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二日目

 波型のポリカーボネイトを通過して、攪拌かくはんされながら東の陽射しが入ってきた。

 半開きの眼で電話を見ると――ちょうど、10時10分になった。

「おそよ」

 そんなに遅くはない。

 毎週、こんなもんだ。

 用途は時計とメールくらいで、電話機としては殆ど機能していない……こともないか。

 おれは腕時計をしたことがない。

 今まで2回時計を買ったが、いずれも懐中時計だ。

 ファッションではない。

 金属アレルギーでもない。

 革だろうが何だろうが、おしっこした後やうんちした後手を洗う時に邪魔くさいから――理由はそれだけ。

 そういう意味で、機能が1つのアイテムにまとまっていることは喜ばしい限りだ。

 日常生活で使用頻度が極端に少ない機能ばかり増やされても困るが……ポケットに収まる程度の大きさを維持できるなら、別に文句はない。

「もう電話じゃねぇじゃん!」ってツッコむだけだ。

 自分がお洒落に飾ること自体にあまり興味がないが、よく使う手周辺のアクセサリーは特に鬱陶しいから身に付けない。

 まぁ……左手薬指輪の心配は、当分しなくていいだろう。

「何時に起きた?」

「7時」

はやっ!」

 ……おれには、7時起きの記憶がない。

 4歳くらいから、バスの送迎があるえぇとこの子が行くような幼稚園に通っていた――らしい。

 その頃、何時起きだったかも覚えていない。

 小中学校は近かったから、7時半に起きれば間に合った。

 チャリ通禁止だった。

 高校は一番近い県立に通って、8時に起きていた。

 チャリ……を3回パクられた。

 大学は近所になかったが、車で通えばそこそこ近めの所に推薦入学が決まった。

 一年の時は必須科目があったので、仕方がなく高校時代と同じ時間に起きた。

 その頃は朝メシを食わない生活をしていたから……授業の中盤までには間に合った。

 二年以降は1限を外して履修計画を立てることができた。

 9時半に起きれば、講義の頭に出欠を取られても平気だった。

 コンビニで働いていた時は……今の紗唯と、半日ズレた生活リズムだった。

 いくつか職を変わったが――職種以前に、なるべく朝が遅めの仕事を選んだ。

 現在は、高校時代の同級生のコネもあって、仕事のある日(もう辞めるつもりだが)は8時45分に携帯のアラームをセットしている。

 どうでもいい話だが……排便は、基本的に家ではしない。

 リズムが安定していないこともあるが……学生時代は、授業中にトイレに行った。

 意識して授業をサボろうっていう悪い生徒じゃなく、休み時間のカンチャンで我慢できないくらい出そうになるから。

 生理的なことは、したくなったらするのが一番だ。

 森本家のトイレットペパーの節約にもなるし……。

 ウン筋を確かめる派なので、結構な量を使う。

 オイルショックの時期に生まれていたら、とんでもない事態になっていただろう。

 まぁ、それなりに環境適応能力がある生き物だという自負はあるが……一度きりの人生に仮説を立てても仕方がない。

 おれはこうしてこの時代に生きていて、紗唯は――。

 何時に寝たかわからないが……目覚めはすこぶる、悪い。

 変な頭痛がする。これが、初めて経験する――宿酔ふつかよいなるものかもしれない。

 5%のアルコール分で……ぃや、その後オレンジ色のフルーツワインを1本空けて――少し饒舌になったような気はするが、話した内容を細かくは覚えていない。

 が……何故か鮮明に、ひとつの会話を覚えている。

「最初に会った時から思ってたんだよ。お前は平凡に嫌われるタイプだって」

「……どうしろってんだよ」

「もぐら叩きでパーフェクトやったことあるか?」

「はぁ?」

「もぐら叩きだよ、ゲーセンの」

「……やったことねぇよ」

「何点出した? 最高」

「だから、やったことねぇって。もぐら叩き自体」

「まずムリ。出る杭は打たれるって言うけど、打たれずに生き残る幸運な杭だってあるはずさ。そういうタイプだよ、お前は」

「欲がないのは、ヨクナイか」

 ――思っただけか、言っちまったのか定かではないが……27年と12ヵ月弱の後悔が、そのクダラナイダジャレに集約されている。

「あいつは?」

「仕事だって。はい」

「……何だ?」

 ――鍵だ。

「これはイスですか?」「いいえ、リンゴです」

 ――アホな英文の和訳をするまでもなく……どう見ても、Keyだ。

「締めてけってか。どこ置いとくんだよ」

「合鍵だって」

 男友達に、アイカギて……。

「ホントに相手がいねぇんだな。随分早い先行投資だ」

 ……相手もいないのに、結納品総額数百万のおれが言えたセリフじゃない。

 のに、またまたノートパソコンに向かって呟いてしまった。



 ココア1杯の値段で、バタートースト,野菜サラダ,ゆで卵が付いてくる状況に、紗唯は驚いていた。

 初モーニングだったらしい。

「バイキングんとこもあるし」

「食べられないよね、朝からそんなに」

「食うやつは食う。それに、みんながみんな朝起きるとは限らねぇだろ? おれは昼だろうが夜だろうが、食い放題で得するほど食えねぇけど」

 週刊少年サンデーに左手の人差し指を挟んだ少女の口から発せられる原価率とか薄利多売とかいう言葉に……週刊プレイボーイを読んでいたおれは、クリビツテンギョウした。

 この業界用語が思い浮かんだことにも、我ながら驚いた。

 紗唯にシュガーポットの粉砂糖をスプーン並盛り2杯()れてもらったホットが少し冷めた頃合を見計らって、吉岡美穂のグラビアを閉じた。

 今まで深く考えなかったけど……「ホット」って頼むと、必ずホットコーヒーが出てくる。

「アイス」って頼んでも、やっぱりアイスコーヒーを注文したことになる。

 頭にホットやアイスの付くメニューは他にもあるのに、どこに入っても暗黙の了解が成立している。

 コーヒー専門店じゃなく、普通の喫茶店なのに。

 この略式の標準化は、地球規模で通用するんだろうか?

【モノではないサービス】は、大衆にとって曖昧あいまいで――激戦区でこの程度の量だったら、きっと客は離れていくだろう。

 まだまだ、コストパフォーマンスを優先させる人は多い筈だ。

 デフレは、モノの価値と共に――自己実現欲求という【ヒトの価値】も下げてしまうのだろうか?


☆☆


 休みなので、学校に行った。

 学校が休みなのではなく、おれが定休日だから……。

 中高一貫というシステムをニュースで耳にしたことはあったが、見るのはこれが初めてだ。

 新しくて綺麗なことを除いて、外見的には至って普通の校舎だが……パッと見じゃ、よくわからん。

 学校側は、紗唯の【おかされた状況】を把握している。

 その点を考慮しているとは言え……部外者に対して、何てガードが甘いのかとも思ったが……授業料を納期までにちゃんと払ってくれる顧客に、悪い印象を与えたくはないのだろう。

 共学だから、変な目で見られることもなかったし……女子生徒たちのアイドルにもならなかった。

 たとえオトコに飢えていたとしても、おれのミテクレじゃぁな。

 ……?

 BoAとゴマキとあややと市川由衣が同じクラスにいてもおかしくないんじゃん。

 そういうクラスになったら、学園生活をもっとエンジョイできたのに。

 もちろん、おれに枷がなければの話で――エ、エンジョイて……。

 常連だった所為か、紗唯と保健室のオバサンは仲が良い。

 含むところがあるのかないのか……ホットミルクで御持て成ししてくれた。

 伸び盛りはとっくに過ぎたから、もう手遅れだ。

 カルシウム不足は、ちったぁ解消されるかもしれない。

 オモテなしだけに、ウラだらけです〜。

「寒くなるから気を付けなさい」

 ――心理学も専攻してんのか? この先公。

「身長おんなじ。また1コ、共通点だね」

 オトコとしては喜ばしくないが……この笑顔は、悪い気がしない。

「体重は違うね」

「ショックだろ、同じだったら」

「座高――」

「ショックだよ!」

 聴診器を首にぶら下げている長身の白衣は、少し声を出して微笑んだ。

 左手の薬指にリングがあったから……だからって、子供がいるとは限らないけど……えーい、ままよ!

「母はハハハと笑った」

 ――思うだけなら、誰にも文句は言われない……。


☆☆☆


 街を歩いた。

 ジュビロの完全優勝から1週間が経ち、優勝パレードから3日経った磐田市は――平静を取り戻していた。

 と言っても、来たのは初めてだが……。

 1stステージと2ndステージの覇者が同じだったために行われなかったチャンピオンシップ――その経済的損失は5億円に上るとも言われ……そんなことは、やってる選手には関係ないか。

 派手じゃなく、喧騒けんそうもなく――紗唯にとって、優しい街だと……そんな気がした。


☆☆☆☆


 うなぎを食った。

 丼ではなく、重。

 下から、米鰻米鰻山椒。

 おれはグルメじゃないが、土用の丑の日に家で食う、電子レンジでチンしたヤツとの違いは明らかにわかった。

 味皇のようなリアクションはできないが、かなり美味かった。

 注文前に出された茶の時点で、既に一味違っていた。

 名古屋名物に、ひつまぶしというものがある。

 最初はそのまま、次に薬味を乗せ、最後は出汁〈だし〉をかけてお茶漬け風。

 3つの食感を味わえるのがウリだが……最初から最後まで、1番美味い食い方で食ったほうがお得じゃないだろうか?

 それを言い訳にしているワケじゃないけど、おれは愛知に居ながら1回も食ったことがない。

 中日ドラゴンズのファンでもない。

 古風な大衆居酒屋っぽい感じで、カウンター席が5つに、4人掛けのテーブルと、おれと紗唯が座った2人掛けのテーブルが1つずつあるだけの、割りと小さい店構えだった。

 かわやに行く通路から覗いた障子の奥に拡がる畳が敷かれた部屋には机も座布団もなかったが、それなりの人数を収容できるだろう。

 2世帯家族なら、どうにか……。

 儲かってるのかどうかわからないが、それなりの金を取れる商品であることは間違いない。

 独りだったら、こんな値が張る店には絶対来ない。

 自分ではそういうつもりはないが……虚栄心かもしれない。

 いざという時のために、平素の節約を課している。

 だから、根本的には倹約家ではなく――欲があるのは良いことだ。

 おれたちが席を立つちょっと前に中年のカップルが入って来て、入口側のカウンターに座り、主人とダイエーの話で盛り上がり始めた。

 ……ぁ、スーパーの経営統合とかじゃなく球界のほうね。

 9回やる。

 ……風邪にご用心。


☆☆☆☆☆


 病院に行った。

 おれの頭を良くする目的じゃなく……。

 アルジャーノンの菅野美穂は好き。

 言うのはただだ。

 何かの間違いで、向こうがコクってきたとしても……やっぱり金はかからない。

 絶対に、付き合うことにはならないから。

 たとえ、梅酒を控えてくれたとしても……。

 どうでもいい話だが……吉沢悠とバヴィエル=サヴィオラが似てると思うのはおれだけか? 2006年ドイツで開催されるワールドカップサッカーを御覧戴ければ、賛同者は増えるだろう。

 でっかい大学病院だから……たぶん、死人も沢山出るんだろう。

 死んだ人間の大半は、病院で死んでるから――。

 ロビーの大画面では時代劇が放映されていた。

 老人たちがテレビに近い長椅子に寄り集まって、殺陣たてのシーンを客観的に眺めていた。

 大きな便りを済ませたおれは、その横を通って一番後ろの長椅子の隅に腰掛けた。

短い足を組んだ(意識しなければ、大体左腿が上になっている)ところで、中学校時代の同級生に声を掛けられた。

「おぉ、ご無沙汰」

 とは言ったものの……正直、おれはあんまり覚えていない。

 左の腰骨の辺りに付けてある名札を指差してもらって、漸く「そう言やぁ、いたなぁ」と思う程度の記憶しかない。

 名前の右に添付してある写りの悪い顔写真を見ても、やっぱりわからない。

 本人かどうかすら……。

 向こうから声を掛けられなければ、一生気付かなかっただろう。

 おれの顔を見て、よくおれだとわかるもんだ。

 ……成長してないってことか?

「どぉ? 白衣の天使」

 白井典子は自慢げに言って、くるっと回って見せた。

 ……えぇトシこいて、よくやる。

「悪意のペテン師にしか見えねぇけどな」

 ツベルクリン注射の痕が残っている辺りを、おもいっきり平手で殴られた。

「ごめん。仕事だから」

 白いぺったんこの履物は、車椅子の男性に向かって小走りで去っていった。

 ……暴力を謝れよ。


☆☆☆☆☆☆


 紗唯の定期健診は、特に問題なかった。

 ぃや、病を患っていること自体問題なのだが……今すぐどうこうということはない。

 らしい。

 おれには――どうすることもできない。


☆☆☆☆☆☆☆


 道草を食った。

 食事の意ではない。

 アミューズメント施設(まぁ、普通にどこにでもあるゲーセンだけど)があったので……紗唯の制服姿が気にはなったが、寄った。

 正式名称は知らないが、UFOキャッチャーみたいなやつをやった。

 三度目の正直で、これまた知らないキャラクターをゲットした。

 紗唯のハートもゲットした。

 これは、今に始まったことじゃないか。

 ……イマドキ、ゲットて。

 ダンディ坂野――あれは、ゲッツか。

 ショルダーバッグには入らない大きさだったので、紗唯は4本足のぬいぐるみを抱っこして持ち歩いた。

 荷物が嵩張かさばる――改めて、マイカー社会の便利さを知った。

 ガードマンっぽい制服の人はいたが、何も言われなかった。

 ……口ではね。


☆☆☆☆☆☆☆☆


 学校に戻った。

 相変わらず、ノーガードだ。

 ここには、盗んだバイクで走り出したり、夜の校舎窓ガラス壊してまわるような生徒はいないらしい。

 尾崎豊が逝ったのは、おれが高校生の時だと思う。

 リアルタイムでは、そんなに印象が残っていない。

 音楽に興味がなかったわけじゃないが……男性ヴォーカリストのプライベートな部分に関心がなかったのは事実だ。

 後々知るってことは、よくある。

 没後の特集で高騰する価値を見て、改めて彼がアーティストだったのだとわかった。

 早世に正しいもクソもないけど……あれはあれで、良かったんじゃないだろうか。

 社会人に染まって尚、社会批判し続けるのは不可能だし――五十過ぎてから反抗期を振り返って、若過ぎた不良を自分自身が肯定できるのか? という疑問もある。

 一番苦しいのは、自分が否定したいと思い始めた過去が、多くの人の賛同を得ていることだ。

 あの頃も今もそしてこれからも――必ず通過するハイティーンという世代は、異端を称賛してしまうだろう。

「あれは若気の至りだった」と主張する道が通行止めになったまま――後戻りも許されない。

 ファンを裏切りたくない。

 カリスマを失いたくない。

 ずっと、愛されていたい。

 ――おれが地位と名声を轟かせたら、間違いなくそう思う。

 印税生活を確約されたようなものだから、ペシミストとして歌い続けることよりも隠者になることを選ぶ。

 世間が自分に求めるものを提供できなくなる不安、大人に成長する術を鎖された恐怖――ティンカーベルが脳裏に鬱陶しく纏わり付くストレスは、少なからずあったはずだ。

 みんなそういう感情をうちに秘めてはいるが……叫ばない。

 公言さえしなければ、後々自己完結で収拾がつくから。

 そういった狡猾さの欠乏が、致命傷になったのだと思う。

 永遠の純粋さを売りにするつもりなら、反社会的思想を換気させる最低限の情報のみを与え、直接的な接触を完全回避するために――アパルトヘイトを強制執行するべきだ。

 隔離する形での保護は、映画の中でFBIとかがよく使っている。

 おれの『SEVENTEEN’s MAP』は、幼い頃に幾度となく創造していた敷き布団の海図にちょこっと毛が生えた程度の……おつむが全然成長していないネバーランドだった。

 労賃を得るような年齢になり、買ってまでの苦悩はしたくないおれは……たぶん、安楽死できるタイプの人間だろう。

 ただ――自分が生きている間は、愛する人にも生きていてほしい。

 最近何だか、どんどん欲張りになっていく気がする……。

 ホームルーム(中学までは終わりの会とか言ってたのに、高校になるとちょっと気品のある横文字に変わった。のは、おれの田舎だけか?)が終わって、生徒たちが校庭に流れ始めたところだった。

 4‐Dの教室に入ると、女子生徒が4人寄ってきた。

 当然のことだが……おれにじゃなく、紗唯に。

 1人を除いて、みんな小学校時代からの幼馴染みだそうだ。

 みんな……おれよりも背が高い。

 唯一勝っているのは、ウエストくらいだろう。

 1人を除いて……。

 4人の中で……と言うか、クラスの女子で一番背が高そうな「ふーたん」は、練習試合があるからと言って、挨拶程度で教室を後にした。

長身を活かして、バレーとかバスケとかやってるのかと思いきや、フェンシング部のホープだそうだ。

 確かに、リーチは長いに越したことはない。

 打ってる連中からしてみれは、儲かりさえすればそんなもんどうでもいいというのが本音だろうけど……ぁ、パチの話ね。

 帰宅部なのに色が黒い「エリー」は、本名と合致する文字が見当たらず……ニックネームの由来がわからない。

 想像するに、みんなで一緒に行ったカラオケで当時付き合っていた彼氏が彼女に向かって桑田圭祐の真似をしたからとか――だとしたら、危なかった。

 一歩間違えば、彼女はみんなから「ギャランドゥ」と呼ばれる羽目になっていたかもしれない。

 父親の仕事の関係で、残暑の厳しい二学期の頭に転校してきた「まいちゃん」は、昨日オープンしたナンタラゆぅカフェ(名前が思い出せない)に行きたいと言った。

 街の情勢に敏感で、今ではジモティーズよりも地元に詳しい。

 苫小牧育ちの道産子は未だ暑さには馴染めないらしいが、新しい街にはすんなりけ込んだ。

 若さが直接的な理由になるのかどうかわからないが……環境適応能力が無いに等しいおっさんには、うらやましい限りだ。

「郷に入っては郷に従え」という格言を実践できるほど、おれは器用じゃない。

 将来役立つかも――勉強する理由なんて曖昧で、意欲なんてそうそう沸き立つもんじゃない。

 して、将来が残りわずかしかない人間なら尚更なおさらだ。

 それなのに紗唯は、成績優秀らしい。

 毎日授業に出ているわけじゃないのに……教師の、教師としてのレヴェルが低いわけでもないだろうし……何故か紗唯は――ぃや……本質的な部分での賢さを有しているから、少ない時間に得た知識でもすぐに吸収できる理解力に長けるのかもしれない。

 BWH&ウエイトに長ける「ゆっぽん」が、数学の教科書を学生鞄から出して広げ、おれの記憶から削除された単語を幾つか並べ――4連休中の紗唯に解答を求めた。

 日直らしき男子生徒が、敷き詰められた歴史的仮名遣いを雑に拭いた後、黒板消しクリーナーの音が教室にこもった。

 当たり前だが……黒板消しで消えるのはチョークの粉で、黒板自体は消せない。

 って言うか、どっちかって言うと、緑だよね。

 黒板の横には、色々な掲示物が貼ってある。

 その上のほうに、今月の目標が掲げてある。

 定型句として印刷されたその太い文字は見えるが……肝心の目標は、細いマジックで書かれていて読めなかった。

 視力が悪いからしょうがない。

 4500円+消費税で購入した眼鏡は、レヴィンの使っていない灰皿に入れてある。

 運転する時以外、あまり掛けない。

 ここでは目が悪くたって、命の危険はない。

 可愛いコの顔は見えないが、ブサイクも見なくて済む。

 比率で言ったら、圧倒的に後者のほうが多い。

 後ろのほうの見えない掲示板に目を細めていると、やっと紹介されるような話の流れになっていた。

 まぁ、なきゃないで別に構わねぇけど……。

「どうして?」というリアクションはなかったので、ちょっと安心した。

 紗唯がおれを選んだことに対しても……おれが紗唯を選んだことに対しても――。

 ……どうしてだろう?

 同世代のおしゃべりには気まずい空気もなく――その普通過ぎる光景は、おれにとってすごく違和感があった。

 ……おれは紗唯に【いろんなこと】を考えさせてやしないだろうか?


☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 トイレに入った。

 立って放てるほうだから、レディースじゃない。

 だからって……でも、背に腹は代えられない状況の時は、迷わず腹の調子を考慮して行動する。

 因みに、高校時代に一度だけ職員用トイレに入ったことがある。

 掃除の割り当てになってるんだから、生徒にだって当然そのくらいの権利がある筈だ。

 他に利用客がいたら、おれはひとつ離れた便器に立つ。

 これは便に限ったことではなく、基本的に混み合ったところが嫌いなだけだ。

 イチモツを覗かれるとか、そういうことを避けているわけじゃない。

 逆に、見られればどんどん綺麗になるかもしれないし……。

 急いでない時は、大体真ん中に立つ。

 入口に一番近い場所は、かなりヤバイ状態の人のために空けておくのがマナーだと、おれは思う。

 そうすることで、窮地に立たされた時に救われる権利がおれにはある筈だと考えることにしている。

 トイレに限らず……まぁ、いいか。

 4‐Aの隣(校舎の端っこ)にある男子トイレは、小用の便器が4つあり、先客もいなかったので――少し迷ったが、入口から2番目に陣取った。

 ベルトを外さずに、スラックスのチャックを下げた。

 トランクスの社会の窓から、陰茎を引き出した。

「カレシですか?」の言葉が、左耳から入り、微風がうなじを通って、すぐ右の便器がふさがった。

 ついさっき、ブラックボードを緑に戻した男子生徒だ。

「僕は彼女が好きなんです。でも、どう接したらいいのか分からない。告白どころか……まともに目を見て話すことすらできない」

 ――普通の学生もいて、ちょっと安心した。

「ぅわっ!」

 おしっこが排出口で分裂して、左大腿部のチェック柄に飛散したらしい。

 ……普通の男性として、ちょっと安心した。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 卓球をやった。

 おれは中学時代に卓球部でそこそこの戦績を残したので、そこそこ自信はあった。

 が……昔取った杵柄きねづかは、ちょっとばかり古過ぎた。

 ぃや、ショット自体は良かったんだ。

 ペンで思いっきりドライブをかけたピン球はクロスに速くて低い弾道を描き、県大会出場者のフォアを見事にパッシングした。

 卓上のクエルテンと呼んでほしいくらい、それはそれは素晴らしいショットだった。

 二度とできない最高のショットだった。

 ただ……肩の付け根と肘の付け根が一瞬飛んで行ったような気がした。

 すぐ戻ってきたようだから大事には至らなかったが……小娘相手に大人気なく本気を出した罰だ。

 まぁ――その後は、最近めっきり運動しなくなった三十路間近のおっさん相手に、女卓ジョタクのエースが大人気なく本気を出した(に違いない)から、罪の意識は遠退いたけど……。

 疲れるし……腕がもげたり踏み込む足が骨折したりするといけないので、念のためにスマッシュ系統は封印した。

 が、結局メチャメチャ疲れた。

 カットマン相手に、ツッツキでツキ合うもんじゃない。

 筋肉痛が襲ってくるかもしれない。

 ……3日後辺りに。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 来客用駐車場に行った。

 2枚しか昇降ドアはないけど、レヴィンは車検証上では一応5人乗れる設計になっている。

 そこに女が座ったのは――これが初めてだ。

 おれと紗唯の私物をトランクに詰めて、黒川麻衣と酒井彩音が助手席側のドアから後部座席に乗った。

 因みに、おれは常時トランクに毛布を入れてある。

 いつ何があってもいいように。

 そう言やぁ……全然洗ってねぇな。

 まぁ、いいか。全然使ってねぇから。

 藤田奈々子と……高倉優子だったら、さぞかし窮屈に感じたことだろう。

 今日が小村父の誕生日で――その娘が、そういった家内の行事に参加する、名前のとおり優しい性格だったことは――幸いだった。

ぃや、おれ的にじゃなくて……レヴィン的にね。

 静岡県バージョンにFMチャンネルのオートリサーチをかけたら、聞いたことがある曲が流れてきた。

 誰だっけか……あっ、思い出した。

 唐沢美帆だ。

 漢字がこれで合ってるかどうかは、わかんねぇけど。

 女だけの「何が食べたい会議」が終わるまで、そこら辺をぐるぐる走り廻って――いていた、ココスの駐車場に入った。

 お腹のほうは、そんなでもない。

 5時半というのは、おれにとってかなり早い夕食だ。

 と言っても、食事がテーブルに到着したのは6時半だが――ぃや、店の対応がどうこうじゃなくて……選んでる時間も、楽しい食事のうちってか?

 昼に米を食ったので、おれは麺類を注文した。

 肉にしようか迷ったが、カルボナーラという重そうな響きは、満腹感を味わえそうな気がした。

 元を取れないと思ったが……対面トイメンの2人に流されて、ドリンクバーもセットで頼んだ。

 スーツ姿のリーマン1人と、制服姿の女子高生3人――おれがはたから見たら、豪勢なエンコーだと思うに違いない。

 店内のメニューの中ではそこそこ単価の高い料理が、おれたちのテーブルに並んでることだし……。

 他人の奢りだからって、こいつら……まぁ、月給が一番高いのはおれ(だよな?)だから、しょうがない。

 宝石のローンとか、結構厳しいんだけどなぁ……。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 家に着いた。

 おれん家じゃなく、末松家に。

 途中、2軒寄る家はあったが……。

 来ることは伝えてある。

 ……おれからじゃなく、紗唯から。

 ちゃんと連絡をしてくれる娘だから、親としては安心だろう。

 おれは……必要に迫られない限り親とは関わりたくないから、外出する時とか帰らない日とかでも、こっちからは何も連絡をしない。

「どこ行っとったの?」「何食べた?」

 ――へその緒がうに切れてる子供を、 未だに管理下に置きたがる。

 ガキじゃねぇんだから、っとけよ!

 サイドミラーを閉じて、家のすぐ前にレヴィンを路駐した。

 ガレージには相変わらず――カローラが収まっていた。

 長く乗れる車ではあるんだろうが……本当に長い付き合いだと思う。

 おれも、暫くレヴィンを手放すつもりはないが――いつ心変わりするかわからない。

 玄関の前で、犬が御座りをしていた。

 首輪をしていたが……たぶん紗唯ん家の飼い犬ではないだろうから、近所の誰かんとこの【放し飼い犬】だろう。

 それか……盛りの時期で、遠くからやって来たか――。

 おれは小学校4年くらいの頃から中学何年かまで、犬を飼っていた。

 神社の簡易ダンボールハウスで泣いていた(おれにはそう聴こえた)捨て犬を拾ってきて。

「おれは」と言うより「おかんが」と言ったほうが、正確だが……。

「ワンワン」はある日、鎖を断ち切って忽然こつぜんと姿を消した。

 連日の味噌汁ぶっかけごはんに嫌気が差しての行動だと思っていたが……忘れそうになった頃、ちゃっかり帰って来た。

 雨露あまつゆしたたらせながら、窓ガラスに前足を寄り掛けて座敷を覗いているのを、お経を読み終わったおばぁが見付けた。

 それから何日だったか何ヶ月経ったか覚えていないが――12匹、産んだ。

 3匹はまぶたの開かない間に死んで、5匹は方々《ほうぼう》に……?

 数が合わんな。

 とにかく、森本家には2匹が残った。

「クロ」は近所から五月蝿うるさいと苦情が出て、おれがある日学校から帰った時には――既に、保健所に引き取られていた。

 仔犬の頃大人しかった「シロ」は、いつしか……おれを見る度に、よく吠えるようになっていった。

 彼はオスだったので、それ以降、繁殖することはなかった。

 犬に限らず……おれは【命を育む】ということに不向きな人間だと悟った。

 ――赤い首輪は御座りを解除し、鼻をひくひくさせると、しっぽを振りながらおれたちの間を通り抜け、どこかへけて行った。

 紗唯は玄関のドアノブを引いた。

 が、開かなかった。

「ちょっと持ってて」

 紗唯はおれに騎士のぬいぐるみを預け、手に持っていたショルダーバッグからキーホルダーを取り出した。

 おれん家には、鍵を持ち歩くという習性がない。

 1個しかないので、全員外出する時は最後に母家を出た人が物置近くの鍵置き場に掛ける。

 スペアを作ってもいいが、別に盗られて困るようなものもねぇし。

 治安いいし。

 おれの部屋には、鍵がない。

 昔はあったと思うが、紛失した。

 これまた鍵のないタンスの中には、総額ン百万の宝石があるから、勝手に持って行かれると将来おれの嫁さんになる女は困るかもしれないけど……って言うか、結婚できるかっていうことのほうが深刻な問題のような気もしなくはないが……まぁ、大丈夫っしょ。

 治安いいし。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 居間に通された。

 末松忠や……他の誰かがいる気配はなかった。

 鍵が掛かってたんだから、当たり前か。

「たぶん、清水のおいちゃんとこ」

 おいちゃんと言っても、兄弟姉妹から生まれた男の子じゃない。

 って言うか、一人っ子だし。

 血縁関係のある甥ではなく、小さい頃から「おいちゃん」と呼んでいる名残なごりだそうだ。

 感覚的には、ミシェルが「ジェシーおいたん」って言うようなもんか。

 あれは従兄弟いとこって設定だったかな?

 記憶が曖昧。

 ただ、教育テレビで一番面白い公開録画バラエティ番組だったことは覚えている。

 また再放送しねぇかなぁ、フルハウス。

 ショルダーバッグと人馬のぬいぐるみをソファーに置いて、制服姿の紗唯はサンリオの暖簾のれんをくぐった。

 コタツ机の上には、パチスロの雑誌の下に――若者向けの女性誌があった。

 やっぱり、普通の女子高生だ。

 ……四十路男の趣味かもしれないか。

「粗茶でござりまする」

 茶ではなく、コーヒーを持て成された。

 ブラックじゃないやつで、ほっとした。

 アイスじゃないやつでホット……。

 思い出したように台所に戻って、紗唯は一口チョコレートの大袋を取って来た。

 それぞれにアルファベットが1文字ずつ記された……ブラックのやつ。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 8時半になった。

 荷物を部屋に片付けて、紗唯はお風呂に入った。

 その十数分後――おれがノンノを読んでいる時に、末松忠が帰って来た。

けーって来たかァ? 家出少女」

 ……清水のおいちゃんを引き連れて。

「悪かったね。突然押しかけちゃった上にわざわざ送ってもらっちゃって」

 末松忠はふすまを開けて、座敷から座布団を用意した。

「やるなァ、不良青年」

 主人がわざわざ上座に座布団を用意してくれたのに、それを移動させて、おれのすぐ右隣に座った声は……かなり臭かった。

「おいちゃんな、おいちゃん知っとるやろ? 初めてか? おらァ、ニーちゃん知らんぞ。何や、あんな。おいちゃん、カツオ言うんや。勝って生きるって書く、常勝やな。ニーちゃんはあれか……何や?」

 ……生きちゃぁいるが、酒には負けっぱなしだ。

「また、昼間っから飲んでたの?」

 トレーナーに着替えた風呂あがりの紗唯が、バスタオルで長い髪を拭きながら廊下を通り過ぎた。

「ほらっ、すぐまたあんなこと言う。昼間っからっちゅーけどよォ、何を以って昼間かっちゅーことだよ。なァ、ニーちゃん。夜働いとるモンは、仕事が終わったら夜やろ? あっ、朝か。で、すぐ夜や。やっ、昼やな。ほんで呑んどるんや。もうみんな言う。仕事終わってな、おいちゃん呑みよるからな、みんな言う。昼間っから昼間っから、夜間っからは朝間っからやぞ。おいちゃんおかしないな? おかしいやろ?」

 ――適当に相槌を打っておいた。

 酔っ払いの話し手は、聞き手の引きれる笑顔に気付くことはなかっただろう。

 突如としてうつ状態に陥るものの……全般的に、気分良さそうに喋ってたから。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 10時になった。

 二階にある自分の部屋から、髪を乾かした紗唯がバスタオルを持って降りて来た。

 末松忠は、風呂に入っている最中だった。

 タイミングよく……のんべえは、トイレを拝借している最中だった。

 脱衣所の洗濯籠にバスタオルを入れて居間に入って来た紗唯は、おれの左前の座布団にちょこんと座った。

「お疲れさまでした」

 ドライバーにねぎらいの言葉をかけて、一礼した。

 以前にテレビで見たボクシングの、試合直後の勝利者インタビューで、タイかどこかの選手に日本のアナウンサーが「お疲れ様でした」と言ったら、通訳の外人がその【質問】を素直に訳して、ムッとして答えたチャンピオンのセリフを「いいえ、私は全く疲れてはいません」と直訳したのを、ふっと思い出した。

「どういたしまして」

 礼には礼を――。

「そっちは大丈夫?」

 ワンツーリターンみたいな会話。

「ちょっと疲れた」

 微笑が、肩で息をした。

「いつも何時くらいに寝る?」

「う〜ん……11時とか、かな。おにぃちゃんは?」

「おれは……不規則」

 眠くなったら寝る。

 大体1時から4時の間で。

 それと、寒い時も早く寝る。

 もうすぐ寒くなるから、毛布にくるまる時間は早くなるだろう。

「疲れてんなら早めに寝たほうがいいぞ。変なのにつかまると厄介だし」

 ……結構(なげ)ぇな。

 寝てんじゃねぇか?

「それじゃぁ、お言葉に甘えて」

 コタツ机に両手を突いて、紗唯は立ち上がった。

「何のお構いもできませんで」

「いえいえ」

 ホステスはゲストに、深々とお辞儀をした。

「おやすみなさい」

 廊下を摺って――小さな足音が、階段の上にフェードアウトしていった。

 適当に、左手でチョコを掴んだ。

 4個取れた。

 アルファベットをよく見ると――RとKをけて、別の文字を探した。

 Sだけがなかなか見付からずに――携帯が鳴った。

 液晶画面に表示されたのは……親父の名前だった。

「もしもし? ……いらん。うん、そのうち帰る。うぅーい」

 予想通り、おかんからだった。

「おはよう、ジェントルマン」

 電子音は、どうやらトイレにまで聞こえてしまったらしい……。


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