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第9話 君の涙に虹を見た 裏

 7回表、渚は3番才から始まる好打順である。しかしそれは相手とて承知している。浜浦はここに来て球速をさらに上げてきた。最大限の集中力から放たれる155キロのストレートを前に才は三振、滝内もキャッチャーフライに倒れた。


「むむむ、まるで歯が立たないというのか」

「まだ俺がいるでしょう!」

「油谷か。しかし相手の調子はかなり良いぞ」

「無論、分かっています。しかし俺はここまで何も出来ていないから、この辺で頑張っても良い頃でしょう」

「そうね、頼むわ油谷君」


 3年生の才や滝内ばかりに注目が集まるが自分だって渚のクリーンナップを担う男だという油谷の矜持とは裏腹に、やはり浜浦もなめてかかっているのか、球速のアベレージがやや鈍っていた。


「先輩たちはこの試合で終わりだ。でも、俺は、俺たちはこれからこの渚を引っ張って行かなきゃならないんだ。いつまでも先輩に頼っていられるかよ!」


 カウント2-2からの5球目、浜浦のストレートに力負けせず打ち抜いた打球は三遊間を突き破りレフトまで至るヒットとなった。


「よっしゃナイス油谷! やっぱりラッキーセブンだ、何かが起こるぞ!」

「村上も続けー!」


 続いて打席に向かったのは村上である。背番号は1番、しかし今はピッチャーではなくレフトとして出場している。できる事なら甲子園決勝戦のマウンドには立ちたかったのは偽らざる本音である。しかし今はエミリーを打撃で支えたいとしか考えていない。


「6番レフト村上として、今の俺にできる事をこなすだけだ」


 カウントを取りに来たスライダーを叩き付けるように打った。打球はサードである菅原の目の前で大きくバウンドした。菅原は一旦はグラブに収めたかに見えたが弾いてしまい、これもレフト前に転がった。記録はヒットでランナーは一二塁、一気にチャンスが広がったが次のバッターはエミリーである。


「まずいな、はっきり言ってエミリーが打てる投手じゃない」

「しかし代打を送ったら投手がいなくなってそれこそ終戦だ。どうする」

「心配には及ばないわ。私には秘策があるの」

「秘策?」

「ええ、確かに打てないでしょうね、私にあのボールは。でも打たなければいけない訳ではないでしょう、凡退しなければ」

「つまり四球を選ぶと?」

「そうね。自信はあるわ。だから、私を信じて!」


 大海監督は、そしてチームメイト全員はエミリーの言葉を信じた。エミリーは右打席に立った。本来は左打者であり、スイッチヒッターの練習をしたという話も聞かない。実際エミリーは打つ事を完全に放棄した。マッキントッシュの如く両手を離してバットを持ち、左投手である浜浦の投げるボールをよく見てストライクはカット、ボールは見送るという持久戦に持ち込む覚悟だった。


 ストライク、ボール、ストライク、ファール、ボール、ファール、ファール、ファール、ファール、ファール、ファール、ボール、ファール、ファール、ファール、ファール、ファール、ボールという内容だった。結果は四球。エミリーは我慢比べに勝ったのだ。これで満塁、8番服部の所で満を持して「代打安田」が送られた。


「千載一遇のチャンスだ! 頼むぞ安田!」

「キャプテーン! 頑張ってくださーい!」

「3年間のすべてを出し切れ! 安田ァ!」


 渚ベンチの盛り上がりは過去最高となっている。誰もから認められる人望で全員一致でキャプテンに任命された安田。その重責をおくびにも出さない力強い笑顔でみんなを励ましてきた。チームに大きく貢献しながら甲子園での出番はここまでなかった安田がついにそのベールを脱ぐ。盛り上がらないはずがない。


「やれやれ、頼むぞ頑張れなんて気楽に言ってくれるぜ。こういうやっかいな場面ばっかり回ってくるんだよなあ俺は。でも3年間、楽しかったぜ。ふふ、相手のピッチャーは将来プロで活躍するタイプの人間だ。じゃあ俺は? もうこれが大きい場面じゃ最後になるだろうな。だから今日ぐらいは華を持たせてくれてもいいよなあ浜浦さんよお!」


 簡単に2ストライクまで追い込まれたが、安田には不思議と焦りはなかった。負けて元々、ここまで来ただけで身に余るほどの光栄だ。ここで打とうが打つまいがどっちでもいいや。そんな力の抜けた考え方がスムーズなスイングを誘発した。3球目、浜浦が必勝の決め球として繰り出したスライダーをナチュラルなスイングで左中間に弾き返した。


「そんな馬鹿な! あんなバッターにこの俺のボールが……」

「うおおおおおおお! 長打コースだ! 回れ! 回れ!」

「油谷ホームイン! 同点! 村上も行け!」


 フェンスへ抜けようかという鋭い当たりだったが杉崎がキャッチ、素早く体勢を立て直して矢のような返球を見せた。しかし村上を止める事は出来なかった。キャッチャーミットにボールが収まる一瞬先にヘッドスライディングした村上の両手がホームベースに触れた。逆転! 3対2! 安田の甲子園における最初で最後の打席は渚に最高の歓喜をもたらした。


「やったああああああ! さすがキャプテン!」

「絶対にやってくれると信じてたぞ安田!」

「次は六川だ! ついでにお前もヒット打てや!」


 なおもランナー一二塁で打席には六川が向かった。本来の実力から見ると絶対打てるはずがないのだがここは魔境甲子園、もはや実力など関係ない空気に突入している。浜浦のストレートは速いし六川は体格からして頼りない。しかし六川は諦めなかった。必ず打ってみせる、打ってエミリーを楽にしてみせると思い続けた。そのお陰で打てた。


 ストレートに力負けした打球だが当たり所が良かった。ファーストの後方をフラフラと飛び、ライト線ギリギリに落ちた。判定はフェア、スタートを切っていたエミリーは三塁を回ってホームへ突入していた。


「ああ、落ちた! ヒットだヒット!」

「まさか! 六川が打ちやがった! ランナーは、エミリーか!」

「走れエミリー! 走るんだ!」


 エミリーは足が速いわけではないが全力で走った。途中で思い出たちが走馬灯のように蘇ったがそれもすべて振り切るように走りきった。もはや過去も未来もない。ただ今のためだけに青春の日々を燃やし尽くす、甲子園とはそんな舞台だ。


 そしてエミリーはホームを駆け抜けた。それを見た安田は穏やかに笑った。この笑顔、本当はエミリー1人のために見せたかった。しかしキャプテンとして平等に笑顔を振りまく道を選んだ。そしてそれはきっと間違いではなかった。


 安田は間もなくショート寺沼にタッチされてアウトとなったが、表情はまったく変わらなかった。嬉しいのだ、自分がエミリーのために何かを出来たというそれだけでさえも。7回表、渚は3点を取って4対2と一気に逆転に成功した。この上げ潮に乗って7回裏は京南の下位打線を三者凡退に抑えた。8回表は牧本が四球を選んだものの後続は絶たれて無得点。


「後2回だぞ! 頑張れ渚!」

「いやまだまだ分からん! この回は上位打線に回るからここで何としても逆転だ京南!」


 観客席もヒートアップする8回裏。先頭打者の菅原はエミリーの初球、スライダーをいきなり叩いてライト前ヒットで出塁した。エミリーのボールはコースは良かった。しかし球威は明らかに落ちていた。炎天下ですでに118球を投げており、疲労はピークに達している。噴出する汗を細腕で拭う表情は能面を装っても心なしか険しい。


 京南はトップに戻って静木。これまた初球、バントを仕掛けてきた。しかしボールの勢いを完全に殺せていなかった。エミリーは素早く前進して素手でボールを掴むと、反転する勢いのままにボールを二塁に送った。ショート愛沢が捕球してアウト。得点圏にやすやすとランナーを進めはさせなかった。


「よーしナイスフィールディングだエミリー!」

「ふふ、助かったわね。それにしても強打の京南がバントなんて、向こうも随分焦っているようね」


 エミリーの読みは当たっていた。菅原が出塁した事で、次の2人がアウトになってもクリーンナップまで回る。京南としてはそこまでに少しでも有利な状況を作っておきたかった。しかし送りバント、まったく練習していなかったプレーを突然やれと言われても案外上手く出来ないものである。また、エミリーのフィールディングに関しても過小評価していたようだった。


 しかしエミリーのスタミナが大幅に削られているのは覆しようがない。強攻策に切り替えた途端に織田と杉崎が連打、瞬く間にワンナウト満塁となった。ここで迎えるのは4番寺沼。最強の打者である。渚はここでタイムを取った。


「どうする、エミリー。場合によっては1点くれてやっても」

「それは駄目よ。仮に敬遠で押し出しになったとして、次の浜浦君も簡単に抑えられる相手じゃないわ。もはや逃げようにも逃げ道はない。今はそういう場面よ」

「ならば、勝負か。しかしあいつを抑えられるか」

「やるやらないよりやるしかないわ。手はあるけど、打たれたらごめんね」


 バッターボックスの前では寺沼が澄んだ瞳をきりりと尖らせながら「よーし、やるぞ!」とばかりに二度三度とスイングの最終確認を行っている。ただでさえ最強な上に集中力もマックスまで高まった相手を前に、さすがのエミリーも弱気な言葉が頭から離れない。しかしここまでずっとパートナーだった安田の言葉が不安や恐怖を打ち消した。


「馬鹿が。今更何を弱気になってるんだエミリー。俺はお前を信じてるぜ」

「先輩! 僕も信じてますよ!」

「はは、そうだな。まあ駄目なら駄目で来年にでも託せばいい。なあ油谷、牧本」

「そんな滝内先輩、水臭いですよ。俺たちは先輩たちと一緒に勝ちたいんですから。そうだ、俺のところに打たせてくださいよ。絶対にゲッツー奪って見せますから」

「いやいや牧本よ。お前じゃあ役不足だ」

「油谷よ、言葉は頼もしいがその役不足は誤用だろ」

「あれ、そうでしたっけ」

「ふふ、本当にありがとう、みんな。お陰で心の覚悟が出来たわ」


 もはや戦局はクライマックス。戦術がどうこうと言い合っても仕方がない。それよりも、こんな風に皆が言いたい事を言いながらにぎやかに進んでいくのが渚のスタイルだ。ここに至って、エミリーは本心から微笑んだ。それまでは勝ちたい、勝って名を轟かせたいといった邪念も頭の中にはびこっていたが、今はそんな野心も心から消え去った。こんなにも素敵な仲間に囲まれているのだから、それだけで十分だと思えたのだ。間もなくタイムは終了した。


「頑張れよ、エミリー」

「僕たちがついてます」

「もうこうなったら勝負しかない、頼むぜ」

「絶対に優勝しましょうね」

「最後まで悔いのない戦いを」


 それぞれが言いたい事を言うとダイヤモンドに散らばった。彼らにとって自分たちと同じように汗を流した金髪碧眼の少女は、その存在が女神そのものとなっていた。六川なんかは直接口にしたが、本当は誰だって思っていた事なのだ。


「私のためでなく、今はみんなのために投げたい!」

「俺たちの女神に負けを付かせてなるものか!」


 渚のすべてが1つになった。


「プレイボール!」


 耳をつんざく球審の声に感覚を研ぎ澄ましたエミリーの第1球は内角高目へのストレートだった。寺沼は悠然と見送ってストライク。続いてスライダーを外に外してボール、フォークでファールを打たせて追い込んだ。そしてゆるいカーブを外してカウント2-2とした。


(よし、うまく追い込んだ。次はとどめの魔球を低目に投げるんだ)


 ここが勝負球になるのは明白であり、その勝負にはもっとも自信のある球を投げさせるに限る。そう考えて安田はこのサインを送った。しかしエミリーは首を横に振った。普段ならここはこのボール以外ありえないのになぜだと言わんばかりに再度同じコースを要求したが答えは同じだった。ならば、ストレートか、スライダーか、シュートか、フォークか、カーブか。すべて違った。もう分からない。安田はたまらずタイムをかけてマウンドに駆け寄った。


「おいおいどうするつもりなんだエミリーよ」

「安田君、何も言わずに外角低目ギリギリに構えてほしいの。絶対にボールをそこに通すから、動かさないでね」

「じゃあスライダーか? しかしそれで本当に抑えられるか?」

「手はあるって言ったでしょう。お願い」

「……分かった。お前を信じる気持ちは少しも変わってないからな」

「ありがとう」


 安田は引き下がった。エミリーは小さく微笑んだ。試合再開と同時に、一瞬目線を上に向けてからランナーなどいないかのように大きく振りかぶったエミリー。そして左腕を後ろに引いたところで腰を90度に折り曲げた。その状態のまま、腕も腰に合わせて90度下げたまま力強く振り出した。


「むう、アンダースローか!?」


 さしもの寺沼も土壇場で繰り出された秘策中の秘策に驚嘆したが、どうせボールが来るのは同じだ。コースを見極めて、振りぬく。このシンプルな動作を極めた男がいつもの作業を行おうとした。しかし、ボールのコースは明らかに自分の身体をターゲットにしながら直進していた。


「どういう事だ! これじゃあデッドボールになって、な、何だこれは!」


 回避の姿勢を取ろうとした瞬間、ボールが目の前から消えた。次の瞬間、ボールがミットを叩く音と「ストライクバッターアウト!」の叫び声が少しの時間差をはさんで聞こえた。凍りついた表情のまま振り向いた寺沼だが、キャッチャーの安田も自分と同じ表情をしていた。審判も、グラウンドにいる双方の選手たちも、ベンチも、そして観客さえも。ただ一人、マウンド上で静かにたたずむ魔球天使を除いては。


 そもそもエミリーが使う魔球とは、基本的には落ちるスライダーの応用である。エミリーは通常の人間より肩の可動域が広い事はすでに述べた通りであるが、それに加えて彼女の場合は肩の関節を意図的に出し入れする事が出来るのだ。魔球を投げる際は肩を脱臼させた状態で普段と同じように腕を振る。肩の可動域が広い分、通常より多く回転をかける事が出来るようになり、その分大きく変化するのだ。


 そして今回は腰を曲げて、アンダースローから同様のボールを投げた。するとどうだろう。それまでは縦に落ちていたものが角度が90度変わったことによって真横に滑るような変化をするようになったのだ。左打者の寺沼にとっては「自分に向かってきたはずのボールが突然消えた」と見えたのは当然の事で、突然の異常な大変化にさしもの最強打者も動体視力が追いつかなかったのだ。これでアウトは2つとなった。


 次に出てきた浜浦は顔が引きつっていた。ネクストバッターズサークルで見た魔球のうねりは、同じ投手だからこそよく分かるのだが明らかに常軌を逸していた。「あれを投げられたら絶対に対応できない」とおびえ、普段の人を食ったような豪胆さはまったく身を潜めていた。しかし第1球、エミリーが投じたのは球威皆無でコースも甘い棒球だった。あまりにも酷すぎたので逆に見逃してしまった程の。


「何だ、今のボールは。そうか、寺沼には投げられても俺如きにはこんな棒球で十分って事か!」


 浜浦は内心で怒り狂った。なめられたと感じたからだ。しかしエミリーとしては今のボールが掛け値なしに今の全力投球であった。エミリーの肩は柔らかすぎて投げ続けるには体力が足りない。そのただでさえ脆弱な肩を酷使する魔球は1日に5球が限度である。しかもアンダースローという普段以上に肉体を酷使するフォームで投げたためにダメージは倍化。ただでさえ京南の超強力打線と相手をするのは大変なのに、さらに大技を繰り出した事ですでに限界は近かった。


 普段から酷使していると来るべき時に使えないと、臨時にワセリンなどを利用して擬似的魔球を投げたりもした。この甲子園においても本物の魔球と偽魔球はいくらか使い分けた。しかしこの決勝戦においては、すべてが本物の魔球だった。自分の野球人生、どうせ輝けるのは一瞬だけ。エミリー・スピッツとは蜉蝣のような投手であると本人も自覚していた。だからこそ、一番輝く瞬間を一番輝く場面である甲子園の、できれば決勝で発揮したかったのだ。


 疲れきったエミリー。しかしそれでもストライクゾーンに変化球を投げ込む事が出来る。それだけの練習はしてきたからだ。しかしストライクに入るだけのボールが浜浦ほどのバッターに通用するはずもない。2球目、外に投げるはずがやや中央に寄ったスライダーを痛烈なライナーで打ち返された。打球は一瞬でセカンド油谷の右を抜けてライト前に落ちた。静木はホームイン、そして同点のランナーとなる織田もサードベースを蹴った。ここに立ち塞がったのがライト六川だった。


「ええいこんな打球なんか! お姉ちゃんは僕が守るんだ!!」


 叫びとともに振り抜かれた右腕からは打球のそれをも凌ぎ、音を超え光に至るほどに猛烈なスピードの返球がホームに向かってきた。織田は構わず特攻、待ち受けるは渚のキャプテン安田。低弾道の白球をがっしりとミットに収めてランナーを見据えた。そのランナー織田は頭から突っ込む。クロスプレーとなった。


「アウト! アウトォーッ!!」


 弾き飛ばされても安田はボールを手放さなかった。ここまで甲子園で出場機会のなかったキャプテン安田。しかしそのような状況にあっても率先して声を出してきたし、練習でも一切手を抜かず出番に備えてきた。チームの良い事も悪い事もすべて受け止めてきたこの男が勝利を守る白球も受け止められたのはもはや必然であった。


「よっしゃあ! まだ1点リードしてる! 残るは後1回3アウト!」

「京南最強クリーンナップを持ってしても追いつけなかった。駄目なのか。もはやこれまでなのか……」


 絶望と歓喜が次々と駆け巡ったスタジアムの中心、マウンド上のエミリーは意識が飛びそうになるのをどうにかこらえた。まだ9回が残っているからだ。その9回表、ツーアウトランナー無しの場面でエミリーに打席が回ってきたが、構えただけで一度もバットを振らずに、実際は振れずに三振に倒れたがそれを咎める者がいるはずもなかった。そしてエミリーは最後のマウンドに向かった。


 やはり球威はあからさまに落ちているので先頭打者の堀江にはヒットを許した。しかし続く岸部と牛田を打ち取った。この2人は寺沼ほど長打を打つセンスがないのに長打ばかりを狙っているので大穴が存在する。具体的に言うと、岸部は外角低目、牛田は内角高目である。そこを重点的に突けばそれほど怖い相手ではなく、むしろヒットでコツコツつながれた方が危なかった。


「9回2アウトで渚1点リード。ついに、来るのか」

「このまま、終わってしまうのか」


 最後の場面が近づくにつれて、甲子園はむしろ静かになっていった。その瞬間を、固唾を飲んで見守っているのだ。しかしまだ分からない。ここで打席に立つ9番菅原は今日1本ヒットを打っている。ここでホームランなら逆転サヨナラだし、出塁すればまたトップバッターに戻る。そうなるとむしろ京南の流れだ。


 牽制をはさみつつ、3球連続でお得意のスライダー攻勢をかけた。ボール、ストライク、ボールと来て3球目はゆったりとしたカーブ。これはファールを誘発して、ついに追い込んだ。後1球、最後に投げるのは魔球だと決めていた。セットポジションから投球動作に移ろうとする時、太いゴムが強い力によって引き裂かれたようなバチンという音がダイヤモンドに響いた。


 マウンドの中心ではエミリーが右膝をついてうずくまり、ボールはホームベースとファーストの中間を力なく転がっていた。魔球天使の最期であった。


「エミリー、エミリー! お前……」

「ふふ、残念だけどお別れの時が来たようね。私はもう終わりだけど……」

「やめろ! まだまだこれからだって言うのに、そんな言葉聞きたくもない!」

「ごめんなさい。でも私の身体は私が一番知っているわ。今、肩の腱が切れたから、私はもう二度と投げる事は出来ないの。でも後悔はしていないわ。力のない自分でもここまでやれたのだから。私にとってはいささか過ぎた役回りだったわね」

「お前、そんな無理を……」

「私よりも、早く投手を代えないと。堂島君を呼んで」


 駆け寄ってきた安田に対していつになくしおらしい言葉をこぼすほどの致命的なダメージを負っていた。今、エミリーの体中には顔を歪めて泣き叫んでも不思議ではないほどの激痛が走っている。現に瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるし、表情もギリギリで崩壊を免れているもののかなりこわばっている。意地を張った少女の最後の強がりは痛い時にも「痛い」と叫ばない事であった。しかしその痛みは皆の心に十分伝わっている。


 エミリーはもう一生投げられない。ある意味不正投球に走った報いとも言えるが、あるいはこれも本人が望んだ結末だったのかも知れない。間もなく堂島がマウンドに呼ばれた。あまりの事態に堂島は何も言えなかった。「そら出番があると嬉しいわ。けど、こんな状況とは思いたくなかった」というのが偽らざる心境であった。


「堂島君、渚の明日は君達のものよ。得意のシュートで抑えてみせなさい」

「……分かりました」

「じゃあ、頼むわよ」


 いつになく神妙な顔つきの堂島に、エミリーは傷ついた左手をかざして白球を手渡した。堂島の右手がそれを強く握り締めた瞬間、一粒の涙が白球を染めた。それは午後の太陽光に照らされてプリズム色に輝くエミリーの長いまつげから放たれた決別の証であった。


「君、投球練習はいいのかい?」

「構へん。先輩の残り香を消したくないんや。準備はブルペンで十分やってきました! 投球練習はなしで、投げさせてください!」

「分かった。では試合再開だ」


 2アウトランナー三塁、フルカウントからの1球目、投げたのはもちろんエミリーに言われた通りのシュートボールだった。しかし力が入りすぎたのか、投げられたボールのコースは明らかに左に寄りすぎていた。


「ああ、まずい。これではボールになってしまう!」

「それはないわ。だってあのボールには私が願いを込めたもの。さあ、曲がりなさい!」


 ベンチに戻ったエミリーの叫びに呼応するように、プレートからホームベースまでの道を半分過ぎたあたりで急激に変化し始めた。まるでエミリーが8回に投じた大魔球の再来であった。バッター菅原は驚異的な変化に驚きを隠せない中、強引にスイングした。しかし白球は何者にも邪魔される事なく渚のキャプテン安田のミットへと吸い込まれた。ゲームセット。歴史は塗り替えられた。

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