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第1話 南風にのせて 裏

 神奈川県逗子市の海沿い、マリーナを見下ろす小高い丘の上に渚高校は建っている。渚高校は1987年に創立した私立の学校である。


 7月も終わろうとする日の朝、国道134号線をスクールバスが駆け抜ける。すでに夏休みの期間中ではあるがこの日だけは特別であった。間もなく停止した車内から一人の少女が颯爽と現れた。彼女こそが噂の少女エミリー・スピッツである。


 長い金髪を風にさらしてバスストップから校門への短い道を歩くエミリーに向かって、さっぱりとしたショートカットをばっさばっさと揺らして小柄な少女が1人駆け寄ってきた。


「エミーおはよっ」

「あ、おはよーミヨ」

「昨日見たよー、大活躍だったじゃん」

「昨日はいい風が吹いてくれたから、良かったわ」

「よねー、なんか相手すごい振ってたし。これはもう全国でもいいところまで行くんじゃないの?」

「ふふ、そう簡単に行けたらいいわね」


 すでに夏休みの期間ではあるが、今日は特別に登校日となっている。昨日はユニフォームをまとっていたエミリーもセーラー服に着替えて、友人の隼瀬美代菜とともに校門をくぐろうとした。しかしそこにはすでに大量のパパラッチがたむろしていた。


「エミリーちゃんだ、エミリーちゃんが来たぞ!」

「エミリーちゃんこっち向いてー」

「エミリーちゃんかわいいよー」

「エミリーちゃん今日はポニーテールなんだね。ポニテもとっても似合ってるよ」

「エミリーちゃんのさらさらロングヘアーで僕の(そのまんま書いたらノクターン行き不可避になるため自主規制)してほしいお」


 仕事のカメラマンもそうでないカメラマンもいるようだ。


「おっ、モテモテじゃんエミー」

「ああいうのにもててもねえ。別に嬉しくないわよ」

「ヒュー、百戦錬磨のエミーさん貫禄のある一言」

「話しても無視しても写真は撮られるし、わざわざコソコソする事もないでしょ」


 野球部に入った時、練習試合に登板した時、ユニフォームを与えられた時、彼らはいつもそこにいた。最初はちょっと嫌かもと思っていたエミリーだが、慣れとは怖いもので今は特に気にならなくなっていた。美代菜ら一般生徒も割とこのような状況に慣れており、その上で楽しんでいる節もある。まあ元々この渚高校、入学式から大量のカメラマンがアイドルを探して乱入するのが毎年の話である。いちいち反応していたら精神が持たない。


「今日は全校集会で終わりだったっけ」

「うん、そう。じゃ、さっさと体育館行こっか」


 体育館に人が集まると、早速校長先生の挨拶が始まった。内容の9割は野球部についてであった。


「……そしてついにこの時を迎えたのです。君たちの先輩たち、そう、君たちが生まれる前から活動していた先輩の皆さんが歩んだ苦難の道があってこそ今日の栄光を掴む事が出来たのです。今でも目を閉じるとあの日々が浮かんできます。ああ、石だらけ、でこぼこのグラウンドでわずかな人数を募って……」


「校長リキ入ってんねー」

「ええ、まあ。嬉しかったんでしょ」

「まあ気持ちは分からないでもないけどさ、長すぎると感動ポイント分かんなくなるよね」

「よねー。いい話してるかも知れないけど誰も聞いてないよ、みたいな」

「わかるー、開会式とかそんなんばっかよね」


「……であるからして、野球部の皆さんには甲子園で精一杯暴れまわってもらいたい! 以上!」


 うつろな拍手とともに校長先生の暑苦しい長話は終わった。自分は頭皮スカスカだから熱が逃げるのかも知れないが、豊富な頭髪が熱を吸収する若い生徒たちにとってはハードな事この上ない拷問であった。続いて野球部の大海監督とキャプテンの挨拶もあったが、こっちは短く終わった。生徒は心から感謝した。「空気読んでくれてありがとう」と。




「甲子園出場おめでとう! エミリーちゃん」

「アー、皆さんありがとございマス」

「昨日も見事なピッチングだったね」

「そうですネ、風が強かったし体調も良かったノデ」

「甲子園でも期待してるよ」

「エエ、まずは試合に出られるようがんばりマス」


 カメラを向けられると突然日本語が下手になるエミリー。金髪碧眼の見た目から「アメリカから来た交換留学生デス」などとと言っても信じる人しかないだろうが、実際は小学生の頃から日本で育っている。無論、日本語も一切なまりなく滑らかに話すことが出来るのだが、マスコミの前では自分の見た目に合わせるようにあえて「日本語は片言のアメリカ人少女」を演じている。どうせマスコミなどは正しい報道より面白い、ニュースバリューのある話に流れるものだしそんな相手に自分の本質を晒すような真似はしたくないと考えているのだ。


「スピッツ! こんなところにいたのか」

「アッ、キャプテン」

「監督が呼んでたぞ、すぐ職員室に行けってさ」

「ハイわかりまシタ。デハ、そういう事なのデ。それでは皆さん失礼しマス」


 キャプテンら野球部員による「監督が呼んでる」という言葉は「マスコミの皆さん、スピッツの囲いはそこまでですよ」の合図である。実際は大した用事はないが、マスコミもその辺は理解しているのであっさりと囲いの輪を解く。彼らに笑顔で手を振りながらセーラー服が校舎内に消えていった。


「すみませんね、毎日毎日こんなところに来ていただいて本当に恐縮です」

「わざわざ心配してくれてすまないねえ、キャプテンの安田君。しかしこれが僕たちの仕事だからね」

「そう、君たちが野球にかける情熱と同じものを取材にかけているから」


 キャプテンの安田元治はマスコミとのとりなしも手がけている。野球の実力以上に温厚な人となりと敵を作らない人望が買われたタイプのキャプテンだが、その彼にニコニコ顔でねぎらいの言葉を掛けられるとマスコミのほうも「まあ今日のところはこのくらいでいいか」と思ってしまう。そういう意味ではチームに最も欠かせない人材だ。


「これから早速練習が始まりますんで、良かったら見て行きますか?」

「へえ、昨日決勝戦があったばかりなのによくやるねえ」

「そりゃあもう、むしろこれからが本番ですよ。甲子園は出るのがゴールじゃないですから」

「はは、それもそうだな。じゃあ、練習も見学するとしようかな」

「どうぞどうぞ。かっこいい写真をいっぱい撮ってくださいね!」

「ははは、そうしたいもんだね」


 間もなくグラウンドには練習用ユニフォームを着込んだ一団で埋め尽くされた。その中にはいつの間にか練習着に姿を変えたエミリーも含まれていた。どこで着替えているのかは不明である。


 練習開始前に大海監督の訓示が行われた。キャプテンによって打球が飛んでこない安全な位置に誘導されたマスコミたちが向けるカメラに狙われているので選手たちはもちろん、監督も多少緊張しているようだ。


「あー、コホン。みんな、昨日はよくやってくれた。ついに念願の甲子園出場を決めたのだ。しかし今日からが本当のスタートだ。予選で出番がなかった者もこれからのアピールによっては背番号を与えられるし、今までレギュラーでもたるんでるようなら容赦はしないぞ。甲子園は出るのが目標ではない、あくまで勝利、そして優勝を狙う。分かったな!」

「はい!」

「では練習開始だ! まずはランニングから!」


 かなり気合が入った様子でランニング、柔軟体操、キャッチボールをこなしていく野球部一行。しかしその姿は一般的な野球部とは多少趣を異にする。具体的には頭髪だ。野球部といえば坊主頭という風潮があるが、特に「坊主ではないといけない」という規定があるわけではない。ならば坊主にする必要はないというのが渚の考えだ。その辺は「渚高校は軟派」という定評に偽りなしである。


 そういうわけで、もちろん「刈り込んだほうが実用的」と言う事で短髪の部員も多いが、髪をバサバサと揺らしながらランニングをしている部員もまた数多い。その筆頭は金髪を肩まで伸ばしているエミリーなのだが、それには及ばないながらも、一般的な基準から見て「セミロング」の領域まで入り込んでいる髪型の男子部員もちらほらと見える。第一髪型で野球をするわけではないのだから、要は野球に支障がなければその辺は自己管理の一部と見なしているのだ。


「おい、エミリーのストレッチだぞ」

「任せてください、ちゃんとカメラはセットできていますよ」

「よし、撮れ撮れ」


 カシャカシャとシャッター音が鳴り響くが、部員は肉体とともに精神も十分にほぐれたようで何事もなかったかのように練習メニューをこなしている。監督としても「甲子園はこれ以上の視線が注がれるのだから、慣れるにはいい機会だろう」と、むしろありがたくさえ思っている。この程度の注目で舞い上がる部員には本番で実力など発揮できないのは言うまでもない事である。


「よーし、ピッチャーは投球練習をしろ。今日は村上は安田と、スピッツは服部と組め」

「ウッス」

「分かりました」


 基本的な守備練習までが終わった後、監督に名指しされたバッテリー4人がグラウンドから離れてブルペンに向かった。カメラマンの多くもそれに誘導されてグラウンドから姿を消した。


「孔明君、ちょっと」


 ブルペンに向かう200mほどの間に、エミリーは自分のボールを受ける服部孔明の耳元に囁いた。服部は渚高校の正捕手である。打撃力は特別に高くないもののキャッチングのうまさには定評があり、エミリーの大きく曲がる変化球にもついていく事が出来る。


「ふっ、分かっていますよ。この段階で手の内を見せる事もないでしょう」

「そうね。じゃあそういう事でよろしく」


 ブルペンに立つエミリーの姿をロックオンするカメラマンたち。その視線を背中に受けつつ、エミリーがまず投じた球は彼らが向ける視線の圧力をかわすようなスローボールだった。ふわっとしたボールがストライクゾーンの真ん中に構えられたキャッチャーミットにゆっくりと収まった。



「よーしナイスコントロール、エミリー! 次は内角低目だ!」

「OK」


 次のボールもやはり緩い球だった。服部は四方八方のコースに要求して、エミリーは針に糸を通すように要求に応じる。コントロールのよさを見せ付けてはいるものの傍目から見てあまり面白く見える光景ではない。


「どうなってんだこりゃあ。変化球は投げないのか」


 10球、20球、30球を投げ終えてもストライクゾーンの四隅をつくスローボールが次第に威力を増していくだけで、エミリーの代名詞である変幻自在の変化球は一切見られなかった。それを期待していたマスコミにとっては肩透かしを食らったような気分だったが、エミリーは気にせず淡々とボールを放り続けた。そのうちに規定の内容を終えたのか、ブルペンから引き上げ始めた。


「ちょっとエミリーちゃん、今日はいつもの変化球は投げないのかな?」


 しびれを切らした一部マスコミが内心を押し殺した笑顔で問いかけた。もちろんエミリーにとってもこの質問は想定内。なまらせた日本語をスラスラと繰り出した。


「ピッチングの根本はストレート、今日はその調子を見たのデス。そしてコントロール、私の軸はこそですカラ」

「いやあ、まあそうだけどねえ」

「それに変化球は昨日いっぱい投げまシタ。なので疲れを取る調整も必要デス」


 表面上は笑顔と笑顔の温和な会話、しかしどうにもぎこちない空気が漂うのはお互いに内心を押し隠しているからである。この状況を終わらせるべく、エース村上とのピッチング練習を終えたキャプテン安田がエミリーとマスコミの間に加わった。


「エミリーはうちの大事な戦力なんで無理はさせられませんから、すみませんが今日はもうここまでっす。明日はもっとガッツリやりますよ」

「まあ、そうだな。明日もきっと来るよ」

「ええ、楽しみにしてマス」

「これからクールダウンのランニングなんで、ここで失礼しまっす」

「そうか、お疲れ様」


 ここでランニングに向かうエミリーや安田たちとマスコミたちは別れた。東京に戻った記者や写真家は今日得たわずかな収穫を吟味したが、めぼしいものは見当たらなかった。


「ううむ、今日も体よくかわされたな」

「まあそう簡単に発見できるもんじゃないだろ。向こうだって隠そうとしてるんだから」

「そうだな。だが必ず掴んで見せるぞ、不正投球の動かぬ証拠を」


 エミリーは疑われている。中学までならともかく、男女の体力差が明確となる高校レベルにおいて女子部員が活躍した例はない。それなのにエミリーは確かに活躍している。しかも武器は大きな変化球。これでは「女性であるエミリー・スピッツは男性と比較して不足するパワーを不正な方法によって補っている」という憶測がなされるのも仕方のない話である。そして実際それは当たっている。


 不正投球にはいくつかの種類がある。ヤスリなどでボールの表面を削ることによって空気抵抗を変化させる方法、唾やワセリン、松ヤニといった異物をボールに塗りつける事によって通常以上の大変化を実現させる方法、意図的に土をボールにこすりつけて滑り止めとして利用する方法などである。彼女の場合はどうやらボールに何かを塗りつけているらしいと噂されている。


 しかし証拠は一切発見されていない。相手選手も監督も、そして審判までもが不正を疑っているのに、疑惑の目から軽やかに逃れ続けている。直接対戦した相手からするとエミリーは卑劣な手段を平気で用いる悪辣な魔女に見えていることだろう。しかし証拠がない以上「エミリーちゃんを見くびりすぎ」「勝てると思ってた相手に惨敗した負け犬の遠吠えは哀れやね」などと返されるとどうにもならないのが現状である。


 マスコミは正義のために動くわけはなく、出た杭を叩く喜びのためにこのスクープを追っているが、彼らプロの追跡にあっても未だに尻尾を見せない。そこが天才の天才たる所以であるが、これからは「神奈川のエミリー」だけではなく全国的に注目を集めるようになる。果たしてエミリーは2億4千万の瞳から逃れられるのか。

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