第5話 勇気を出して 裏
3回表、2アウトまで簡単に奪った坂口だが打順がトップに戻っての古賀に対してフォアボールを与えてしまう。これが第一の誤算であった。続く森口に対する第3球、内角へのストレートで詰まらせ、平凡なレフトフライに打ち取ったかに見えた。
「あっ!」
太陽が目に入ったのか、不慣れなレフトについていた村上が目測を誤りボールをこぼしてしまった。この間に俊足の古賀が一気にホームまで突入し、筑豊第一がまさかの先制点を奪った。ただ本職ではないとは言え、本来の村上はそこまで下手な外野手ではない。例えば相手に左打者が多いチームと対戦するときはエミリー先発で村上は外野という試合も経験した事がある。やはりプレッシャーがあるようだ。甲子園特有のそれに加えて、筑豊第一の不穏なプレッシャーが危険な雰囲気を助長してしまった。
なおもランナー3塁。スタジアム全体が何となく奇妙な予感に包まれる中、五十嵐に対してカウント1-2から空振りを奪うために投じたスライダーがすっぽ抜けてしまった。バックネットを点々とする間に三塁ランナーが生還、自滅するような形でさらなる得点をみすみす相手に与えてしまった。続く五十嵐は平凡なショートゴロに打ち取った。しかしこの回に奪われた2失点はいずれも不要な失点であった。
「なんてもったいない! 焦りすぎだ坂口」
「す、すみません。つい熱くなってしまって……」
「すまん、坂口よ。この失点はすべて俺のミスだ。俺がフライを取っていれば」
「まあ、もう済んだ事だ。忘れよう。これからはまずは1点を取る事、そして逆転する事だけを考えよう。坂口も村上も、みんなもそうだ!」
レフトフライを後逸した村上と暴投の坂口は自分を責め、渚ベンチは暗い雰囲気が支配し始めた。安田はどうにか落ち着かせようと喝を入れたが効力は現れず3回裏は三者凡退。なお悪いことに、渚打線はここまで1人のランナーも出せていない。
「なあに、まだ試合は始まったばかり。まだたったの2点差だ」
「そうそう、これから取り返して見せるからさ、気にするな」
口ではあくまでも明るく自信ありげな言葉を発する渚の選手たちではあるが、その内心では焦りも芽生え始めていた。
「そうは言ってもここから9回まで0のままで終わったらもう終わり」
「今のところ相手投手をまったく捉えられていない」
「本当にあの紅林という投手から最低2点を奪えるのか」
考えれば考えるほど不安を煽る言葉ばかりが頭の中を勢いよく飛び交ってしまう。本当のところは誰だって負けるのが怖いのだ。だから明るさなどを見せて心を奮わせる。
「絶対勝つぞ!」
「おう!」
円陣を組んで気合を入れ直した7回の裏、渚の先頭打者は3巡目となる愛沢。紅林の投球術にはまって1回は平凡な内野ゴロ、4回にはライトフライに終わったがただ単にやられてばかりの男ではない。しっかり分析をしていた。
「この紅林という男、身長もそうだがそれ以上に手足が細長く普通のピッチャーより球持ちがいい。それにツーシームなので手元で微妙に変化している。だからジャストミートしたと思ってもずらされて凡打となる」
鋭い眼光から仕入れた生の情報を頭脳にインプットする。愛沢は野球に関するその場その場の判断を誤らない能力、いわゆる「野球脳」にも優れた選手である。それほどの頭脳がありながら左投げのショートなどという合理的とはとても思えない修羅の道を歩むあたりはこだわりの強い性格が透けて見えるようだが。
「ボール」
(よし、第1球は案の定内角へのカーブだが外れた。しかしこれは見せ球のようなもの。次からが本番だ)
ボールでもポーカーフェイスを崩さない紅林。テイクバックが小さいフォームから第2球は外角へのストレートだった。紅林はこれも見逃した。
「ストライク!」
球速は134キロと特別な数字ではなかったが、スピードガンが示す以上に速く感じさせるのは紅林のタイミングを掴みにくいフォームと長いリーチが生み出す特殊効果である。しかもストレートは小さく揺れており、完璧に捕らえる事は難しい。これも愛沢の待っているボールではなかった。3球目のストレートもストライクで追い込まれたが、ここから3球ファールで粘った。そして7球目、紅林は粘る相手から三振を奪うべくフォークボールを投げてきた。
「これだ! これを待っていたんだ!」
愛沢は体を折りたたんで猛烈なスイングを見せた。ほとんどワンバウンドするようなボールを捕らえると、ゴルフのように振り抜いた。ボールを捕らえた瞬間、それまで冷笑しているようだった紅林の表情に一瞬ひびが入った。ライナー性の痛烈な打球はグングン伸びてあわやスタンドインの、右中間フェンス直撃となる2ベースヒットとなった。また、これがこの試合における渚高校の初ヒットとなった。
「よおおおおおおし! ナイスバッティング愛沢!」
「上位打線やしここから同点あるでえ!!」
「そして一気に逆転だあ! 牧本! 頼むぞ!」
牧本はセオリー通りの送りバントで堅実にランナーを進めた。そしてバッターボックスに向かうのは3回に痛恨のエラーをして先制点を相手に献上してしまった村上。出来るなら自分でタイムリー、あるいはホームランでもかっ飛ばして雪辱と行きたい。しかし今一番優先すべきなのはチームの勝利だ。ぎらつく心を押し殺し、あくまで無表情を装って右打席に立った。
筑豊第一の守備位置はほとんど通常のポジショニングである。幸い2点差である、1点返されてもまだリードがあるので今は焦る時ではないという判断である。それに対して渚の作戦はスクイズだった。2球目に仕掛けたがあっさり成功。打球を処理した紅林は本塁には目もくれず一塁に送球した。これで渚が1点を返した。そして2アウトランナーなしとなった。
「ナイラン愛沢!」
「村上さんもナイスバントです!」
「サンキューロク。しかしあの紅林の表情を見ろよ。このスクイズは予想通りって顔だぜ」
「ええ、まだ向こうがリードしているからまったく焦っていないわね」
同じピッチャーである村上とエミリーが見た通り、紅林にとってこのスクイズは計算済みの展開でしかなかった。1点取られてもまだ1点差で勝っている。むしろランナーがいなくなったので楽になったとさえ思っていた。そして打席には4番才、しかし紅林は厳しいコースにだけ投げてストレートの、実質敬遠と言える四球を演出した。一発の危険がある打者にあえて勝負することもないという冷徹な読みである。案の定と言うべきか、5番の油谷は小さく変化するストレートを引っ掛けてショートゴロに倒れた。
「くっ、すみません。1点とってこれからという場面で」
「気にするな油谷! まだ2回も残っている!」
「そうだ、あの紅林という投手も絶対に崩せないわけじゃない! これからチャンスはあるはずだ」
難攻不落に思えた紅林だが、決してそうではなかった。8回と9回のどちらかに1点取れば延長、それ以上取ったら逆転となる。勝ち目のない相手ではないどころか、むしろいける気しかしない。相手の事はもう関係ないから自分たちの野球をすればいい。得点を奪った事で渚に活気が戻った。
「この8回! 重要だぞ! 必ず0に抑えるんだ!」
「おう!」
大海監督の檄に応えるように、坂口はまたも抜群のピッチングを披露して三者凡退に抑えた。しかし8回裏、先頭打者の森とここまで好投の坂口に代えて送り出した代打小野はまがまがしい気迫をまとった紅林の力投に及ばず連続三振に終わった。どうやら紅林もギアを入れ直したようだ。
「8番、キャッチャー、服部君」
「頼むぞ服部! 何としても塁に出てくれ!」
「ふふ、任せてくださいキャプテン。ここで簡単に凡退する私ではありませんよ」
自信に満ちた態度の服部だが、お世辞にも打撃が得意とは言いがたい。マウンド上の紅林も表情には出さないもののすでに3アウトを取った気でいる。これこそが服部の勝算であった。紅林の1球目はカーブ、これを狙い打った。打球はショートの頭上を越えてレフト前に落ちた。
「ふふ、案の定でしたね。紅林がここまで私たちと対戦した25人、初球にカーブを投げてくる確率は3/5でした。そして私にも初球はカーブ、ここまで多投して見破れない私ではありませんよ」
キャッチャーらしい配球の読みがヒットにつながった。純粋なパワーにおいては同じ捕手では安田のほうが上である。それでも服部がレギュラーの座を維持できるのはキャッチングの上手さとこの「読み」の正確さゆえである。
「よおおおおおおおし同点のランナーが出た!」
「さすが服部さん! 冴えてる!」
紅林は今更ながらカーブの多投に気付き顔をしかめた。筑豊第一には名義上の監督はいるものの実質紅林のチームである。配球もすべて紅林が考えており、野球の知識量が圧倒的なため部内には意見する人間もいない。本人としては均等に投げ分けていたはずが、ここぞの場面でつい自分のクセが出てしまっていた事に気付くのが遅れてしまったのだ。
しかし次の打者は幸いにも9番の山久保。実力で抑えられる相手だ。1球2球とストレートで簡単に追い込んだ。後はフォークで三振の算段だった。しかしフォークがすっぽ抜けてしまい、デッドボールとなった。
「しまった!」
これこそ紅林がマウンド上で初めて発した言葉であった。それほどまでに予定外のアクシデントだったのだ。当てられたバッターより当てたピッチャーのほうが痛いとはよく言ったものである。次は今日ヒットを放った愛沢。ここでヒットだと同点、あるいは逆転も十分にありえる。紅林はキャッチャーを立たせた。
「むう、敬遠!」
「2アウト満塁、1点差。ここで牧本は打てるだろうか」
「監督、俺を使ってください!」
滝内が立ち上がり、監督に向かって声を上げた。病院生活から抜け出してすぐなので顔は青白いまま、しかし瞳の炎は間違いなく戻っていた。
「滝内よ、動けるのか」
「はい」
「心も動くか」
「無論です。今はチームの勝利以外頭にありません。必ず打ってみせます!」
大海監督の試すような問いに対しても一切のためらいなく答えた滝内の決意は固かった。大海監督もそれを信じるしかないほどに。
「そうか、ならば行け。因縁に決着をつけてみせろ!
「はい!」
「2番、サード、牧本君に代わりまして代打滝内君」
滝内の名前が甲子園に響いた途端、嵐のような歓声が鳴り響いた。甲子園ではすでに特大の一発を放っている男がこの決定的チャンスに登場と、まさにこの試合のクライマックスである。
滝内は打席に向かう際、目を閉じた。瞳の中に浮かんだのは昔の自分の事だった。かつては炭鉱で栄えたが自分が生まれる前に閉鎖されたらしく、だだっ広い自然の他に何も残っていない筑豊の田舎町が故郷だった。父親は写真でしか知らない。湧き上がる元気をもてあましてやる事と言えば喧嘩ばかり。体格に恵まれていた事もあり、中学生になる頃には地域でも一目置かれる存在となっていた。当然中学でも荒れた日々を送り、何度も少年院に送られた。
「野球をやってみないか?」
その少年院で更生生活を義務付けられている最中、職員からバットとグラブを手渡された。人を殴るよりボールを打つ感覚のほうが好きになった。家に帰った後でそれを母に話すと喜んでくれた。高校では故郷を離れてここまで来た。荒れくれの日々から逃げ出し、自分の過去を忘れるように野球に打ち込んだ。
「俺に野球がなければ、きっとあそこに進んでたんだろうな」
筑豊第一は滝内の母校となるかも知れなかった。だからこそ意識せざるを得なかったのだ。過去を捨てるのではなく真の意味で過去とするために、滝内昌也は今この瞬間、すべてをぶつけた勝負に向かう。紅林の第1球はストレート。いきなりフルスイングで向かっていった滝内だが豪快に空を切った。
「ストライク!」
「なるほどねえ、聞きしに勝る球質よ」
見事にやられても萎縮するどころか笑みすら浮かべている。2球目はボール、3球目はストレートをファールでカウント1-2と追い込まれた。しかし相変わらず余裕の表情、むしろ紅林のほうがランナーをちらちらと見るなど追い込まれているようである。そして4球目、紅林は勝負をつけるためのフォークを投げた。滝内の脳裏にはこの回を迎える直前のベンチ、愛沢たちとの会話がフラッシュバックしていた。
「あの紅林というピッチャーのフォームは、ストレートとカーブを投げる時はほとんど同じだがフォークを投げる時に限っては少し振り出す腕の位置が高くなる」
「なるほど。だからあの時ボール球になりそうなフォークを打てたのね」
「そうだ。ただ切れ味は本物だから打つのは難しいんだけどな。俺もかなり体勢を崩してのバッティングだっただろ。俺か才か万全な滝内ならって所だな。基本的には無視したほうがいい」
(腕の位置が高い。確実にフォークだ。これを見逃すか。いや、打つのだ。この一打に全てをかける!)
「ここだ!」
ストライクからボールになろうとするフォークボールをフルスイングで完璧に捕らえた。打球は三塁線を襲うライナーとなり、ボールを追うレフトの足以上のハイスピードでフェンスまで駆け抜けていった。
「回れ回れ! 長打コースだ!」
服部が、山久保が、そして愛沢までもがホームイン! バッター滝内は二塁まで進んだ。これで得点は4対2、渚が一気に逆転した。
「おおおおおおおおおおおおおおお!!」
塁上で吠える滝内。この瞬間、すべての過去を振り切ったのだ。9回は滝内がベンチに下がって野中がサードに入り、さらにリリーフエースとして坂口に代わってエミリーが投入された。エミリーは変化球多投の変則投球術であっさり2アウトを奪った。
「4番、ピッチャー、紅林君」
「ふふ、最後に一番厄介な相手ね。敬遠してもいいけど、でもやっぱり滝内君の気持ちを考えると勝負一択かしらね」
紅林はそれまでの冷静な姿とは一転、眉間にしわを寄せて感情むき出して左打席に立っている。これが最後になりたくない、もっとこの場所で野球をしていたいという純粋な想いゆえである。しかし勝者があれば必ず敗者も生まれる。それは渚か筑豊か、次の一瞬で全てが決まる。
大きく振りかぶっての1球目は意外にもストレート。変化球を待っていたものが逆に虚を突かれて見逃しのストライクとなった。2球目と3球目はスライダーが外れてボール、4球目はファールと「後1球」まで来た。1回戦でもウイニングボールとなった例の大変化球を観客は待ち望んでいる。そしておそらく紅林もそれが来ると思っているだろう。
「ふふ、悪いけど私はあれだけの女じゃないわ」
舌で唇を濡らしてからエミリーが選択したのはスローボールだった。しかも単なるスローボールではなく山なりになるほど極端な、いわゆる「イーファス」と呼ばれる大技である。この人をなめたようなボールにタイミングをずらされた紅林は小フライを打ち上げてしまった。それをセカンドの油谷ががっちりキャッチしてゲームセット。その瞬間、エミリーと紅林は同時に目を閉じた。
「おめでとう渚高校。僕たちの完敗だよ」
試合終了後、エミリーに真っ先に声をかけてきたのが紅林だった。その声は恨みがましいところが一切ない爽やかなものだったが、彼の雰囲気からするとそれが解脱でもしてしまったようで逆に不気味だったりする。
「いい勝負をありがとう紅林君。素晴らしいチームだったわ筑豊第一」
「まだまだ未熟ですがね、そう言っていただけると嬉しいですね。ところでスピッツさん」
「ふふ、エミリーでもいいわよ」
「じゃあエミリーさん。あなたはどんな変化球を投げてもまったくフォームが変わらなかった。それを見ると僕たちは負けるべくして負けたんだと悟りましたよ」
案外素直に褒められたので少し驚いたエミリーだが悪い気はしない。変化球を投げるときにフォームが変わるのはよくあることである。戦前の話ではあるが、基本的にアンダースローだがカーブを投げるときだけはオーバースローなので狙い打ちされたプロ投手もいたらしい。それはいささか極端にしても、フォームで球種がばれると危険だ。エミリーは自分の姿を鏡に映して日々修正を加えていたのでフォームの違いはほぼ完璧に修正されていた。地味だが重要な要素である。
「ふふ、そうね。紅林君も来年にはきっともっと素晴らしい投手になっているわよ。そう言えば、何でここまで他校と対戦できかったの? まさか本当に相手に何かしてたってわけじゃないでしょう?」
「いえ、お恥ずかしい話ですがね、高校の評判が九州には知られすぎていましてね。僕はそれを解消するために野球部を創立したんです。最初の1年は部員集めから始まって、ようやくチームになったのが今年でしたがどこからも対戦を拒否されてしまいまして。何されるか分からないって」
「まあ、そんな事」
「だから、今日初めて試合できたから本当に嬉しいんです。まさに今日この瞬間、筑豊第一に新しい歴史が生まれたんです。きっと来年は予選を普通に勝ち進んでここまで戻って来ますよ」
「そうね。まあ私はもう卒業してるけど、期待してるわ」
「では頑張ってくださいね。ところでここだけの話、ワセリンってどこに隠すんですか」
「まあ、もうっ!」
「ははは、じゃあこれでさよならですエミリーさん。きっと優勝してくださいね」
最後の最後に小声であらぬ事を言う頼もしい野球界の後輩出現にエミリーは肩をすくめながら笑った。




