夢
夢
僕はまた少しだけ大きくなった。
大きくなったといっても、ようやく一五〇センチを超えた程度だ。
入学式では前から二番目のチビだった。
大きめの学生服と、明らかにサイズを間違った帽子は、小さめの頭をすっぽりと覆ってしまう。
小ぶりな体格は、先輩達の強制的な勧誘の的から外されていた。
小学五年生から始めた剣道。
中学でも続けようと思っていた。
だが・・・剣道部の部室をチラッと覗いて止めた。
豚小屋以下だった。
剣を学ぶような場所ではなかった。
剣の修練は一人でも出来る。
余談だが、毎朝、竹刀を千回振る。
普段は庭でやるが、雨が降る日は納屋で振っていた。
一日も休んだことが無い。日課だった。六年生の時は主将を務めた。
同級生に負けたことは一度も無い。いや、一本も取られた事は無かった。
凛とした空気が好きだった。もちろん当時は「凛」という難しい字など知らない。
だから、豚小屋以下のクラブには到底、入る気がしなかったのだ。
最初の体育の時間は体力測定。握力、背筋、垂直飛び・・・お決まりのコースだ。
海で鍛えていたはずなのに握力は意外にもなかった。だが、垂直飛びではいきなり80センチを超え、先生を唸らせた。この体育の先生が陸上部の顧問だという事は後にわかった。
「梅雨川・・・おまえ、陸上部に入らんか!?」
僕はヘラヘラと笑うだけで、返事はしなかった。
二度目の体育の時間。百メートルのタイムトライアル。
学年で2位の記録だった。一位は亀野君。名前は亀でも、ずば抜けて早かった。
百メートルを十二秒台で走ったのは亀野君と僕だけだった。後に亀野君は県の大会でも3位に入った。
「梅雨川!!・・・お前・・・陸上部に入れ!」
「チビだから・・・無理です」
「なんば言いよるか~体は直ぐに大きくなる。梅雨川・・・陸上部に入れ!」
熱意に押された。と言うより、「いや」と言えなかった。
「・・・・はい」
その日の放課後からグラウンドを走り回ることになった。
島のおばさん達のおかげかもしれない。
身長も先生の言う通り、タケノコのように伸びた。
Sという美術の先生がいた。
女性。おそらく五十代。白髪交じりでメガネを掛けていた。老眼が入っているのか、いつも眼鏡越しの上目使い。トレードマークはドクターの様な白衣だった。
授業のパターンなのだろうが、木炭デッサンから始まる。
みんな真面目に教室の中央に置かれたシーザーの胸像と戦っていた。
僕はやる気が無かった。だが、初めて使う木炭の柔らかい感触が気に入り、画用紙(木炭紙)に木炭が無くなるまで真っ黒に塗っていった。
ずり落ちた(この方が見やすいらしい)眼鏡を指先で上げながらS先生が近づく。
僕の後ろで立ち止まると、息が掛かるほどに顔を近づけてきた。
「梅雨川君・・・・何をしているの?」
僕は答えに窮した。何も言えずに更に木炭を塗りこんだ。
「・・・何をしているの?梅雨川君」
クラスメイトは作業を止めて僕と先生のやり取りを凝視している。
「・・・・シーザーを描いています」
「描いていますって・・・真っ黒じゃないですか」
「・・・・・・・これからです」
僕は木炭を置いて「練りゴム」(デッサン用の消しゴム)を取り上げると、塗りこんだ木炭を消していった。
「・・・そうか!逆転の発想ね。消しゴムで描くのか~!面白いわね・・・楽しみ!」
授業が終わる頃には、真っ黒な画面に白いシーザーの胸像が出来上がっていた。
先生はしきりに僕の「崖っぷち描法」を褒め称えた。
職員室でも吹聴したらしくホームルームの後、担任の先生から呼ばれた。
「梅雨川・・・職員室までいいか?」
「・・・はい」
職員室のドアを開けると、担任と一緒に美術のS先生、そして陸上部顧問のH先生がいた。遠巻きに他の先生達も傍観している。僕が描いた絵が壁に貼られていた。
「梅雨川。お前、頭も良けりゃ、足も早い。ハハハッ・・・絵も上手いなぁ!」
「いえ・・・そんなでは・・・」
「だが、ウチは美術部が無いからなぁ・・・」
「僕は陸上部ですから」
「梅雨川君。・・・ちゃんと絵を勉強してみない?」
「は?・・・勉強って・・・授業でやってる・・・」
「いえ・・美術部はないけど、基本とか油彩は教えられるわよ。やってみない?」
「すみません・・・今、陸上が面白いですから・・・」
「そう?・・・・もったいないわね~」
陸上部の顧問、H先生の笑顔が印象的だった。