくれる嫁さんが喜んでくれりゃ、それでいい。
おれを貰ってくれる嫁さんが現れるかどうかが、微妙だけど……。
シャルドネのジュースが、ワイングラスに半分くらい入ったところで、滝の流れが止んだ。
赤ワインだったら少しグラスを揺すって、空気に触れさせてから……今は関係ないか。
って言うか、おれには関係ねぇか。
「じゃあ……」
グラスを手に。
「キミの瞳に」とか言おうかなぁと思ったけど……日本で5千番目くらいに似合わない男だと思ったので、止めた。
「……ふたりの誕生日に」
「かんぱぁい!」
口元の表情は大きく、声は控えめに――紗唯がグラスを掲げた。
グラスを合わせて音を鳴らすのは、マナー違反……って言うか、危ねぇし。
高いグラスが割れ易い以前に、テーブルの中央にキャンドル灯ってるし。
三又だし。
☆☆
28と16――同じ誕生日なんだから、12コ違いは永遠に変わることなく縮まらない筈だが……数学的計算式で答えが出るほど、人生は単純じゃない。
金の流れだって、バランスシート上で貸方と借方が合致していても、実質的にはアンバランスだ。
存在しない金が数値として瞬時に動くから……とにかく、数字は難しい。
おれがジジィになればなるほど――紗唯との差は、離れてゆく。
若いやつの可能性を搾取してまで長生きしようとは思わないが……もう暫くは、金を創造する側で頑張れるだろう。
体力はそんなにねぇけど、年齢的に。
……早く、仕事探さねぇとな。
昨晩おれは、求人情報誌の序でに、テーブルマナーの本を立ち読みしてきた。
どっちが序でだか……書店内に流れる曲が、最新シングルヒットチャートから蛍の光に切り替わるまでの――約1時間半。
思い出せるだけ、頭の中で復唱しよう。
グラスをチンしない――は、リスキーなので実践できた。
先ず、ウェイターが料理を持って来たら……早っ!
やるな、高級。
まぁ、24時間前に注文してるからね。
えーと……皿の上にクラウンっぽく飾られたナフキンを取って二つ折りにし、折り目を手前にして膝の上に置く。
紗唯も同じように、する。
おれを手本にするだけじゃなく……周囲を模範にしながら。
「季節の新鮮野菜とシーフードと生ハム、プロヴァンス風で御座います」
固定の皿(テーブルにくっついているわけじゃなく、テーブルクロスにくっついているわけでもない)に、彩り豊かな皿が乗る。
当然、レディーファーストだ。
料理を出されるのが十数秒遅れたところで、何にも気にならない。
だっておれは、ジェントルマンだから。
――オードブル――。
善哉は食えないが、前菜は食える。
「きれぇ」
ホントだよな。
正に、芸術って感じだ。家の畑で作ってる野菜も、料理人次第ではこうなるのか?
ぃや、赤や黄色のパプリカなんて作ってねぇか。
って言うか、料理云々以前に、うちのおかんは冷蔵庫の先入れ先出しが――止そう。
こんなことを考えてたら、折角の高級料理が愉しめない。
しかし、ホンっトに食うのがもったいねぇな。
食わなかったら……金がもったいねぇか。
「キミのほうがずっと綺麗だよ」なんてセリフは、その時これっぽっちも思い浮かばなかった。
椎礼琉んとこのも良くできていたが……やっぱ、一流はスゲェ。
あっちは雰囲気とかからして庶民的だったから、比較するのはおかしいか。
それぞれ、目指すところが違う。
ナイフとフォークは、向かって一番外側から使いましょう――だったよな。
……甘エビが……上手いこと……刺さらない。
「おぉいし〜ぃ」
……乗っけるのか?
――ぁ、刺さった。
落とさないように……OK。
美味い!
「うん」
のは美味いんだけど、おれ的にはあいつんトコのほうが……やっぱ、庶民か。
それにしても、紗唯は上手に食うな。
センスかな?
センスのないやつは、団扇……ぃや、どんどん経験を積んでいかなな。
やっぱ、立ち読みだけじゃ――
「ディズニーのだ」
?
クエスチョンマークがおれの額に浮かんだかどうかわからないが……紗唯はステージのほうを向いた。
たんたんたんたんたんたんスター
たんたんたんたんたんたんたらん
ジャズっぽいアレンジになっているが、ディズニーのだ。
ピノキオは観たことないけど……いい曲だ。
こういう知っている曲ばっかり演奏してくれると、ありがたい。
食事の背景音楽程度で、あんまりじっくりとは聴いてねぇけど。
料理で嗅覚と味覚を、BGMで聴覚を、目に映る全てで視覚を満たす。
『星に願いを』か……。
「星にならないでほしい」と、願う――。
☆☆☆
「鱶鰭――」
フ、フカヒレぇ〜?!
料理の鉄人で見た記憶がある姿形が、透き通ったコンソメスープに沈んでいる。
スープなんだから、具なんか入ってなくてもいいのに……。
って言うか、中華専用食材じゃなかったのか?
ま……まぁ、いいだろう。
手前から掬う。
音を立てずに飲む。
お皿は持ち上げない。
スプーンで掬えなくなった時点で、諦める――とまでは書いてなかったが、雰囲気がそんな感じだ。
適度に残すのがマナーか……ブルジョアだなぁ。
メロンパンの端っこだけ食って捨てる、みたいな。
……例文が、貧しい。
「おぉいし〜ぃ」
――嬉しい。
おれは別に、メシなんて何でもいい。
本当の笑顔が例えホンモノじゃなくても、素直に喜べる鈍感なおれを思いっきり賞讃してやりたい。
あぁ、素晴らしきかな! 永遠なる無知よ。
「うめぇ」
玉葱を適当な大きさにカットして茹でたお湯に賞味期限切れの固形コンソメを溶いて、森本家の台所で自分で作ったスープと比べるのもどうかとは思うが……ふかひれのトロトロに到達するまでもなく、このスープのひと口目がメチャメチャう
「クァンパァ〜イ!」
――っせぇぞ、紗唯の後ろのバカップル!
☆☆☆☆
「牛フィレのポワレです。こちらは松坂牛を使用しました」
はいはい、松坂ね。
西武じゃなくて、どっちかってゆぅと南部だね、地図上では。
別に驚かないよ、東海三県だし。
「ソースにはイタリア産白トリュフを使用致しました」
世界3大珍味ね。
豚が探すキノコの一種で――【美味】じゃなく【珍味】ってとこが……ちょっと、微妙。
給仕の短い蘊蓄を、紗唯は真剣に聴いていた。
嫌味っぽく知識を披露するわけじゃなく、さり気なく紹介して食欲をそそるところが、プロフェッショナルの成せる技だ。
全然カんでないし。
滑舌がキれてる。
――ナイフがすんなり入る。
刺したフォークから、肉汁が溢れ出す。
封印されていた旨味が、舌の上で拡がる。
「おぉいし〜ぃ」
焼肉屋で食べるふつ〜ぅのカルビが一番美味いと思っていたけど……三重県にあったんだよなぁ、こんなスゲェ肉が。
テレビで聞いてるだけじゃ、口の中で蕩けるという表現が今一ピンとこなかったけど――コレか!
殆ど噛まずに、消えて無くなった。
ある意味、詐欺だ。
おれは基本的に、高級食材に好きなものはない。
松茸の香りが嫌い。
蟹の食感が好きじゃない。
鮑に興味はない。
雲丹が食えない。
イクラは以外にもロシア語。
やっぱ、牛はいいね。
日本にイスラム信者が増えれば、需要が減ってお手頃価格でお求めになれるかもしれない。
おれの財布の紐を緩ませるほどお手頃になるには、小売店サイドでかなり勉強してもらわないといけないけど……それ以前に、スーパーから牛肉コーナーが消えるか。
……飛騨牛も有名だよなぁ。
そんな遠くないもんなぁ。
こっちも、東海三県だし。
これぞ晩餐、って感じがしてきた。
最期の晩餐――紗唯にとっては、そうなるかもしれない。
おれにとっても、恐らくこれが最後になるだろう。
……経済的に。
☆☆☆☆☆
フランスパンは……あんまり好きじゃない。
味がどうこうじゃなくて、固いから。
顎はそんなに発達していないし、しゃくれてもいない。
日常の食生活から考察すると……カルシウム不足は否めない。
骨密度、ヤバい。
時間的にも経済的にも食環境的にも――あらゆる面から総合的に評価すると、体に必要な栄養を充分に摂取するのは不可能だから……そのうち、サプリメントがおれの主食になりそうだ。
贅沢な食文化の中で育っているから、食を嗜好品に分類することができる。
何とも、幸せな限りだ。
フレンチトーストは好き。
クレイジークライマー……じゃなかった『クレイマー、クレイマー』を初めて見た(テレビの地上波で)後、自分で作ってみた。
おかんの実家から送ってきたバター(森本家の食卓に並ぶ料理には使われないから購入することはないけど、贈与されるなりしたらおれがトーストとかラーメンとかで使わないとなくならない)を一欠片低温のフライパンに落として、卵・牛乳・砂糖を混ぜたボールに浸した食パンをすかさず火にかけ、両面を狐色の手前くらいになるまで焼く。
ボールが空になるまで3日連続、朝食(正午前)はフレンチトーストだった。
1リットルのパックも消化しなければならないので、飲物はカフェオレにした。
粉末のインスタントコーヒーを少しお湯で溶いて、アイスミルクを注ぎ掻き混ぜる。
手間がかかるので、連休の時にやった。
50連休くらいある――大学生時代の話だ。
行儀よく手で一口サイズに千切って、バターナイフでクリーミーチーズを塗る。
朝食のパンには、いつも齧り付くけど……。
おれは食パンを耳から食べる人だ。
……ぃや、最初の一口目という意味じゃなくてね。
真ん中を刳り貫くなんて面倒臭い食い方をするやつは、殆どいないだろう。
半分に折るのは邪道だ。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
おれは新聞の折り込みチラシを敷いてマーガリントースト(バターやジャムよりグラム単価が安いから)を食う。
コーヒー(もちろん、インスタント)を淹れたカップを右端に置き、肘を突いた左手で持ったA3中央の真上辺りにあるトーストに顔を近付け、四隅の一角から齧る。
食い終わったら、ぼろぼろ零れたパン屑を灰皿に捨てて広告を軽く払う。
いい加減――親父にタバコを辞めさせたい。
体の心配をしているわけじゃない。
ヘビースモーカーだったひぃばぁちゃんは、九拾六まで生きた。
たとえ早死にして、その要因がタバコであっても、そんなことは自業自得だ。
ご親切に「吸い過ぎにはご注意ください」と警告もしてある。
自己管理能力の乏しいやつがどうなろうと、知ったこっちゃない。
おれが言いたいのは「稼ぎがねぇのに、嗜好品に金を遣うな!」ってことだ。
おれの稼ぎが消えるわけではないが、森本家からそんな物が支出項目に計上されることは、遺憾である。
酒・タバコは少々値上がりしても強い意志がない限り辞められないから、すぐに増税のターゲットにされる。
興味のないおれ的には、どんどんバカからの搾取を推進してもらって構わないが――自分がそのバカの血族である事実に腹が立つ。
戸籍謄本に載っているから、恐らくこの続柄は真実だろう。
98〜148円/4日〜6日(ドリンク代別途)のおれに比べ、現在無職の親父は毎日、88円以上の菓子パンだ。
そうじゃない日は、不確定要素の多い玉打遊戯に行く前のモーニングセット、税込み350円――。
他人に金を貸しているおれのほうが、プロレタリアン・ライフを満喫している。
因みに……マンガ喫茶には、行ったことがない。
バイトをしようと思った時期もあったが――マンガ喫茶に、入ったことがない。
【には、行った】と【に、入った】が、係ってるわけやね。
まぁ……こんな話も、どうでもいい。
上品な食べ方をすれば、屑は服とか床とかには落ちない。
皿を洗うだけで済む。
家でも外でも、それはおれの仕事じゃねぇけど……。
☆☆☆☆☆☆
「本日は御二方の御誕生日と伺いましたので、本日のみ御客様だけに特別のデザートを御用意させて頂きました。一度しかない今宵が、御二方の心だけに共有される良き思い出になれば幸いで御座います」
おれたちに一言挨拶してから、フロアマネージャーっぽい男性は厨房の奥へ入って行った。
この辺の感覚が、異質だ。
下々の人々と喜びを分かち合おうという習慣が、上流階級の人間の頭にはない。
この店内で、おれが一番【下】かもしれないってのに……。
偶然来店していたパティシエ(自分の店舗を名古屋の栄に構える専属のアドバイザーで、常駐はしていないらしい)が腕を振るったバースデープチケーキが、偶然12月2日に生まれたおれたちだけに振舞われた。
全体的にホワイトチョコレートムースでコーティングされた、ブルーベリーとラズベリーとストロベリーとムルベリーとビルベリーとエルダーベリーのミルフィーユ。
どんだけベリーやねんっ!
サクサクのメレンゲを台にして、アイスクリームやら生クリームやらホイップクリームやらが何層にも重なって……食い難いったらありゃしない。
牙城にフォークを入れた瞬間――芸術は、雪崩に呑まれた。
ラストオーダーくらい、綺麗に食いたかったのに……。
同じ食べ物を同じ食べる物で食べてるのに、皿の上が空になる過程の美しくさが全然違う。
がさつな姿が「男っぽい」と映っていたら、幸いだけど。
――紗唯は、出てくる料理全てに「おぉいし〜ぃ」とコメントした。
率直な意見だから、しょうがない。
聞き飽きてはいないけど……書き飽きたので、最後のほうはコピーして貼り付けた。
☆☆☆☆☆☆☆
ふたりでシャルドネを1本(750ミリリットルのだと思う)空けたところで、ちょうどコースが終了した。
――ようだ。
先ほどの着付けの女性が席までやって来て、紗唯を連行していったから。
おれもナフキンをクシャクシャにして、テーブルの上に置いた。
料理……じゃなくて皿を下げに来たウェイターに、着替えが終わるまでここで待つように言われた。
テーブルには、シャルドネが少し入ったおれのグラスだけが残された。
やぁ〜、食った食った。
日頃の少食が幸いして、量的にも堪能できた。
料理の味覚はもちろん、視覚効果もバッチグー。
ファイブスター・ダイヤモンド賞をいつ獲ってもおかしくないような店舗の総合演出。
そして会計も超高級……。
開店早々、ミシュランの有星店評価を得るかも。
まぁ、グッドイヤーを履いてるおれにはどうでもいいことだけど。
それ以前に、そういうことを思案する環境に全く縁がない庶民だから。
暫くして支配人がおれのところに来て、三品の真珠をどうするか訊いた。
おれは、また後日取りに来ると答えた。
彼は、それまで大切に保管致しますと言った。
――でなきゃ、困る。
今後、再び輝ける場所に巡り逢えるかどうかはわからないけど……。
「御会計の方で御座いますが、御支払はどのようになさいますか?」
今日もおれは、食い逃げなんてしない。
なぜなら、ジェントルマンだから。
値段は昨日訊いたので、この場で金額の提示はなかった。
おかげで、二度も驚く必要はなかった。
「コレって使える?」
かどうか、訊いてみた。
昨日訊くのを忘れたから。
老支配人はチェーンの付いた眼鏡を外して首に垂らし、細めた目にカードを近付けた。
「マスターで御座いますね」
あんたもね。
「結構で御座います、はい」
一応キャッシュも下ろしてきたけど……へぇ〜、使えるんだ。
振られたら歌おっかなぁ〜っと思ってたのに、便所入ってる間にお色直しが終わって、歌いそびれた。
新郎新婦はすぐにラスベガスへ発つ予定だったので、二次会もなく……おれは結婚式の帰りに、ビックエコーで1時間歌った。
独唱で。
それから何日か後に、オリコカード取得した。
DAMが何の頭文字なのか、その時に初めて判明した。
「それでは、あちらへ御願い致します」
付き合い始めるちょっと前に、会員になった。
リカはカラオケが好きだったので、重宝した。
室料20%OFFはデカイ――何を考えてるんだ?
おれはそんなに起用じゃない。
……筈だ!
☆☆☆☆☆☆☆☆
おれがキャッシャーカウンターでサインをしているところへ、別ルートから紗唯が辿り着いた。
メイク以外は、入店時と同じ姿――どう見てもジョシコウセイには見えない女性が多数在籍するお店のコが、おれの中ではこんなイメージだ。
鮮やかな口紅の赤は、全く色褪せていない。
その瞬間を、一気に通り越してオトナになっていてくれたら……一瞬、非現実的未来予想図を描いた。
「ごちそうさまでした」
「どういたしま――」
清水章吾とチワワが、過った。
「ボーナスまで待ちな――」と同じくらいの言葉尻になってもうた。
振り向いたら、紗唯は店員にお辞儀をしていた。
そう言えば……おれは今までに、ボーナスが貰える仕事に就いたことがない。
本来ボーナスは会社及び個人の業績に応じて支払われる臨時賞与で、製造業でもない公務員が伸び悩む税収の中で特別手当の受給資格を有しているという不条理が、おれにはさっぱり理解できない。
因みに――おれが取引したことのある消費者金融は、1週間無利息ノーローンだけだ。
……今のところは。
マフラーを返してもらって、聳え立つ吸血鬼狩人の脇を通り過ぎた。
昨日洗車した車は、一番上の駐車場(ビルの屋上という意味ではなく、駐車場としてのスペースの中で)に停めてある。
てっぺん取ったるとかいう意味じゃなく、用がある店に近いから。
エレベーターに乗り、3Fを押してから閉ボタンを押した。
B1Fに用はない。
って言うか、まだ営業してねぇし。
……ホントに、いつかは賛成多数で可決されるのか?
まぁ、ギャンブルにそれほど興味のないおれ的には、どっちでもいい。
偶に行くのは、趣味ではなく……交際費だ。
カマロに触れないようにトヨタ車のドアを慎重に開けて乗り込み、おれはエンジンをかけた。
ランボルギーニの1メートル以上前に1600ccを横付けして、紗唯を乗せた。
「おいしかったぁ」
この一時で、一生遊べるプレステ2を買えるくらいの出費をしたからな。
……1人前だけで。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして」
「御粗末さまでした」という返しはできなかった。
おれが作ったわけじゃねぇし、そんなギャグを言わせない内容だった。
螺旋を描くように、立体駐車場を下って行った。
「もう1回来ようね」とは――続かなかった。
ご愛読ありがとうございました。
セックスシーンが近付いてきたので【I say U(上)】はとりあえず完結ということにします。
18歳以上の方は、引き続き【I say U(天)】をご覧ください。