板前修業
板前修業
福岡に来て二度目の夏が来た。
博多の街は「山笠」一色になっていた。祭りは一日に始まり、十五日早朝の「追い山」で幕を閉じる。
僕が住むアパートは、祭りのエリアのど真ん中だ。
締め込・ハッピ姿の男達が仕事を休んで祭りに熱中していた。
そういう男達を福岡では「のぼせもん」と呼ぶが、これは愚弄した言葉ではなく、むしろ愛着を持って使われているようだった。
天神と言う繁華街がある。隣町が舞鶴町。その境界の通り、突き当たりに九州最大の予備校があった。通称、親不孝通り。大学受験に落ちた子達が予備校に通う道だからそういう名前がついたらしい。昼間は予備校生だらけだが、夜になると天神地区からサラリーマン達が流れ込む飲み屋街でもあった。
僕は相変わらず日雇い労働者。
作業場で、倒れてきた鉄パイプの下敷きになった。大事には至らなかったが、膝を痛めてしまった。体が資本の日雇い。止むを得ず休養を取った。暇を持て余した僕は、久しぶりに夜の繁華街に出た。
福岡といえば「中洲」と言う歓楽街が有名だが、そんな所で遊ぶ金は持ち合わせていない。
僕は親不孝通りを南へ当も無くぶらついていた。
スーツ姿のサラリーマンが多い。それに合わせて女性の姿もあった、皆、綺麗な身なりをしている。僕はといえば、高校時代に佐世保で買ったGパンと米軍払い下げのジャケット。汚れたコンバースを履いていた。
ほろ酔い気分のサラリーマン達は、僕を避けるようにすれ違って行った。
公園が見えてきた。
自動販売機の前で立ち止まると、Gパンのポケットに手を突っ込んで小銭を漁った。
突然、声を掛けられた。
「おい!兄さん!」
僕は反射的に振り向いた。
「兄さん、今、暇か?」
一瞬、何の事か分からなかった。目の前には調理服姿の男が笑顔で立っている。そして、僕に「暇か?」と聞いている。会った事も無い、見た事も無い人だった。
「僕・・・ですか?」
「兄さんは、あんたしかおらんばい・・・・時間、あるね?」
「はぁ・・・暇は暇ですが・・・」
「そうね・・・ちょっと、店が忙しいでさ・・・皿洗いば手伝ってくれんね」
「はぁ・・・それくらいなら・・・どうせ暇ですから」
「そうね!助かる!・・・早う、中に入って前掛けつけて・・・ほら!」
僕は背中を押されて店内に入った。三〇坪程の店内は満席状態。ホールも厨房も大忙しのようだ。
「弘ちゃん!・・・ちょっと、前掛けば持って来ちゃらんね!」
「は~~い!」
僕はようやく事態が飲み込めた。
僕はスカウトされたのだ。訳の分からないまま、承諾してしまった。こうなったら言われるままに皿洗いを手伝うしかない。
僕は受け取った前掛けを結ぶと、次から次に運ばれて来る小皿、大皿、茶碗、コップを洗いまくった。洗っても洗っても、次から次に運ばれてくる。
店内の騒動は二時間程で落ち着いた。
肩を叩かれた。振り向くと、その人がいた。僕をスカウトした人だ。
「いや~~いきなりで驚いたろ!?ばって、助かったよ。もう少しで落ち着くけん。飯、食って行きなさい」
「あ、飯は良いです」
「なんね。用事でもあるとね」
「いえ・・・用事はないですが・・・申し訳ないですから」
「ガハハハハ・・・遠慮せんで良かぁ・・・食って行かんね」
「・・・すみません。じゃあ、お言葉に甘えます」
「うんうん・・・・もう少しだけ我慢しちゃり」
「はい。ありがとうございます」
「がははは・・・・礼を言うのはこっちたい!・・・ガハハハハ・・そうそう、名前は何て言うとね。私はここの大将で香月と言います」
「はじめです・・・梅雨川はじめと言います」
「はじめ・・・ね。よかよか。見たところ真っ直ぐのようやね~よかよか」
何だか嬉しかった。
日雇いを始めてから余り人と会話したことが無い。
何よりも、香月と名乗る大将の笑顔が嬉しかったのかもしれない。
久しぶりに人に触れた気がした。
僕は改めて店内を見渡した。
厨房には三人の男性がいる。ホールには三人の女性。二十代後半から三十代前半だろう。
皆、笑顔で働いている。その笑顔がとても羨ましく感じた。
一時間後、さらに客が引けた。
僕は皆が呼び合っているのを聞いて、それぞれの名前を覚えた。
ホール係:きょうこ、ひろみ。そして、ひろこ。
厨房:けんさん、じゅん、たー坊。どんな字を書くのかは判らない。
客がまばらになった。
「きょうこ」と「ひろみ」が、いちばん大きなテーブルに豪華な料理を並べていた。
大将に呼ばれた。
「はじめ君!飯くうぞ!・・・前掛けば取ってから早う来んね」
驚いた。テーブルの豪華な料理は皆の夕食だったのだ。遅い予約客の為の準備だと思っていた。見たことも無い料理もあった。
普段、食堂の安い定食しか食べたことが無い僕にとっては驚きの夕食だった。
ご飯を何度もオカワリした。
「あ、皆に紹介しとくね。はじめ君・・・・えっと・・・苗字はなんやったかね」
「梅雨川です」
「そうそう、梅雨川はじめ君。そこで・・・自動販売機の前で拾うたったい。ガハハハハ・・・・・」
大将は皆を紹介してくれた。
中島弘子(35歳、大将の妻友)、香月恭子(20歳、美術系の短大生、大将の娘)、田口ひろみ(25歳、劇団員)。そして、井上健太(35歳、板長)、田島純一(22歳、見習)、広崎太一郎(21歳、大学生)・・・である。
「はじめ君は・・・学生じゃなかごたるね・・・」
「はい・・・違います」
「どこで、働きよるとね」
「・・・・・千鳥橋です」
「千鳥?・・・・はじめ君は、日雇いば、しよるんね」
「はい」
「住まいは?」
「問屋街です。須崎にアパートを借りて住んでます」
「一人ね?」
「?」
「いや、彼女と一緒ね?ガハハハハ・・・」
「一人暮らしです」
「実家は何処ね?」
「長崎の・・・崎戸という小さな島です」
「崎戸!?崎戸島か!」
「ご存知なんですか?」
「知っとるも、何も・・・はじめ君。松尾巧って知らんね。アンタより随分上と思うばってん。崎戸の人やけどね・・・」
僕はしばし考えた。松尾・・・松尾巧・・・兄の中学時代の同級生にそういう人がいた記憶がある。
「蛎の浦の人ですか?松尾 巧さん」
「そう!・・そうたい!蛎の浦の松尾巧たい!知っとるんね!」
「兄の中学の同級生です。四つ先輩になりますけど」
「はっあー!また奇遇やねぇ~巧君は姪浜の魚屋で働きよるたい。うちも時々世話になっとる。はぁ~~驚きやね~ここにも時々来るよ」
「そうなんですか・・・・でも、僕が小学生の時に何度か会った事がある程度ですから・・・あまり・・・」
「はじめ君。どうね・・・うちで働かんね。給料はそこまで出んかも知れんけど、飯は食い放題やし・・・只ばい」
不覚にも飯に釣られた。
「雇って頂けるんですか?」
「伊達に店、しとらんたいね・・・人ば見る目はあるたい。うちで働きんしゃい!」
就職が決まった。
こうして、僕の板前修業が始まるのである。
人の出会いの「不思議」である。
あの、天神三丁目の自動販売機の前に僕が立たなければ・・・大将がタバコを吸いに表に出なければ、この出会いは無かっただろう。
帰り際、大将が日当だと言って1万円をくれた。僕は深々と頭を下げた。
僕はアパートに向かって走った。
途中、二つの橋を渡る。弁天橋と大黒橋。大黒橋の真ん中で立ち止まった。苦しくなって膝を折る。肩で息をする。立ち上がって水面を見た。
中洲のネオンが煌いていた。見上げても街が明るすぎて星は見えない。
満月だったか、三日月だったか・・・もう覚えていない。
ただ、見上げたその先に、とても優しい月が上っていた事だけは記憶に残っている。