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第7話 熱帯夜 裏

 続く5回裏、アウト2つを取ったところで向島工業が動いた。先発だった割田を背番号の指し示すポジションであるセカンドに回し、代わりのピッチャーとして醍醐を投入したのだ。


「あ、あれは村上先輩の弟さん!」

「噂の醍醐君がついに出てくるのか。まさに兄弟対決だな」

「ふふ、お手並み拝見と行こうか」

「頼むぜ愛沢。相手がどれほどの力か見極めないとな」


 兄である式部を一回り小さくしたような体格の醍醐であるが、マウンド上ではそれを微塵も感じさせないダイナミックな体の使い方をしている。そこから投げ込まれるボールは糸を引くようにキャッチャーミットに吸い込まれる。球威はもちろん、コントロールもかなり安定しているようである。愛沢をファーストゴロに打ち取り、上々の甲子園デビューを飾った。


「やるじゃないか。これで本当に1年生かってくらいいいボールだ」

「まあセンスは俺より上だからな」


 弟の活躍に対しても顔色をまったく変えない兄。「あいつにとってこの程度は出来て当然」と言わんばかりである。親馬鹿ならぬ兄馬鹿とでも言うべきか。


「へえ、そんなになのかあの弟君」

「しかし弟に負ける兄じゃないだろ村上よ」

「ああ、そうだな」

「頼むぜ。このまま完封と行こうじゃないか」


 安田の、そして渚を応援するすべての人間の想いに対してエースはただ首を縦に振って答えた。不言実行の男らしさは村上の持つ資質である。しかし何度も言うが内心では誰よりも熱いのだ。集中すればするほど無口になるタイプの村上、かつてないほどエナジーが高まっている。6回表も順調に抑え、ここまで被安打2の無失点と好調をキープしている。


 一方の醍醐も静かに燃えていた。甲子園のマウンドに慣れるのと比例するように球速のボルテージが上昇していく。8回には147キロを計測して観客を沸かせた。式部と醍醐による氷の熱投は9回表までずっと0を並べるという形で進んでいった。そして9回表、この回も0に抑えれば渚の勝利が確定する所まで来た。


「ついにここまで来たのか」

「ああ、後アウト3つ取ればついに……」

「決勝戦だ。もうそこまで迫っているんだ」


 選手たちは次を意識し始めた。


 村上は9回のマウンドに立って観客席を見渡した。今、このスタジアムの全ての視線が自分に注がれている。いや、スタジアムだけでなくテレビで見ている人やラジオで中継を聞いている人もいる。数億の耳目が自分に向けられていると意識すると、思わず生唾を飲み込んだ。ゴクリという音が嫌に響いた。


 大きく深呼吸をした後でプレイボールの声を耳に入れると、このような感傷とはさらばを告げた。誰がどれだけ見ていようが関係ない。今は自分の出来る最高のピッチングをするだけだという思いが内面すべてを飲み込んだ。村上は冷静さをまだ失っていなかった。


 先頭打者はセカンドゴロ、次の打者はセンターフライに倒れてあっという間に2アウトとなった。後1つ、バッターは醍醐。ついに、決まるのか。静かになった球場の熱気はしかし気まぐれな風を巻き起こした。村上は大きく振りかぶって第1球を投じた。外角へのスライダーだった。しかしこれは弟に見破られていた。


「兄ちゃんとずっと野球をしてたんだから、ここでどうするかなんてお見通しだよ。でやあっ!」

「何っ!?」


 糸を引くようなライナーがレフト前に飛んだ。打球は天然芝をボテボテと転がり、滝内に迫る頃にはすでに威力を失っていたのだが、極度の緊張状態にある滝内はこのイージーな打球を後逸してしまったのだ。まさに信じられないトンネル、本来こんな事をする人間ではない滝内が醜態を晒すほどの分厚いプレッシャーが渚を襲う。結局醍醐は二塁まで進んだ。


「村上よ、後アウト1つです。目の前のバッター相手に全力で」

「ああ分かってる服部よ。分かっている」


 普段は冷静さを崩さないはずの村上でさえ明らかに気が逸っている。服部は不安だった。そしてそれは的中した。次のバッターにもライト前ヒットを浴びた。これで一三塁、同点のランナーまでが出塁した状態で迎えるのは背番号4、打順も4番の割田である。立派な体格にふさわしい丸太のような腕をブンブンと振り回して打席に入る。


 「ここで打たれると1点、長打なら同点になるし、万が一ホームランだと……」


 常に冷静だったはずの村上の思考回路にノイズが走った。そしてそのノイズがピッチングにまでも侵入してしまったのだ。


「ボーク!」


 第1球を投げ終わった後、すかさず球審が村上を指差して宣言したのはまさかの判定であった。村上は三塁にいる醍醐を気にするあまり無意識のうちに一瞬投球動作を止めていたのだ。これで三塁にいた醍醐はホームイン、労せずして向島工業に1点が入った。なおもランナー2塁で4番と対峙するという綱渡り状態が続く。


「まさか! そんな!」

「こんな形で1点が、1点が入るなんて」

「村上ともあろう男がここまで動揺するとは、まさに甲子園には魔物が潜むという話の通りか」


 ベンチの面々もまさかの失点に動揺を隠せない。そして試合に出場しているメンバーも同じである。しかし一番ショックが大きいのは間違いなく村上であった。片や目前で完封が潰えたために意気消沈している投手、片やここで打つしかないと覚悟を決めている打者。もはや結果は火を見るより明らかであった。


 揺れる心の中で投じた2球目、ど真ん中のストレートだった。割田の両腕はその平凡なボールを捕らえると、一直線にレフトスタンドまで叩き込んだのだ。逆転、2対3。見えかけてきた勝利は今暗雲の彼方に霧散した。


「式部、ドンマイよ。でももし駄目なら私が代わりましょうか?」

「エミリー、すまない。今までどうかしてたんだ。打たれた事で逆に冷静に戻れたからもう大丈夫」

「本当に?」

「信じてくれ。もう1本たりともヒットは打たれない」


 村上の決意のこもった瞳の前にエミリーはもう何も言えなくなった。同じピッチャーだからこそ、その心理は痛いほどに理解できる。そしてそれを裏付けるように、次の打者を完璧なピッチングで三振に切って取った。残るは9回裏、必ず最低1点を取るしか道はなくなった。


「残るは9回裏の1回きり。1点リードされている。もはやこんな状況だ。俺たちにできる事は1つしかない」

「そうだな。何としても得点を取る! それしか俺たちが生き残る手段はない!」

「こんなところで負けてたまるか! 俺たちは優勝のために戦ってきたんだ!」

「そうだ! 絶対に勝つぞ!」

「おう!」


 追い詰められた事によって逆に集中力が出てきた渚ナイン。さっきまでガチガチになっていた姿が嘘のようである。


「絶対出塁! 頼むぞ才!」

「おう任せろ! 野球生命が死んでも出塁してみせるぜ!」


 今まで見せた事のない凄まじい気迫をまとって左打席に向かう才。醍醐も多少たじろいだか、あるいはあっちはあっちで勝利を意識したのか、それまでと比べるとややコントロールが乱れた。両校の精神状態はまさに表と裏、完全に逆転していた。この勝負を制したのはもちろん精神的に上に立った才、内角へのストレートを鋭くミートした打球は球場のど真ん中を綺麗に通過してセンター前ヒットとなった。


「よっしゃナイスナイスナイスナイス才!」

「才が還れば同点だ! ホームランなら逆転だ! 一発かませ滝内!」


 ベンチも活況の渚、そして4番の滝内も燃えていた。直前の守備では愚かなミスを晒してしまい、それが村上の動揺につながった。この逆転はすべて自分のせいだとさえ思っていた滝内である。


「あの局面で、我ながら情けないミスを犯してしまったが、守備の恥は打席でそそぐ!」


 歯を剥き出しにしてにらみつけるように凶暴な滝内の表情に醍醐は完全に飲まれた。初球のコースが甘いスライダーは当然のように捕らえられ、右中間を驀進していった。フェンス直前でワンバウンドした打球はそのままスタンドイン、エンタイトルツーベースとなった。これでノーアウト二三塁。さっきまでの絶望的状況がまた一転した。同点、いや逆転サヨナラすら見える位置となったのだ。


「頼むぞ油谷! お前が決めろ!」


 台風のような歓声に導かれて油谷はバッターボックスに向かった。そして1球目、醍醐が投じた外角へのストレートを流し打ちした。打球は右中間方面へ飛んでいった。すでに2人のランナーはスタートを切っている。


「よし! これでサヨナラだ!」


 しかしその希望を打ち砕く巨大な壁が立ちはだかった。割田である。身長190cmに届かんとする大男が90cmにもなる左腕を伸ばして70cmのジャンプしたグラブの最高到達点は3mを優に越える。油谷が放ったライナーの通り道となる、まさにその一点に割田の腕は伸ばされたのだ。


「な、まさか、そんな……」

「ショート!」


 割田は捕球したボールをすかさずセカンドベース上にいるショートに転送した。飛び出していた滝内は戻れずダブルプレー、ノーアウト二三塁が一瞬にしてツーアウト三塁となってしまった。一度は大いに盛り上がった渚ベンチであったが、またも意気消沈してしまった。後1点が遠い。それはもう永遠に届かないのではと思われるほどであった。


「俺は最後の打者にはならない」


 よどんだベンチの空気に村上の一言が頼もしく響いた。普段は無口な男だからこそ、自信が余計に力強く見えるもだ。絶望的なシーンでもあくまで冷静な村上に呼応するように、他の選手たちも平常心を取り戻していった。


「そうだな、諦めたら負けだもんな。頼むぞ村上」

「まだ三塁にランナーがいるんだ。打てば同点なんだから全然終わっちゃいない!」

「そうですよ! 村上先輩は必ずやってくれます!」

「ならば俺たちにできる事は村上を応援する事だけだ! みんな、声出して行こうぜ!」

「おう!」


 この回だけでも沈んでいたものが盛り上がり、またお通夜になったと思いきやすぐに熱気が戻った渚ベンチ。まさに一喜一憂である。しかし村上はあくまでもクールを崩さなかった。


「兄ちゃん、もらうよ」

「そううまく行くかな」


 お互い独り言をつぶやいた後でバトルの幕が開いた。1球目は内角へのストレート、村上も思わずのけぞるほどの球威だったがボール。2球目は逆に外角へのストレートでストライク。こうして5球、カウント2-2まで来たがすべてストレートだった。時にはサインに首を振りながら、あくまで真っ向勝負を望んだのだ。


「私情では、勝てないぜ」


 そして6球目、やはりストレートだったが完璧に踏み込まれていた。痛烈な打球は三遊間を切り裂いた。才は悠々ホームイン。兄弟対決は兄の勝利となり、しかも点差も追いついた。続く7番のエミリーはショートゴロに終わり、延長戦に突入が決まった。空はいつしか仄暗く色を変えており、照明が灯された。


「どうする村上よ」


 一塁ベースからベンチに戻った村上に対して大海監督は声をかけた。


「もう9回を投げきったんだ。そろそろ疲れだってたまってくるだろう」

「大丈夫です」

「うちにはスピッツもいるし坂口もいる」

「わ、わいも」

「あまり疲れをためるようだと次だってそろそろ考える必要があるだろう」

「本当に大丈夫です。そのためにここまで調整しながら投げてきたので。まだまだ、後9回だって投げられるくらい肩の調子もいいですよ。それに、今日は何としても負けられない相手ですから」


 内心としてはここらでエミリーを投入するなどしたかった大海監督であったが、いつになく気迫を見せている村上の態度を感じて「むしろこのまま続投させたほうが得策か」と考えを改めた。向こうに弟がいるのは選手も監督も誰もが知っている。その兄弟が投げ合うという因縁がこの気迫を生み出しているとすれば、それをあえて断ち切る必要もないと感じたからである。


「分かった。お前を信じよう」

「ありがとうございます」

「ただ、あまりに打たれるようだとスピッツと交代してもらうぞ。しまってかかれよ」

「はい! ありがとうございます!」


 延長に入っても村上は相変わらずのピッチングを続けた。あくまでも冷静、しかし球は走っている。弟の醍醐も力強さを失わない。兄弟の意地と意地がぶつかり合い、三者凡退で切り抜ける回が長く続いた。そしてついに延長15回、この回も得点が入らないと再試合となる。まず先攻の向島工業、先頭打者は醍醐である。この勝負、お互い負けるつもりもないし当然引き分けるつもりもない。そして賽は投げられた。


 1球目はスライダーでストライク、2球目はストレートをファール、3球目はスライダーで追い込んだが4球目は外してカウント2-2となった。次が決め球となるだろう。投球前、村上は目を閉じた。一瞬、急に視界が開けてきた感触がした。


 村上は知っている。自分は渚においては一番力のあるピッチャーではあるが、その力は県大会でベスト4レベルがせいぜいであると。この後野球を続けるにしても地方の大学リーグでぼちぼち投げて、小さな社会人のチームでぼちぼち投げて、それで終わりだろうと。それを才や滝内といった実力のある仲間の援護やエミリーら他の投手との連携でどうにかここまで勝ち進む事が出来た。


 今は甲子園の準決勝、本来はこんなところで投げられる男ではなかった。しかし今日この場に立って投げている。それは何よりも幸福な事だ。仲間に恵まれた自分だから、自分も仲間のために完全に燃焼し尽くしたいとだけ思った。目を開いて勝負の5球目、しかしストレートが甘く入り、それを醍醐に痛打された。


「しまった!」

「もらったぞ兄ちゃん!」


 センター返しの痛烈な打球は村上のすぐ左を消えて行き、外野に抜けていくかに見えた。しかしショート愛沢が猛烈な勢いで回りこんできた。逆シングルでボールを掴むと素早く左手に切り替えてグッと踏ん張り、力強く一塁へ送球した。


「よく捕った愛沢!」

「ああ、でも送球がずれてる!」


 ギリギリのところでボールに追いついた愛沢、そのプレーだけでも殊勲ものだがなにぶんギリギリで捕球して勢いのまま送球したのでボールは一塁手から見て左側に大きくずれ、しかもショートバウンドするような球となってしまっていた。


「こうなりゃ頼むぞエミリー!」

「任せなさい! こういう球の処理が一番得意なんだから!」


 右足のつま先をベースにつけたまま両足のコンパスを180度に開いた。体を地面にこすり付けて反転させた右腕を限界まで伸ばしたその先のファーストミットに白球は吸い込まれた。


「アウト!」


 愛沢からエミリーへ、逆シングルのホットラインがつながった。そして15回裏、先頭打者の油谷を一塁に置いて村上はサヨナラホームランをレフトスタンドに叩き込んだ。この結果は自分の打席が凡退に終わった瞬間から察しがついていたのだろう。もはや我々の命運は尽きたと。それを受け入れるように、打たれた醍醐の表情は穏やかであった。


「負けたよ。兄ちゃんおめでとう。楽しかった」

「俺もだ。お前は俺以上のピッチャーになるから、体を大事によく頑張れよ」

「うん。兄ちゃんも、次の決勝頑張ってね」

「おう、もちろん。優勝してくるぜ。お前より先にな」


 むせ返るような熱帯夜の中、ようやく村上の顔に笑みが浮かんだ。つられて弟の表情も崩れた。確かに渚と向島工業は勝者と敗者に分かれた。しかしわだかまりなどはまるでなく、まったく爽やかな感情だけがそこには漂っていた。こうして渚高校は最後の扉まで進んだ。残るは決勝の1試合。泣いても笑ってもこの1試合だけである。

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