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霧の向こうの夢

霧の向こうの夢


「香月」で働き出して六年が過ぎた。

板長の健さんが円満退職で店を持った。店は意外にも和食ではなく創作イタリアンの店だ。いつの間にイタリアンを習得したのだろう。実直な彼の反面を見た気がした。だが、それは健さんなりの「落とし前」のつけ方だったのだ・・・と僕は納得した。

何度か、恭子と店を訪ねた。新装開店の創作イタリアンは盛況だった。


当然のように僕の仕事は増えた。

早朝四時から魚市場での仕入れ(この頃には店舗数も三店舗に増えていた。仕入れは一括して僕ともう一人、高野のいう店長とで行う)に出かけ、朝日が昇る頃にアパートへ戻って仮眠を取る。昼前に起きて仕込みのために店に入る。

絵を描く時間など無くなってしまった。

夢が霞んでいきそうだった。


僕は、いつものように昼過ぎに店に入ると、薄暗い店内でジャガイモの皮を剥いていた。

ぺティナイフを使い一〇キロを一人で剥く。大根の桂剥きを造り、更に千切りにして「刺身のつま」を作る。仕入れてきた食材で「付き出し」と「大皿料理」を一〇品ほど造り、ネタケースには生鮮物を並べていく。仕込みに四時間を費やす。店の開店は六時だが、五時過ぎには常連客が暖簾から顔を覗かせる。休む間もない。

健さんが辞めた後、僕は一番の古株となった。見習いだった田島は既に辞め、ホールの女性も全て入れ替わっている。


ジャガイモの皮を剥き終える頃、大将が大きな体を揺らしながら入ってきた。いつもより随分と早い。


「おはようございます!」

「いつもすまんな、はじめ。健がおらんから、大変やろ?」

「大丈夫ですよ。もうすぐ、バイトの勝っちゃんも来ますから・・・」

「そうか・・・はじめ。ちょっといいか?」


「ちょっといいか?」・・・は重要な話があるという事だ。僕は包丁を置くと前掛けを外して座りなおし、膝を正した。


「大将・・・何か?」

「うん・・・・はじめ。いくつになった?」

「二五です」

「そうか・・・もうそんなになるか・・・はじめ。三〇まで待てんか?そしたら、店ば一軒、出しちゃる」

「・・・・・ありがとうございます。僕は此処で・・・いや、此処がいいですから。此処で頑張らせてください」

「そうか、そうか・・・居てくれるか。話はそれだけたい。恭子も頼むぞ。じゃあな」


大将は大きな体を揺らしながら出て行った。

ずっと居てくれると思っていた健さんが辞めた事で不安が過ぎったのだと思う。それ程、健さんの退職と出店は突然だったのだ。


僕はテーブルの上のセヴンスターに手を伸ばした。ジッポライターで火を点けると深く吸い込んだ。エアコンを入れていない店内に紫煙がどんよりと広がっていく。僕は煙の行き先をぼんやりと眺めた。吐き出された紫煙は勢いを無くして漂う。暫く停滞すると、消えて無くなった。

別に窮地ではないが・・・窮地に陥ったような錯覚がした。


恭子は短大を卒業した後、店には出なくなった。

デザインスタジオに就職が決まり忙しくしていたが、二人の関係は上手くいっていた。

喧嘩する事も殆ど無い。最近は仕事を覚えた恭子からデザインのノウハウを教わっていた。僕にすれば(頼りないが)個人授業の先生でもある。


恭子は時々、アパートに泊まっていく。勿論、両親も認めている事だ。

布団で可愛い寝息を立てている恭子を見つめた。

何事にも積極的な彼女に翻弄される事も有るが、愛している・・・たぶんそうだろう。大事な人になっていた。同様に恭子の親である大将と正子さんも、かけがえの無い人になっていた。

恭子が、ゆっくりと目を開いた。

「起きていたのか?」という僕の問いに、甘い笑顔で誘う。

僕は誘われるままに布団の中に潜り込む。

唇を何度も重ね、肌を合わせる。

甘い言葉を囁きながら一つになり、そして、溶け合う。


霞んだ夢の先に、もう一つの道が見え隠れしていた。



一枚のハガキが届く。

森賢治。彼は熊本の出身で幼い頃に父親が出奔。苦労して高校を卒業し、上京。理容師になった。互いの夢を語れた、数少ない友だ。僕はアパートの階段に腰を下ろしてハガキを読んだ。下手糞な文字には何時も苦労する。


「拝啓 はじめ 頑張ってるか?報告!ついにやりました 全国理容コンクールで優勝した! 急だけど、アメリカ行きの誘いがあって、来月向こうに行きます。俺がアメリカ行けるのも、はじめのお陰だ!お前がいたから頑張れた。先に行って待ってるぞ!店の住所と電話番号です。EXISOTIC ×××555・・・・・」


悔しかった、凄く悔しかった。もちろん親友の快挙は嬉しかった。賢治が夢への階段を、一気に駆け上がった事は嬉しかった。悔しかったのは今の自分に対してだった。

もう二度とは戻りたくないと思った日雇いの一年間が不思議に懐かしく思えた。

きつくて・・・辛くて・・・淋しくて・・・何度も涙したけど、前を見据えていた。

目的に向かって歯を食いしばっていたあの日が、今は遠い過去のようだ。僕は何かを失っていた。僕は焦っていた。道を間違えている。そう思った。だが、今進んでいる道も整備されようとしている。森が開かれ更にその奥まで道が出来ようとしている。それとは逆に最初に選んだ道は未だ森の中。闇の中のままだった。

焦燥感・・・どうしようも無い状況は、暖かい人たちの中で更に際立っていった。窮地に陥ったことに始めて気がついた。僕は誰にも相談できないまま、焦燥感から喘ぎ始めた。

帰宅して、賢治からのハガキを読み返すうちに、その喘ぎは大きくなっていった。

ニューヨークにどれだけ恋焦がれていたか・・・・。記憶が蘇れば蘇る程に。この善良な家族への愛情との狭間でもがいた。午前三時には起きて市場に行く。仮眠をとって仕込みに入る。店が開けば無心で包丁を握る。夢を描く時間さえ無かった。だが、一旦、アパートに戻れば一枚のハガキが僕を攻め立てる。日常は繰り返される。


仕事を終え、重い足取りでアパートの階段を上がった。年も暮れようとしている。ちらほらと雪が舞っていた。玄関のドアを開けた。暖かい空気が押し寄せてきた。


「おかえり、はじめちゃん。お疲れ様!」

「来てたのか・・・・ただいま」

「はじめちゃん・・・おなかは?」

「店で食べたから平気だよ」

「そう・・・お風呂、沸いてるよ。寒かったでしょう?入ったら?」

「うん・・・恭子は?」

「私は先に使っちゃったから・・・でも、また入いろっかな!」


他愛も無い会話をしながら服を脱ぎ捨てるとバスタブに身を沈めた。冷え切った体の末端が痺れる。突然、アルミのドアが開き、恭子が裸で入ってきた。


「狭いぞ」

「くっつきムシ」


恭子はかかり湯をすると笑いながらバスタブに体を捻じ込む。僕に背中を向けて体を沈め、身を委ねた。


「久しぶりだね」

「そうだな」

「はじめちゃん・・・」

「なんだ?」

「あのね・・・・」

「なんだよ」

「ニューヨーク・・・行っておいで」

「・・・・・・・・・」

「気がつかなくて・・・・ごめんね」

「恭子・・・」

「お部屋をお掃除してたら、見ちゃったの・・・賢治さんからのハガキ。」

「・・・・・・・・・」

「だから・・・・行っておいで。夢だったんでしょう?ニューヨーク」

「行けないよ」

「お店があるから?」

「うん。裏切る事になる・・・前にも大将に言ったんだ。ずっと此処にいるって」

「うん・・・お父さんから聞いた。はじめちゃんは健さんとは違うって・・・でもね、はじめちゃん。恭子、最初にはじめちゃんを見た時から好きになったって・・・知ってるよね。悔しいけど一目ぼれだったって」

「・・・・それは聞いた」

「今のはじめちゃん・・・はじめちゃんじゃないよ・・・はじめちゃん、日雇いをしてるって言ってたけど、キラキラしてたもの・・・カッコよかったし、こんな人がいるんだって・・・だから、行っておいで」

「いいのか?」

「男がうだうだ言うんじゃないの!お店はなんとかなるよ。ああ見えてもお父さん、やり手なんだから」


恭子はそういった途端に声を殺して泣き出した。僕はその震える背中を抱きしめた。


「恭子・・・愛してるよ・・」

背中の震えが止まった。

「やった!・・・ひっかかった!・・・今の言葉・・・忘れないでね!」

「おまえ・・・騙したな!」

「男に二言はないんだからね・・・・戻ったら・・・・」

「戻ったら・・・?」

「お嫁さんにして!」

「・・・・・・・・・・」

「返事は?」

「わかったよ・・・婿にしてください」


女には適わない・・・・・。


心の霧が晴れた。

フェリーから見える水平線の上には帯のような雲がうっすらと掛かっている。

潮風が頬を擽った。久しぶりの崎戸島。僕は両親への報告を兼ねて崎戸に向かうフェリーのデッキにいた。何度もこのデッキの上に立った。いつも一人で水平線を眺めていた。


「はじめちゃん・・・ドキドキする。ご両親・・・気に入ってもらえるかな・・」

「心配ないよ。恭子は気に入ってもらえるさ」

「そう?・・・ああ・・・だめっ!・・・どうしよう」

「いつもの恭子でいればいいじゃないか」

「だめよ。いつもの恭子なら×がついちゃう」

「嘘をつくのか?」

「そうじゃないけど・・・」

「心配するなって」

「いけない・・・おなか痛くなってきた・・・トイレ行ってくる」

「バカ。早く行って来い」


恭子はカンカンと音を立てながら鉄製の階段を下りていった。波間に釣り船が揺れている。

脳裏をスライドショウの様に記憶の映像が浮かんでは消えていく。清清しい気持ちだった。


僕は両親に恭子を紹介した。


「恭子さんです。アメリカから戻ったら結婚します」


その一言で全てが解決した。母は喜び、父も恭子に優しかった。ガチガチに固まった恭子だけは脂汗を掻いていた。



僕と恭子は客間に敷かれた布団の中で抱き合っていた。


「はじめちゃん・・・ありがとう」

「それを言うなら僕の方だよ」

「緊張したけど・・・凄く幸せ。・・・でも、似てないね」

「何が?」

「はじめちゃん・・・お父さんにも、お母さんにも似てないなって」

「似てない親子もいるさ」

「そうだね・・・でも、凄く優しいお父様とお母様で安心しちゃった」

「だろ?・・・優しいよ。だから安心していいよ」

「うん」

「恭子・・・愛してるよ」

「私の方が・・・もっと愛してるよ」


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