エンジェル
その日の予定が完了すれば、職人さんはすぐに帰る。
時間が余っても、決められた以上のことはやらない。
明日できることを前倒しして、今日の時間を潰すようなことはしない。
計画も現実的だし、実現する腕も確かだ。
スジ屋並みの段取りの良さだ。
スジ屋さんっていうのは、電車なんかのダイヤグラムを組むお仕事をしている人。
限られたレールの上で、正面衝突しないようオカマを掘らないように、運行表に線(スジ)を引いていく。
緊急車輛のことも考えて、ちゃんと空白を作るテクニックを必要とする。
そういうオモテにはないダイヤを……裏スジと呼ぶらしい。
流石は、職人。
改装期間に余裕があり過ぎるのも、一理あるが……。
ガラス張りの店舗を通りから覗いた時には、既に業者はみんな引き上げていた。
照明は点いてない。
真っ暗だ。
もう――冬だ。
おれが大家平のフラッツに着いたのは、エンジンを切る前に見たレヴィンのデジタルクロックで、18時27分――今朝ケータイの時間に合わせたから、間違っていないと思う。
兵庫県明石市まで行って、時刻調整したわけじゃねぇけど……。
管理人室には、管理人と――遠方からの客人がいた。
福建省から来た留学生は、奢ってもらったサントリーの烏龍茶をどう評価しているのだろう?
翻訳家になって、日本の時代劇を中国に広めたい――それが、陳さんの夢だ。
おれは日本の文化になんてあんまり興味ねぇけど……内側にいるから、良さが見えないのだろうか?
もしもおれが中国人に生まれていたら、カンフーを見てスゲェとは思わなかったかもしれない。
もしもおれがフランス人に生まれていたら、三銃士の戦闘スタイルがカッコイイとは思わなかったかもしれない。
もしもおれがイタリア人に生まれていたら……スプーンを使わずに、スパゲッティを上手いことフォークに絡ませて食べられるようになっていたかもしんない。
それにしても……こんな複雑な言語、よく覚えようとするもんだ。
我輩は猫である。
おいどんは西郷でごわす。
拙者服部半蔵と申す。
あっしは遊び人の金ってぇケチな野郎でさぁ。
ぼくドラえもん。
オラ悟空。
わしゃ亀仙人じゃ。
ぽっくんは大金持ちぶぁい。
私は花の子です。
俺の名を言ってみろ。
自分は不器用ですから。
おいらはドラマー。
ウチだけを見てほしいっちゃ。
――1人称だけでも、まだまだあるのに……。
あれだけの人口が、みんながみんな勤勉になったら、あっという間に世界のトップになれる。
何だ彼んだ言ったって、最終的にモノを言うのは、やはりマンパワーだ。
そういうことにしておけば……日本経済衰退の言い訳になる。
陳さんと入れ替わりに――末松家が到着した。
時間潰し(おれ待ち)に、インテリアを見て廻っていたそうだ。
イームズとかヤコブセンは聞いたことがあるが、サーリネンという名前は初めて聞いた。
ウームチェアが有名らしい。
ウームって、何?
う〜む……。
って言うか、ミッドセンチュリーは毎世紀訪れるわけだから――これからも50年代前後に革新的な流行が生まれたら、そのワードだけじゃ、何千何百年代なのかわからなくなる。
まぁ……細かい知識なんかなくたって、良いデザインの物を「イイ!」と思えるセンスさえあれば、生活はより豊かになる。
紗唯の学校の制服は、何年か前に卒業した生徒の原画を基に、遺志(?)を受け継いだ美術部の後輩たちが発足した制服製作委員会(顧問はなぜか、数学教師)が年内に完成させ、翌年の新入生から採用されたらしい。
ヤンジャンの制コレでアイドルの卵が着ててもおかしくないくらい、かなりイケてるデザインだと思う。
水色のカッターシャツ。
蝶々結びにした襟の青いリボン。
紺青のジャケット。
インディゴとクォーターグレイが交互に重なり合うチェック柄のスカート。
膝下まである白いルーズソックス。
淡いピンクのスニーカー。
茶がかったストレートヘア。
透き通るような、真っ白い肌――。
珍しく両手で紙袋を提げていた以外は、至っていつもと何ら変わらない筈の紗唯だが……何かが違う気がした。
レヴィンの錠を遠隔操作で解除して、おれは助手席のドアを開けた。
カローラの助手席側の後ろのドアから私物を出した紗唯は、レヴィンの助手席に膝を突いて後部座席にリュックを置いた。
後ろ姿を見て――違和感の理由が、理解できた。
バッグが違ってただけじゃなく、バックも違ってた。
15センチか20センチか……腰の上まであった髪が、短くなっていた。
自然に縮むことは、ない。
タモさん風に「髪切った?」と訊く――そんな機転が利くほどの余裕が、おれにはなかった。
「生えなくて悩んでいる人が、世界中にどれだけいると思ってんだ?」
――シュナウザー犬は毛が抜け難いというマメ知識も、ヅラ……すらっと思い浮かばなかった。
女性が髪を切る時というのは、大概……おれの所為だ。
あの手紙が、そうさせたに違いない。
歩んできた歳月を物語る象徴を、約1ヶ月の誤りを清算するために――紗唯は、心機一転を計った。
まだまだ寒くなるから、バッサリショートとはいかなかったようだけど……。
大家平は、カローラの助手席のドアを閉めた。
末松忠は、カローラの運転席のドアに鍵を挿して回した。
施錠を確認して、アルコール班はそそくさと街のネオンに溶けていった。
御見合いに付き添った親のように……。
そして――若い者同士が、ふたりっきりになった。
沈黙を破ったのは、
「ハッピバースディ」
……若いほうだった。
「ハッピー、バースデー」
眼鏡を掛けていなかったから、紗唯の瞳がはっきり見えなかった。
ぃや、見えなかったのは……逸らしていたからだ。
「はい」
両手を伸ばして胸の高さまで上げ、紗唯はおれに紙袋を差し出した。
右手で受け取って、中を覗いた。
左手で掴み上げると、それは解れて拡がった。
「手編みだよ」
――マフラーだった。
幸福の黄色い……ぁ、車のじゃないよ。
人力じゃ、解すのムリ。
おれがバースデープレゼントをもらうのは、これが初めて……じゃないか。
けど、女性からは初めてだ。
おかんやおばぁは、分類学上別の類に属する。
紗唯が、残された時間の全てをおれと過ごさなかった理由のひとつは、これかもしれない。
すごい先見性だと思った。
すべきことを時間ごとに、1個1個区切っていけば……おれも、計画的な人生を送れるのだろうか?
おれは……何も用意できなかった。
それどころじゃないくらい、パニクってた。
夏休み最終日に、40日分の日記を書いたり2学期が始まってから自由研究に取り掛かる――そんな心境だ。
【おれたちの誕生日】のシナリオは、前日になって急遽描いたが……【紗唯へのバースデープレゼント】は、何ひとつ用意してなかった。
ぃや……これでいいんだ。
カタチとして残る物なんて、きっと紗唯は――。
「ねぇ、して」
と言われ――おれが無造作に首に巻いたマフラーを、紗唯はいい感じに整えてくれた。
自分じゃ見えねぇし、それ以前にセンスがねぇけど……。
新妻にネクタイの曲がりを正してもらっている旦那のような感覚だった。
狭い路地にも歩行者がいて、少し照れくさかった。
黒いスーツに黄色いマフラー――現時点でおれが自分の姿を見る術は、紗唯の瞳を鏡にするしかない。
しかし、その照れ笑いが……至近距離で、紗唯から眼を逸らす口実にもなった。
――ぁ、ドアミラーに映ってる。
でも、裸眼だから見えない。
マフラーなんていうファッションアイテムを――然も、オシャレさんみたく巻くなんて、初めての経験だ。
中尾彬が特許を取ってたら使用料を払わなきゃならないので、あの真似はしない。
小学絞4年生の頃、ブランコ捩ってくるくる回す遊びが一過性で流行った。
給食のミルメークを吐いた子もいた。
良い子は、真似をしない。
「サンキュ」
軽く礼を言って、フロントから運転席側に回り、ドアを開けた。
ギアが抜けていることを確認して、エンジンをかけた。
『スピード』が流れてきた。
まだ走り出してないのに……。
もう――12月だ。
今月いっぱいは、クリスマスソングを聴く機会が多くなるだろう。
右下にルージュを滑らせたような筆記体の英字(読めない)が踊る白い紙袋を折り畳んで、ヘッドレストの耳元から後部座席に落とした。
助手席に乗ってドアを閉めた紗唯は、シートベルトを締めて――背凭れに深く収まった。
マフラーをしたままドライバーズシートに座って、おれはエアコンを入れた。
……何だろう?
まだ、違和感が残っている。
暖気運転の間を持たせるための会話を探した。
「あの、こと……だけどさ」
――核心に触れた。
「高級なとこでしょ? 楽しみだなぁ。悪いなぁって思ったら悪いから、今日は思いっきり楽しませていただきます」
「ぃや、メールじゃなくて……その――」
「紗唯に出逢う前、おれはリカという女と付き合っていた。おれには生まれつきヘソの所にアザというか……ホクロの集合体みたいな醜い物体がある。それを見せたくなくて、裸の関係を持たずに別れた。求めたリカを、おれは拒んだ。でも、それは言い訳に過ぎない。本当の枷は……おれがセックスに怯えていることだ。子孫を残す手段は、生まれながら遺伝情報として体が覚えているだろう。でも、考えてしまう。頭では、どうしていいかわからない。リカのことは、紗唯と同じくらい好きだった。それなのに……隔心の革新には至らなかった。だからおれは、セックスを許されない男だと思っている」
手紙に託したおれの【初告白】を、紗唯は完全に暗記していて、空で言った。
何度読み返したのか――一読しただけかも知れないが……信じてくれただろうか?
ぼんやり眺めていたウィンドウスクリーンの奥から、視線を外した。
「紗唯は、天使だよ」
アッシュトレイに伸ばした左手が、一瞬止まった。
「恋のカミサマの、おつかい」
眼鏡を、掴んだ。
「おにぃちゃんも許されてるんだって、伝えに来たの」
視力が、急激に向上した。
「それが終わったら、天国に帰るの」
ヘッドライトを、点けた。
「役目を果たすことは、もう運命で決まってるんだ」
――確信した。
「だから紗唯には、ちょっとしか時間がないんだよ」
この天使の想いを救い、自らの心も解放される――それが、理由も知らずに生まれてきたおれの……最初の存在意義だ。
背負う苦悩の絶対量が、紗唯とおれでは月と鼈だ。
おれがどんなに肉体的な醜さや精神的な脆さで、人生をネガティブに考えていようと――じわじわと歩み寄る死の足音が聴こえてしまう恐怖には、到底及ばない。
三十年後に生きていることが当たり前のように、みんな老後の年金を心配する。
生命保険の予定利率の引き下げを憂える。
明日も見えないこのご時世に……自分に未来が訪れることを信じて疑わない。
そいつらと同様に、おれには【必ず死ぬ】という切迫感も、圧迫感もない。
「紗唯も、許してもらえないかなぁ」
シートポジションを最前列まで出した。
「おにぃちゃんは優しいから……同情で、だったらエッチしてくれるよね?」
シートベルトを締めた。
「大好きなおにぃちゃんと、セックスがしたいです」
――紗唯の声だけが、響いた。
「同情なんかで抱いてほしくない」
――と思っているだろう、という言い訳を用意している自分がいた。
おれがそれを言葉にしなくても、紗唯は自分の状況を全部把握している。
だからおれは、ワルモノにならなくて済むし――ワレモノのような……体も心も、曝け出さずに済む。
しかし――覚醒した。
払拭されない違和感は……おれ自身が作っていたカベだ。
紗唯に死を感じさせないように――そう努めて接することで、おれは紗唯に辛い思いをさせていた。
打ち明けてくれた事実を……恋人として受け容れた時点で「死」は禁句ではなくなった。
たったそれだけのことに1ヶ月弱も気付かず……紗唯にとっては、1秒だって無駄にできない大切な時間なのに……28になって漸く――なんて鈍感なんだ、おれは。
今こそ、おれの中の弱さを廓清する瞬間だ。
漸く、朝起きてから、今日初めて、逸らすことなく――末松紗唯を見詰めることができた。
様々なメディアを通して、おれは何度も【そういうこと】に触れてきたと思う。
彼らの境遇が遠すぎて、リアルを感じられなかったのかもしれない。
だから、こんな単純なことに、今の今まで気付かなかった。
どんな苦悩を抱えようと、どんな不幸を感じようと――世界が終わる虚無に勝るコンプレックスはない!
俯く横顔は……潤んだ瞳が、今にも溢れ出しそうだった。
「……下手、とか言うなよ」
振り向いた衝撃で――左頬に、ひとしずく零れた。
「おれなりに……頑張るから」
自然に笑顔が零れたような気がするが、水面に映るおれの表情は漣に呑まれて、はっきり確認できなかった。
そんな気がしたのは――天使が微笑んでくれたからだ。
おれはサイドブレーキを下げた。
ギアをローに入れ、踏み込んだ左足を半クラ状態にして、ブレーキペダルに固定していた右足を緩和させようとした。
――エンストした。
3回免許の更新をしているが、たま〜にやる。
でも、これにはれっきとした言い訳がある。
「どうすんだよ、事故ったら」
左手の甲が、温もりで覆われていたからだ。
「おにぃちゃんといっしょなら、いぃ」
両足に力を込めた。
「セックスしなきゃ、死にきれねぇよ」
ギアを抜いた。
「ここでしよっか」
回転音を復活させた。
「車内での飲食及び淫行は禁止されておりま――」
「ピー ピー」
……音が鳴った。
リバースに入ってもうた。
最近では滅多にやらなくなったのになぁ。
頻度的には、給油時にトランクを開けるくらい。
昔は、よくやった。
たぶん前世では、ヤリ捲ってた。
だから恋愛の女神は、おれに枷を嵌めた。
思考能力に長けた種に転生させて――過去に罰を与えるために、現在にはありもしない罪の意識をでっち上げた。
しかし、その刑期もやっと終わる。
娑婆の空気を、思いっきり――。
「ありがとね」
小さなプレッシャーが圧し掛かる左手で、ミッションを掻き回した。
「明日そのセリフを聞けりゃいいけどな」
思わず礼を言いたくなるくらい納得のいくセックスができれば「ありがとう」を聞けるという意味でこう言ったつもりだが、聞き様によっては……というか、このシチュエーションの場合、別の捉え方をするのが自然だろう。
おれの発言は、アホ政治家に匹敵するくらい軽過ぎる。
握る指が、股に入った。
「紗唯も……がんばるから」
15分もアイドリングしたのは、これが初めてで――充分に、あったまった。