第3話 あの日の忘れもの 裏
メンバー発表から一日、渚高校の野球部部員たちは新横浜駅に集合していた。今、ここから新幹線に乗って関西へ向かう。甲子園球場は大阪ではなく兵庫県にあるとはよく知られた話だが、感覚的には正直大阪とか兵庫とかどっちでもいいのが実際のところだ。「だから野球チームの阪神は会社名ちゃうで。れっきとした地名や。セリーグで純粋に地名だけを冠してるのは阪神だけ」とかいう我田引水な理論も見たことがあるが、その気持ちは分からないでもない。
さて、新横浜駅だが、メンバーや監督の他にも見送りとしてゆかりのある人たちが大勢構内に集っていた。
「ほんっと信じられないわ。まさかお兄ちゃんが甲子園に行けるなんて」
「しかももうベンチ入りだからねえ。試合に出られるといいねえ」
「へへ、まあ自分でも驚いてるけどねこの現状。出れるかどうかはアレだけどさ、でもちゃんとユニフォームもあるんだから可能性はあるよ」
六川の妹と母が見送りに来ている。本人でさえも「卒業するまでにせめて1打席でも」と思っていたものが、まさかの1年生にして甲子園のベンチ入りを果たしたのは家族にとっても衝撃的であった。しかし背番号18の少し小さなユニフォームは確かにそこに存在する。
「まあ、小さいときからずっと頑張ってきたからねえ。コツコツやってきたからそれが報われたんだよ」
「うん、そうだね」
「夏休みが終わったらクラスのみんなに思いっきり自慢しちゃうから、頑張ってねお兄ちゃん」
「はは、出番があれば頑張るよ。じゃあ、行ってきます」
「気をつけてね、正太郎」
母と妹の期待に対して笑いながら手を振り、意気揚々と新幹線に乗り込んで決められた席に座った。六川の席は通路側で、窓際にはショートのレギュラーである2年生の油谷がすでに乗り込んでいた。油谷は小柄だが均整の取れた肉体を誇り、腕っ節の強さはチームでも屈指の「打てるセカンド」である。そこまで話しかけてくるタイプではないので六川ら1年生にとっては「どちらかと言うと怖い人」というイメージがあったが、実際に話してみるとまったく違っていた。
「おいロク、今来てた子は?」
「油谷先輩、あれは僕の妹です。今年小6になりました」
「へえ、お前妹いたのか。俺は兄しかいないからな、兄弟に女がほしかったわ」
「うーん、生意気なだけですよあんなの」
「それがいいんだろ。顔もなかなかじゃないか。サロペットもいけるしツインテールもかわいいもんよ。お、そうだ。ちょっと紹介しろや。兄なんだからアドレスとか知ってるだろ」
「えっ!?」
とりあえず電話番号とアドレスはしゃべった六川であったが、その後も趣味や好きなものなど妹の個人的なプロフィールをしつこく聞いてきたのにはさすがに閉口した。いや、客観的に見ると割といかにも子供らしい雰囲気でかわいいと言えばかわいいと言えるのかも知れないとは思わないでもなかったが、そもそも妹をそういう目で見るという発想自体が存在し得なかった六川である。そして「油谷先輩はそれほど怖くはないが危険思想の持ち主である」と情報が上書きされた。
「才先輩、このお守りを受け取ってください。それと私たちファンクラブのメンバーで作った千人針です。受け取ってください!」
「ありがとう、喜んで受け取るよ。へえ、このお守りは鶴岡八幡宮のものだね。ここまでの気持ちを贈ってくれたからには必ず勝利の知らせを君たちに届けてみせるよ」
渚高校不動の3番センターである才深雪は大量のセーラー服に囲まれている。その名の通り野球の才能にあふれたこの男、シャープなバッティングに加えて俊足強肩という万能選手で今年のドラフト候補としても注目を集めている。しかも容姿にも恵まれている。クールな目つきとバランスの取れた体格は美しく、ファンクラブも発足するほどの人気っぷりである。神様は時々こういう不公平な人間を作る。
「絶対優勝してくださいね。せーの! 才先輩、ファイトー!!」
このままだと胴上げでもしかねないほどの熱狂に包まれた中、爽やかに手を振りながら新幹線に消えた才。座席に腰を落ち着けると思わずため息が出たが、それを目ざとく見つけたのは愛沢であった。才の横にすっと座るとこの天才児を早速いじり始めた。
「おお、さすがにもてる男は違いますね、かしこせんぱーい」
言うまでもなく同学年の愛沢に先輩呼ばわりされる覚えはない。ましてや女の子ならともかく野郎相手には。それにしても不憫なのはよく見ると目、鼻、口といったひとつひとつのパーツはそれなりに整っている愛沢。しかしいかんせん作りが地味なのであまりもてない。玄人のおっさんに「ポジショニングがどうこう送球が云々」などと論評されるより素人でも可愛い女の子に「愛沢くんすごーいかっこいー」と言われたい年頃であるが、残念ながらそんな展開にはならないままここまで来てしまった。
それでも、そんな嫉妬じみた部分を抜きにすれば才と愛沢は無二の親友である。甲子園での優勝、そして将来はプロ入りという同じ目線で野球をやっており、お互いに切磋琢磨し合う関係が築かれている。
「ふう、あんまり茶化さないでくれよ。でもちょっと恥ずかしいのはあるけどね、本当のところは」
「その本当のところを出さないのはアイドルの鑑って奴かね」
「芸能科じゃないんだから。まあ、でも嬉しいのも本当さ。あそこまで言われると勝たないといけないって誰だって思うだろ」
「確かにそうだな。出場だけでは意味がないからな。結果を残さないと」
2人はクールな目を鋭く睨ませて遥か西を見据えた。
「本当に甲子園に行けるなんてねえ。まあ、私も行けたら1試合ぐらい応援に行くから」
「そう。それは心強いわ。来るなら決勝戦に来てね、美代菜」
「おお、多大なる自信! で、行けそうなん?」
「絶対に、とはそりゃあ言えないわ。でも目標は高く持たないとね」
駅の片隅ではエミリーと親友の隼瀬美代菜が2人だけで話しこんでいた。エミリーにも割とファンは多くついており、彼らの歓迎も受けたがそこそこで切り上げてもらった。美代菜は相変わらず「ファッションに興味なし」を貫いたようなさっぱりと無造作な姿で、それがエミリーを安心させた。2人はまるで何事もない日常と同じようにとりとめのない会話を続けたが、不意に美代菜が放った一言がエミリーの胸をやけに突き刺した。
「マウンドにね、きっと立ってみせてね」
この言葉、一見何でもない応援の言葉であるが、エミリーは不意にかつての記憶が呼び覚まされた。今よりかなり背丈が小さく、そして今よりちょっと髪が長かった小学生時代の話である。
その頃の美代菜は野球部の速球派ピッチャーとして神奈川県で名を馳せていた。「王頭小の女ピッチャー」と言えば当時の野球少年は今でも大体覚えている程である。エミリーも当時から野球をしていたが主にファーストを守っていた。「岸部小にいる外国人の子」として一定の知名度はあったが成績で目立つ選手ではなかった。そんな彼女にとって、同じ少女でありながらグラウンドの中心に堂々と立ち、エースとして躍動する美代菜の黒髪は何よりも美しく見えた。あまりに輝いていたので話しかける事も出来なかったが、心の中では永遠の英雄として刻み込まれた。
中学時代も2人は別々だった。ここで美代菜は第二次性徴という壁にぶつかった。少年たちの肉体が成長して少女を凌駕していくにつれ美代菜の出番は削られた。加えて、美代菜としては思ったほど身長が伸びなかったのが致命的だった。野球部に選手として入部した美代菜であったが、久々の登板となった3年春の練習試合で大して強くもない相手に滅多打ちにされた瞬間、全てを悟った。もはや男子に伍して戦える投手ではないと。結局それから部活の引退時期までは実質マネージャーとして活動した。
その頃、エミリーは中学からルール上使用が解禁された変化球を投げる楽しみを覚えていた。エミリーも美代菜と同じ「体力的に男子にはかなわない」という悩みを抱えていたが、エミリーには白人らしいサイズに加えて極めて柔軟な肉体、特に関節可動域の広さがあった。投手の命であるストレートの威力では男子と勝負できない。ならばそれ以外のコントロールや変化球を磨こうとひたすらあがいていたのがエミリーの中学時代であった。
「あなた、岸部小から降畑中のエミリー・スピッツさん?」
「ええ。あなたは王頭小から加瀬中の隼瀬美代菜さんでしょう」
「へえ、よく知ってるわねえ私の名前なんて」
「知らない人なんていないわ。私たちの世代で野球をしていたなら誰だってあこがれていたもの」
「スピッツさんこそ、知らない人なんていなかったでしょ。あんな美しいファーストいなかったから」
渚高校にて、ついに2人は出会った。偶然同じクラスになったのが直接的な縁であったが、出会う前から互いにその名前を知っていた。女子ながら野球を好む同志でもあったため打ち解けるのは早かった。エミリーは美代菜も野球部に入部するだろうと思っていたが、美代菜の考えはそれと違っていた。
「ええっ! もう野球はしないの!? 渚は女子部員も受け入れるって話なのに」
「うん、まあ色々考えたんだけどね。やっぱり私の実力だと試合に出られそうもないし。マネージャーって柄でもないし。スポーツするならやっぱり何であれ試合に出ないとね」
「……そう」
さばさばした言葉の裏側に見える決断の重みに思いをはせると、無理にでも一緒に入ろうとはとても言えなかった。結局美代菜はラクロス部に入り、その類稀な運動センスを武器に早々とレギュラーを掴んだ。それほどの運動神経を持つ美代菜でさえ諦めなければならなかった男子野球の世界に、それでもエミリーはあえて飛び込む。決意は固かった。
「ようこそ新入生の諸君、俺が渚高校野球部監督の大海だ」
今より少し幼い顔つきの村上、服部、滝内、才ら今の3年生たちが入団テストを受けるべくグラウンドに集まっていた。なお安田は今と顔が変わっておらずすでに貫禄十分だった。エミリーもこの時点ではまだ無名の入部希望者である。しかし金髪碧眼のエミリーが与える見た目のファーストインパクトは抜群で、地元神奈川県出身者以外にもすぐ顔と名前を覚えられた。
「ここに来たのは大体70人って所か。今年は女子もいるようだな。安心しろ、俺は性差別に反対の立場だ。女だろうが男だろうが力がなければ平等に落とすし合格できれば平等にしごく。特別扱いは一切しない」
監督からは早速牽制を入れられたが、エミリーにとってこの程度の言葉は覚悟の上である。女だから手加減してほしいなどとは欠片たりとも思っていない。それよりも入団テストに合格するべく集中力を高めていた。
渚高校野球部入団テストの合格基準はかなりゆるい。走力(手動計測の50m走)と遠投力(硬式球の遠投)のテストはどちらか一方が基準に達していれば合格、それが駄目でも実戦テストで「こいつは面白そう」と監督に思わせれば合格となる。エミリーは中学の部活引退後は肩の力を重点的に強化していたので遠投力のテストに無事合格、晴れて部員となった。なお、走力トップは愛沢の6秒1、遠投トップは才の112mであった。
しかし入るのは楽でも残るのは難しいのが大海監督流だ。「軟派な校風の渚高校」とはよく知られたところだが、野球部に関しては髪型を除いてどこの強豪野球部にも劣らない厳しさが待っている。専用のグラウンドでは毎日激しい練習が繰り広げられ、休む暇もない。
入部希望者は約70人、合格者は約50人だったエミリーの同期たち。しかしゴールデンウィークを終えると3/5は消え去っており、夏を迎える頃にはさらに半減していた。そのような惨状でも監督いわく「今年は比較的多く残っている」そうである。
辞めていった部員の中には中学時代に実力者と騒がれた者もいたし、立派な体格を誇り周辺に「この人にはかないそうもない」という威圧感を漂わせる者もいた。しかし彼らが消えてもエミリーは残った。何のために厳しい練習を耐えてきたのか。それは自分のためもあるがそれが全てではない。美代菜が諦めざるを得なかった夢を自分が代わりにかなえるため。勝手な思い入れかも知れないが、エミリーの中においては間違いなくそれが自分を奮い立たせるモチベーションとなっていた。
中学の時点でかなり厳しかった性別による体力差という問題は、高校になってさらに格差が広がった。しかし不安はなかった。例えばプロ野球の世界においても球速は大事だが、それだけで抑えられるわけではない。全力で投げれば今以上に球速が出るものをあえて抑える事でより良い成績を残す投手もいる。そのような投手のピッチングを参考にしつつ、自分でも実現可能な方法を探した。
やはりプロで活躍する技巧派ピッチャーはベテランが多い。しかも元々は速球を武器に押しまくっていたものがスタイルをチェンジさせてというパターンが多い。30代の投球術を10代にして到達するのは並大抵の事ではない。しかしやらねばならぬ。自分にもっと力があればと思っても実際ない以上、そんな力しかない自分が活躍するためには別の道を探すしかないのだから。
そこで考え出したのは変化球の多投である。実にピッチングの9割がスライダーという奇妙なピッチャーが誕生した。無論、スライダーの種類は1つではない。打者の手前で小さく曲がるスライダー、大きく横に変化するスライダー、それにいわゆるスラーブと呼ばれるような球種も投じる。
またスライダーの他には主に見せ球として使用されるドロンと落ちるカーブ、親指と人差し指ではさむフォーク、たまにしか投げないので逆に特殊な球種となっているストレート、そしてストレートのようなスピードから急激に縦に落ちる疑惑の決め球、などといった球種が存在する。
このイリーガル疑惑が囁かれている変化球について、エミリー本人は某ゲームからいただいたのか「Vスライダー」などと嘯いている。全然関係ない話だがワセリンは英語でvaselineと綴る。また「私は12月24日で山羊座の生まれだから」「魔法のように大きく滑り落ちる変化球だから」と言う事で「魔滑球」と呼んだ事もある。いずれも同じ球種なのだが名前すら明確に定まってはいない。しかしその変化は本物である。
さて、こうした努力の甲斐あって2年生の秋頃からエミリーはベンチに座る機会が多くなった。上級生が引退した事で、夏の時点ですでに背番号をもらっていた村上に続く投手の整備が必要となっていた。そこで大海監督が目をつけたのは左腕からスピードはないものの打ちにくいボールを投げると評判が立っていたエミリーであった。まずはショートリリーフから起用された彼女は、持ち前の多彩な変化球を駆使してその期待に応える実績を残した。
とにかく左打者に対して強く、それは人工的な左打者が大量生産される高校野球界を相手にするのに最適だった。エミリーはただストレートを投げるだけなら中学生にも打たれる程度でしかない。しかし柔らかい肉体をダイナミックに使ったフォームと独自の投球術によって補っている。そして年を越えて今年の夏、ついに甲子園への切符を手に入れた渚の切り札として背番号13は相手打者を震え上がらせるまでになった。
ここまでやれたのは何のためか、それは美代菜のためだ。エミリーはそう確信していた。小学生の頃、同じ少女として躍動する美代菜に憧れ、追いつきたいと思った。そして同じ頃に「甲子園で自分たち女の子が活躍した事ってないよね」とも気付いたのだ。その歴史を破りたいと思った。目標は高校、そのために中学時代は研究と体力作りに専念した。
当初は「自分が駄目でも美代菜だっている」と楽観的に考えていたが美代菜は降りた。美代菜も無念であろう。ならばその想いをも自分が背負って「甲子園で活躍した初めての少女になろう」と誓ったのだ。
無論、これを美代菜がやってほしいと望んだわけではない。エミリーの一方的な思い込みである。しかし夏の激しい合宿や冬場の走りこみ、県予選といった厳しい戦いを潜り抜けたエミリーの心の中にいたのは間違いなく美代菜だった。小学生の頃の躍動感にあふれるフォームで男子と対等以上に渡り合う、憧れのピッチャーとしての美代菜。高校生になって自分と親友になった、コロコロとした笑顔が太陽よりもまぶしい美代菜。どんな美代菜も大好きだった。
他人から何と言われようと、自分が目指す目標を達成するためには不可能と言われた事を可能にする必要があり、そのために手段を選んではいられなかった。そんな自分を美代菜は許してくれるだろうか。きっと許されはしないだろう。許されもしないのになぜやるのか。それは自分のエゴに過ぎないのではないか。それに……
思い出を通り越してだんだんと変な方向に向かい始めたエミリーの思考を切り裂いたのはやはり美代菜の明るい声だった。
「ねえ、どうしたのエミー? ねえ!」
「え? どうしたのミヨ」
「どうしたはこっちの台詞よ。いきなり話聞いてなくなって」
「ごめんボーっとしてた。何となく昔の話を思い出して」
「ふーん、昔の話、ねえ」
美代菜は軽く目を細めてエミリーに視線を向けたがそろそろ時間だ。新幹線に乗り込む寸前、軽く手を振って「じゃあ行ってくるから」と最後の挨拶を交わした。ついでに「私の好きな美代菜」などと小声でつぶやいたがきっと誰にも聞かれてはいないだろう。笑顔で手を振り見送る美代菜の姿を強くまぶたに焼き付けたところで扉は閉まった。
嘘でもいいから今の美代菜の笑顔を守りたいと、もうそれだけでいいじゃないか。悩んでも仕方ない。大体悪いのは自分なんだから、そうなったらそうなったでいいやとエミリーは開き直った。時々怖くなる事もある。しかし一度乗った列車は止まらない。最後の駅は栄光か破滅かは知らないが、そこまで続く運命は受け入れたいと思った。
「あっ、茶畑!」
「おお、本当だ! いやあ静岡県らしいなあ。富士山もあんな大きい」
「おい堂島、お前はどけよ。富士山見れねえだろ」
「ええ、そんな殺生な!」
選手たちを乗せた新幹線は西を目指す。甲子園まではもう少し距離があるが時期に到着する。そこで何が出来るかが今は一番重要だ。エミリーは少し目を閉じた。しかし眠りはしなかった。