第2話 課外授業 表
7月は過ぎ、8月が訪れた。8月は夏本番、最大の大会もこの1ヶ月の間に開催される。舞台は関西、甲子園。高校野球においてはまさに最大のビッグイベントと言えるこの大会に神奈川県代表として出場する渚高校は連日の熱い練習に明け暮れていた。
「よーし、次! サード行くぞ! バックホーム!」
渚高校野球部監督の大海によって発された一本筋の通った低音が熱砂たなびくグラウンドに響くと、続いて鋭い打撃音が熱風を生み出した。白球を、と言いかけたが厳密に言うとそれは間違いで、かつては確かに白かったが今は土にまみれて黒ずんだボールを捕らえんとサードの選手が突っ込む。彼が着ている練習着もボール同様にかつては白い布だったと思えないほどに黒く汚れきっている。
「うっ!」
荒れたグラウンドに足を取られてバランスを崩した胴体にライナー性のボールが直撃した。吐き気がするほどに痛むが、今は痛がってはいられない。ここでくじけたら今までの努力が無駄になってしまう。そう、憧れの甲子園球場に立てる千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかないのだという意地が身体を支える。
「ボールをしっかり見て取らんか! もう一回!」
「オッス! お願いしゃっす!」
大海監督の喝とともに、前にも増して鋭い打球がサードを襲った。しかし守るほうの集中力もそれまでより増している。監督に言われたようにボールを直前まで見てコースを掴んだ上でグラブを差し出した。
「はあっ!」
「よし! バックホーム!」
「うらあ!!」
今度は成功だ。痛烈な打球をグラブに掴むと、素早く取り出して勢いよく監督のいるホームベースに返球した。パーンと威勢のいい音を鳴らしてボールは監督の横に待機していた安田のキャッチャーミットに吸い込まれていった。一連の動作を完璧にこなせた時、試練はひとまずの終わりを迎える。
「よーし上がれ! じゃあ次! ショート行くぞ!」
「シャーッス!!」
野球部専用のグラウンドでは大海監督がマシンガンの如きノックの嵐を部員たちに浴びせている。すでに1時間近く行われているが、誰一人として気を抜くものはいない。選手も意地があるし監督も意地がある。互いの意地がぶつかり合って加速的に熱量が増加している。太平洋からの南風も部員の体を涼ませるどころか、逆に炎を煽るように突き刺さるのみである。
「ラスト! キャッチャー!」
キャッチャーのノックは打球を真上に打ち上げる必要があるので割と難しい。しかし大海監督は手馴れている。こういったノックの技術はチームの守備力に直結するだけに、監督としてもベストを尽くさねばならない。
「オーライオーライ!」
「よーしよく取った! 上がれ!」
「シャース!」
キャプテン安田がしっかりとボールをキャッチした瞬間、しばしの休憩が訪れる。練習のスタートは午前9時だったが、今やすでに午後3時を迎えていた。誰もが疲れているが、この程度でくたばってはならない。神奈川県の期待を背負い、全国という大舞台で羽ばたくためには「妥協」の二文字を取り払って前進するしかない。それこそがここまでの予選で破っていったライバル校に対する最大の礼儀だ。
「ああああああああやっとノック終わったあー!」
「うおおおおお本当疲れたわあー!」
「スポドリ! スポドリあるかーマネージャー!」
「もちろん! お腹が痛くならない程度にガンガン飲んでね」
燃え盛る若い肉体を潤すスポーツドリンク。渇いた喉に冷たい水がしみこむ瞬間、彼らはまだ生きていると実感した。部員たちは思い思いの言葉で開放感を発露しているが、それは新たなる勇気をチャージしているようなものだ。まだまだ練習は続く。
「くわああああ、うまい!」
「飲むなら水腹にならない程度にね。まだ練習は続くんだから」
「へへ、分かっていますよマネージャーさん」
「そうそう、俺たちみたいな県予選ではレギュラーになれなかった選手にとっては今が一番大事なアピール時間なんだから」
「そう、ここまで来たんだから絶対ユニフォームを着て甲子園に出たいぜ!」
その瞳は熱く燃える太陽を弾き返すようにギラギラと輝いている。今行われている戦いはいわば無差別級のバトルロイヤルである。それまでレギュラーだった選手も、それ以外だった選手もすべて同じリングに上げられた上で実力を見極められている。こういう場合、諦めたら離脱となる。逆に言うと諦めなかった人間には可能性が残されているのだから、自分は諦めないと強い意志を持ち続ける事が栄光を掴む第一歩である。それを選手たちも分かっているのだ。
「はい休憩終わり! 全員集合!」
「ありゃま、もうそんなに時間が経ってたのか」
「まあしゃーない。じゃ、行ってくるとしますか」
「頑張ってねみんな」
「へへ、もちろんだぜ」
「次でラストのはずだから。全力を出して乗り切るしかないっしょ」
休憩終わりの合図を出したのは大海監督その人である。部員全員をグラウンドに集めると、これから行われる練習メニューの説明を行った。これが今日最後の練習メニューとなるので部員たちも最後の元気を振り絞っている。そうすると熱風も多少は涼しく感じるような気がするものである。
「これから実戦形式のシートバッティングを行う。もちろんランナーも出るので、各自気を抜かず準備するように」
「はい!」
「ピッチャーはバッター9人と対戦する。バッテリーは村上は服部と、次に坂口は村井と、そしてスピッツは安田と組め。最後に堂島が投げて終わりだ。分かったな」
「あの! 監督!」
「何だ堂島。お前も投げるんだぞ」
「いえ、わいは誰とバッテリーを組めば」
「1年の誰かと組め」
「あ、はい! 分かりました!」
とりあえず返事はしたものの、自分だけアバウトな扱いをされた渚高校1年生の堂島巌は困惑していた。この堂島、出身の滋賀県における中学野球界ではそれなりに名前を知られた存在であったが、高校は関西ではなく神奈川県にある渚高校を選んだ。地元から遠く離れた環境に身を置いて自分の実力を試したかったからだ。
堂島に限らず、渚にはこのような部員も多い。ある者は九州随一のスラッガーと評判だったし、ある者は東北屈指のショートと言われた。こうして全国から集まった選手たちの中からさらに選抜されてレギュラーが決まる、実力主義の厳しい世界である。期待されたものの消えた部員もいれば逆もいる。そんな世界の中で1年生キャッチャーとして期待されていた部員は練習の厳しさに根を上げて退部してしまったのだ。堂島は自分と組んでくれる代わりのキャッチャーを見つける必要があった。
「そういう事なんやけど、誰かキャッチャーになってくれる奴はおらんやろか?」
堂島は同じ1年生数名に声をかけたが色よい返事をなかなか得られなかった。堂島はストレートの威力に定評があるもののコントロールにはやや難がある。急造でキャッチャーをやらされた上にポロポロとボールをこぼしてしまったら監督に与える印象はマイナス、ベンチ入りの道が遠ざかってしまう。堂島は1年生ながら注目されているからいい。今回失敗しても次のチャンスは与えられるだろう。しかし自分たち無名部員は1つでもミスをすると命取りになるという計算から敬遠する者が多かった。
「なら俺がやる」
「それなら俺も立候補するわ」
「じゃあ僕も」
「「どうぞどうぞ」」
「えっ? 本当にいいの?」
このような擦り付け合いの結果、キャッチャー役には六川正太郎が選出された。この六川、小学生の頃から野球は続けていたもののまったく上達する気配がなく、ポジションも8番ライトが定位置であった。中学までは部員が少なかったのでどうにか試合には出られたものの、何を思ったか野球界ではそれなりに名の通った渚高校に進学したため「箸にも棒にもかからない球拾い要員」としてここまで過ごしていた。
「六川か。ま、まあよろしくな」
「うん、よろしく! 堂島君!」
「ははは、頑張れよお前ら」
正直「他におらへんのか」と落胆した堂島だがこうなりゃもうやるしかないと心を決めた。もはや諦めの境地である。六川はとっくに覚悟を決めている。
1年生の中にはあからさまに嘲りの表情を浮かべる者や、「高校レベルに対応できない六川と組ませる事であわよくば堂島の評価下落して俺にもチャンスが開かれる可能性も出てくるかも」などという下衆なそろばんを弾く者もいた。堂島も六川もそれに気付いていなかった。極度に張り詰めた精神状態では気付きようがなかったのだが。
「とりあえずブルペンでボール受けてみよか。今までキャッチャーの経験は?」
「ないよ」
「せやろな」
即答で一番残念な、しかしある程度は予想できた答えを繰り出された堂島だが、表情だけ見ると何も変化はなかった。投手たるものポーカーフェイスを貫くようにと小学生の頃から訓練しておいた甲斐があった。しかしあまりにも屈託のない答え方だったので逆に怒る気さえ失せたという部分もあった。
「ごめんね。ボール、捕れるかわからないけど、でもきっと頑張って取って見せるから」
「そんなんは気にせんでええ。もうなるようにしかならんわ。それにしても人情が身に染みるわ。ほんま、ええ奴やなお前って」
「そりゃあ、ねっ。誰もやらない風だったから。それじゃああんまりだって思うとついね……」
六川は真面目な少年である。野球に対しても常に向上心を心に秘めて厳しい練習をこなしてきた。それなのに人並み以下にしか上手くならないのはなぜか。それは才能がないからだと親兄弟も含む周りからは思われているし、六川もそれは自覚している。しかし、だからといって大好きな野球を諦めたくはない。その強い意志だけでここまでしがみついてきた。
堂島はそんな六川に時々あきれつつも、決して嫌いなタイプではなかった。しかし部員の中には技量が追いつかず足を引っ張る六川を疎ましく思う者もいた。そういった部員がくだらない事を行っているらしい事も知っていた。「そうか、考えようによっては今日はそいつらの鼻を明かすチャンスかも知れへんな」と堂島は思い直した。ならばなおさら自分が頑張らないと。堂島は一度深い深呼吸をしてからまた話しかけた。
「まあ何や。ここで組むのも何かの縁やろうし、よろしく頼むで六川君!」
「うん! こちらこそよろしく!」
こうなった以上はもう他の言葉は何もいらない。ただ全力でやるだけだ。頭の中では割り切るしかないと理解は出来ているものの簡単にはいかない堂島は余計な言葉のすべてを飲み込んでブルペンに向かった。もはや一心同体、2人は運命と言う螺旋の中に組み込まれているのだ。堂島は普段より大きな歩幅でグイグイと前に進めば、六川は子犬のように堂島の後ろをついてくる。後は無言のまま目的地に到達した。