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第8話 若さのゆくえ 裏

 自分の部屋に戻ったエミリーは、愛用のグラブとボール1つを無意識のスピードで手に取った。エミリーが今のグラブを使い始めたのはちょうど高校に入学した直後だった。その時から今までを思い出してみても野球の事しか思い浮かばない。対策はしていたもののさすがに緊張した一発勝負の入団テスト、地獄を見た日々の練習、それをさらに凝縮させた合宿、2年生の秋に訪れた出場機会、公式戦登板……


 そして今、エミリーは高校野球最大の舞台である夏の甲子園の決勝戦において先発登板するというこの地球上に1年で2人しか生まれ得ない大いなる栄誉を獲得しようとしている。すべてを見守ってきたのは美代菜との写真とこのグラブだけだ。まさに高校生活すべての思い出が詰まった自分の分身と言える。


「これを使うのも今日で最後になるのね、きっと」


 一度目を閉じると改めて自分のバッグの中身を見た。肌をケアするために持ち込んだ数種類のクリームや化粧水に紛れて黒い小瓶も入っている。左手の親指で蓋を開けるとその中に入っている白いジェル状の物体を空っぽな瞳で数秒見つめた。そして蓋を閉じた。今後二度と空ける事はないと決意しながら。


「準備は出来ましたよ」

「私も。じゃあ行くわよ」


 ホテルの前でグラブとボールを持ってたたずむエミリー。まずは至近距離から軽く、ボールの感触を確かめるように投げた。体の正面に向けて正確に放ることが重要である。六川はそれに応えて、基本通りに体の正面でボールをキャッチした。次第に2人の距離は遠くなり、肩に力を入れて投げるようになっていく。


「ろっくんあんた、本当にいい球投げるわね」

「そりゃあもう、肩だけで野球部に入ったしベンチにも入った男ですから!」

「あはっ、入団テストはやっぱり肩で合格だったのね! そこも私と同じなんだ」

「エミリーさんもですか!」

「そうよ。だからさ、案外ピッチャーやっても面白いんじゃないの?」

「まっさかー。変化球とか僕には無理ですから」

「私だって最初から投げられたわけじゃないの。それに」


 何かを言いかけてやめたエミリーの表情は今日という日に似つかわしくないほど曇っていた。まだ決心がつきかねていた。しかしすぐに「今日で最後」と思い出した。どうせ最後なんだからすべてを打ち明けたいという刹那的な理由ではあるが、きっかけには十分だった。


「それに、何です?」

「ふふ、やっぱり私なんてさっさと足蹴にしたほうがいいわよ。まっすぐ成長したいならなおさらね、私みたいになってはいけないの」

「そんな、いきなり変な事言わないで下さいよ」

「イリーガルピッチ。聞いた事はあるでしょう。座りなさい」


 見る見る真剣な顔に変わっていくエミリーの剣幕に押されて、六川も言いたい事があったにも関わらず腰を下ろし、キャッチャーの構えとなった。


「まずはストレート!」


 エミリーは振りかぶると、問答無用で投げ込んできた。俄仕立てとはいえ一応ここまでキャッチャーとしての練習を積んできた六川である。パーンと高音を響かせつつ捕球した。球威は普段の7割程度だが、コントロールは絶妙でストライクゾーンの四隅を的確に突いてくる。


「次にスライダー! カーブ! フォーク!」


 変化球もしっかりキャッチする六川。これも練習の成果である。本人はまったく気付いていないが、この決して身長も高くなければパワーやスピードも他を圧倒するもののない少年の内側に秘められたセンスはかなりのものである。その才能が花開く姿をエミリーは出来るならもっと見つめていたかったが、とりあえずは今日でピリオドとなるのが少し口惜しくもあった。


「そしてシュート! これは堂島君に教わったの」

「そうだったんですか。だからあんな」

「何か言ったかしら?」

「いえ、何でもありません! 続けてください!」


 六川は知っていた。エミリーが時々堂島と逢っていたと。その理由を聞く勇気はなかったが謎が解けたとなると悶々とした気分もいくらか晴れた。次はエミリーがその気分を晴らす番である。完全に覚悟を決めたエミリーは、それまでより小さな声で告白を始めた。


「そう、じゃあこれからが本番よ。まず結論から言うと、私はイリーガルピッチを知っている」

「……」


 イリーガルピッチを駆使しているらしい技巧派少女ピッチャー。これがマスコミを通じて伝わるエミリー像である。そしてその実体について、エミリーは自らの口から「それは事実を含んでいる」と認めた。六川とてまったく知らなかったわけではなかったにしても出来れば聞きたくなかった言葉ではあった。


「でもね、そんなものを使わないと変化球を投げられないわけじゃないの。それだけは信じて。まあ、私の言葉なんて信じてくれなくてもいいんだけれど」

「最初から信じています! 僕は! 先輩、エミリーさんの事を!」

「ふふ、ありがとう。じゃあついでにタネ無しの手品も見てくれるかしら」


 そう言うとエミリーは大きく振りかぶり、白球を投じた。球威はストレートと同じ、しかし高目に浮いている。六川が捕球のため腰を上げようとしたところ、ボールが急激に落下し始めた。まるでその時点だけ重力が消えたかのように滑り落ちたボールは目で追うことすら困難であった。


「う、うわあああ!!」


 ボールは直前でバウンドし、六川の丹田あたりを直撃した。エミリーは悶絶する六川に近づいて言った。


「ごめんね。これを捕れないって分かってた。でもろっくんには言葉だけじゃなくてすべてを知ってほしかったの。ボールを調べてもいいわ。私の体を調べても。それでも、今のボールからは何も見つからないと断言できるわ」

「そんな事はしません。僕は何があっても心が変わることはありません。たとえいけない事をしていたとしても」

「少し疲れたしもう一眠りしましょうか。付き合ってくれてありがとうろっくん」

「あ、待ってください。最後に変な事を聞きますけど、どうしてエミリーさんはそこまでしてこの場所を目指したんですか」

「……そうね、目立ちたかったから、じゃあ悪いかしら?」

「それがエミリーさんのすべてならそれでもいいです。でも僕にはそうじゃないように思えてならないんです。本当のことを言ってください。僕はエミリーさんのことが好きです。それとも僕じゃ駄目ですか?」


 唐突な告白だったがこれもうすうすそうじゃないかと予想していたので、エミリーは眉毛を少し動かす程度で概ね表情を変えずにいられた。


「そう。私もろっくんの事は好きよ。でももっと好きな人もいるの」

「えっ、あ……」

「ふふっ、もう困るなあ。そんなしょげた顔しないでよ、ろっくん。別に恋人とかじゃないんだから」

「あっ、そうなんですか!」


 さっきまでのしょんぼりした顔が一転、夜明けの朝顔のようにパッと明るくなる六川の現金さがエミリーにはかわいくてならなかった。でもあんまりにやけてるとムードが壊れるので、夜の静寂を破りうっすらと青みがかってきた空を眺めながら言葉を続けた。


「それでその人と私は同じ夢を追い求めた同志だと勝手に決めつけててね、だから今だってあの人の叶えられなかった夢を……」


 ここまで言いかけたところでエミリーは自分の言葉を鼻で笑ってうつむいた。何をどう言い繕ったところでイリーガルピッチに身を窶したのは100%自分の意志によるものである。それをさも誰かのためにあえて外道に身を投じたかのような物言いは欺瞞でしかない。それぐらいはエミリーだって分かりきっていた。


 薄汚い投球に走り野球の尊厳を穢した女の正体は虚栄心に囚われた愚にもつかない俗物であった。そんないかにも陳腐なシナリオこそが今の自分にはお誂え向きだ。もちろんそんな歪んだ人間が誰かに愛されるなどありえないし、それを望む事さえもってのほか。初めて油の染み込んだ指でボールを握った時、自分はそういう人間なんだと決めつけてそう信じながら生きてきた。


 それでも六川の曇りなきまっすぐな瞳に見つめられると、胸の奥底に封印していた感情がひとりでにうずいてしまう。心の底から愛されたい。間違いじゃないと慰められたい。自分がそれにふさわしくない、許されざる罪深い人間だと知っているからこそ、本当は誰かに許してもらいたい。


 それゆえに、エミリーは笑顔の仮面をかぶる。本当は流暢に喋れるくせにマスコミの前では片言の日本語を操ってみせるように、本当は目の前にある小さな肩にもたれかかりながら泣いてわめきたいのに余裕ぶってみせるのだ。


「そうだ。大会終わったらデートしよっか。横浜あたり」


 六川はまたはぐらかされてるとは感じつつも、エミリーよりもむしろ自分の弱さを恨んでいた。今の自分ではエミリーの体にまといつく悲しみのすべてを支えきれはしない。それが彼女にも見透かされているのが何よりも悔しくてならなかった。


 この人のすべてを体中で抱きしめられるような男にならなくては。少年は低く静かな声でそう決意した。ともあれ、こうして2人は自分の部屋に戻り、少し酷使した肉体を休めた。




「さあ、いよいよこの日が来た。もう泣いても笑ってもこの1試合しかない。まずは全力を尽くす事だけを考えろ。そうしたら後は天命を待つのみだ」


 監督の訓示に部員たちは元気よく返事する。見たところ、誰もが気負いない精神状態である。しかし実際のところは分からない。朝食の際、いつもより静かに思えたがそれも気のせいかもしれない。テレビの音や鳥のさえずりといった日常的に流れる音声でさえも、今日に限ってはそれが吉凶を占う何かであるかのように聞こえてしまう。緊張すると感覚が繊細になるのでそんな些細な事すら気になってしまうのだ。


 そして迎えた決勝戦。甲子園には360度見渡しても人、人、人。5万人を上回る生の観客に加えてテレビやラジオという耳目も加わり、数千万がこの甲子園という一点に注目している。そして両チーム最後のオーダーが発表された。


先攻 渚高校

1 遊 愛沢

2 三 牧本

3 中 才

4 一 滝内

5 二 油谷

6 左 村上

7 投 スピッツ

8 捕 服部

9 右 山久保


後攻 京南学園

1 二 静木

2 右 織田

3 中 杉崎

4 遊 寺沼

5 投 浜浦

6 捕 堀江

7 左 岸部

8 一 牛田

9 三 菅原


 直前練習も終わり、もはややる事は試合のみである。一塁側ベンチには純白のユニフォームに明るく濃いブルーのアンダーシャツ、ストッキング、帽子の渚高校。胸にはふちをブルーで囲まれたイエローの文字でアーチ状に「NAGISA」と書かれている。フロントラインはブルー。帽子はブルーを基調に、イエローで「渚」と漢字が書かれている。また、ストッキングにもイエローのラインが描かれている。鮮やかな色使いだがデザインそのものは王道である。


 一方で三塁側の京南学園のユニフォームのベースは灰色がかっている。アンダーシャツ、ストッキング、帽子は黒が基調となっている。まさに漆黒と言うべき明確なブラックである。胸の文字は左胸の部分に小さな赤い文字で「KEINAN」と書かれている。フロントラインも赤。帽子にも赤い文字で「K」と書かれている。


「プレイボール!」


 サイレンの中、京南の先発ピッチャー浜浦榊が投じた白球が唸りを上げる。ど真ん中、ストレート、153キロ。スタンドがざわめいた。これこそエース浜浦が渚に送った挑戦状である。これに愛沢は、そして渚の選手たちは完全に気圧されてしまった。愛沢、牧本は完全に振り遅れての三振に倒れ、頼みの才も平凡なセカンドフライに打ち取られてしまった。


「聞きしに勝る剛速球だ。これはちょっとやそっとじゃとても歯が立たないぞ」

「やはり勝機があるとすれば投手戦か。まあ最初から分かっていたがな。そういうわけで、頼むぞエミリー」

「任せなさい! 私なりに対策も練ってきたし、とりあえず3点以内に抑えるわ」


 いつになく自信ありげな、元気の良いエミリーの声に監督をはじめとした渚の面々は目を見張った。とは言えそれは虚勢であって、実際のところはエミリーも不安しかなかった。


 確かに研究はした。しかし研究すればするほど「こんなモンスター相手に本当に勝てるの?」という絶望的な気分が支配するだけであった。それほどに強力な打線に立ち向かわなければならない。ただひとつはっきりしていたのは、そんな敵を相手に気持ちでも負けたら万に一つの勝ち筋さえなくなるという事実だ。「とにかく堂々とした態度で投げよう」がエミリーの研究結果であった。


 京南のトップバッター静木が左打席に入った。まず1球目に選択したのはお得意のスライダーだった。外角に決まって判定はストライク。しかし静木は冷静にボールの球筋を見極めているようで、ほとんどスイングする気を見せなかった。結局静木はショートゴロに打ち取った。そして織田はレフトフライ、杉崎はセンターライナーと、こちらも三者凡退で初回を終えた。


 その後も浜浦は自慢の剛速球が冴え渡って3回を9人、5奪三振というパワフルな内容で抑えた。一方のエミリーはこれまた自分の得意とする変化球多投のピッチングスタイルを披露して3回を9人で抑えた。奪三振は0ながら正確なコントロールとバックの堅い守りでヒットを許さなかった。エミリー最大の強みはあらゆる変化球を正確にコントロールできる点にある。それが出来る投手は少ない。ましてや高校生には。多少球威に劣っていてもそれだけである程度は抑えられるものである。


「ナイスピッチ! エミリー」

「ここまで完璧じゃないか。相手にも負けてないぞ」

「ふふっ、そうだといいけどね」


 ベンチで祝福を受けるエミリーだが、彼女にとって現状はあまり好ましいものとは思っていなかった。そもそも相手が打つ気がなさ過ぎるように映っていたからだ。


「おそらく、私のピッチングをその目で観察していたんでしょうね」

「確かに、多少甘いコースに行っても積極的に振ってくる事はありませんでした。ただ単に京南が消極打法に徹しているだけとも思えませんし」

「確かここまでの試合でも4回以降の得点が多いはずよ。そうでしょう、ろっくん」

「ええと、はい! ここまで甲子園で4試合、3回までに奪ったのは0点。しかし4回の1イニングだけで合計12点も奪っているんです」

「何だと! それじゃあやっぱり、ただエミリーのボールを見極めるためだけに3回を消費したって事なのか!」

「残念ながらそういう事でしょうね」


 このデータを知っていたのだろう、エミリーは冷静な口調で悪い予感を肯定した。残念ながら自分には相手をねじ伏せて完封できるだけの実力は備わっていない。もっともエミリーだけでなく日本全国の高校生ほぼ全員にそんな実力はないのだが。しかしエミリーは自分の出来る事と出来ない事を知っている。だから、自分では無理なら他人に頼る事だってためらわない。


「ならば、何としてもこの回に先制点をもぎ取らなければ不利になるな」

「しかしあの浜浦の剛球をそううまく打てるのか?」

「でもどうにかしないと。頼むぞ愛沢、どんなやり方でもいいから塁に出てくれ」

「ああ、分かってるさ才」

「しっかりね、愛沢君!」


 冷静な野球脳を持つ愛沢もエミリーと同じ気分だ。分かってはいても攻略の当てはない。それでもやるしかないのだ。悲壮な覚悟を胸に秘めつつその表情は普段とさほど変わらない飄々としたものである。マウンド上では浜浦が余裕綽々と言わんばかりのふてぶてしい表情で首をグルグルと回している。


「その冷静な表情の仮面を引き剥がしてやりてえな」


 愛沢は唇をなめて目をきっと細めると、プレイボールの声が雲ひとつない青空に響いた。

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