貧弱彼女は悩まない
僕の彼女は記憶力が貧弱だ。
昨日の夕飯の内容を思い出すことができないのはもはや当然のことで、さらに最近では日本語の遣い方まで時々忘れてしまうという始末である。呼吸の仕方を忘れてしまってもがき苦しんでいた彼女の姿はまだ記憶に新しい。
そんな調子なものだから、流石に心配になってしまった僕は嫌がる彼女を強制的に病院に連れて行くことにした。最初はネタか何かだと思っていた。けれども、どうやらそういう風な様子ではなさそうだと遅ればせながら気がつく。そうすると居ても立ってもいられなくて、涙目でヤダヤダと抵抗する病院嫌いな彼女の首根っこを掴んで最寄りの病院へと足を運んだ。
「脳に障害は見られないね」
端的に要約してしまうと、医者の診断はその一言に尽きた。
そんなバカな。
僕は口をあんぐりと開ける。
こんなにも記憶力が貧弱な彼女が脳に何の欠陥も抱えていないだなんて納得がいかない。そもそも数ヶ月前までは性格に難はあっても、一応常識人を演じることができる程度には常識人だったのだから何か病気を患ったに違いないと考えるのが自然だろう。記憶力が五分間しか持たないとか、そういう感じの病を想定していた。
それが、何もないだなんて。
すごく腑に落ちない。
未だに口を開けて呆けっぱなしの僕の頬を、隣の椅子に腰掛けていた彼女が「ほっぺたぷにぷにぃ」などと突いてくるので少しだけ腹が立った。こっちはわりと真剣に心配しているのに、彼女は相も変わらず能天気だ。マイペース、というよりは何も考えていなさそうな表情だった。
緩くウェーブのかかった亜麻色の髪の隙間から覗く彼女の瞳は、とろんとした眠たそうな垂れ目だ。顔のパーツはどれも小さくて、決して美人さんというタイプではなかったけれど、愛嬌のある柔和な顔立ちだった。本当に、悩み事だなんてなさそうに幸せそうな顔で笑う女である。
脳内お花畑女。
それが僕の彼女だった。
「麻子さん、やめれ」
頬を突いて遊ぶことに飽きたのか、僕の彼女こと国城麻子さんが鼻を摘んできたので息が苦しくなる前に慌てて制止した。
それから医者に形だけの礼を述べてから、ふわふわと地に足が着いていないご様子の麻子さんを連れて病院を出る。ボケ老人の介護をしているかのような錯覚に捉われるのは何故だろうか。可愛い彼女の手を引いているはずなのだけれど変だなぁ、と小首を傾げてみても虚しさが一陣の風と共に胸中を過るだけだった。
自動ドアを潜り抜けて我知らずと顔を顰めた。麻子さんも隣で「きゃあー」だなんて楽しそうな悲鳴を上げている。真夏日の太陽は今日も燦々と天頂近くに腰を下ろしていて、肌が焼けるような光線を地上に向けて放っていた。今まで空調の効いた病院内に居たものだから、突然の温度差に目眩を覚えてしまう。ふらふら。足元も覚束ない。麻子さんもそんな僕を真似してふらふらと体を揺すって遊んでいた。
「あちー。セミうるせー」
「うるせー」
輪唱する麻子さん。
腕時計に目を落とすと、まだまだ昼過ぎだったので、このまま帰宅するのも味気なく思って炎天下の中を二人で彷徨い歩く。宛てなどなかった。ただ適当にぶらぶらと歩く。麻子さんとのデートはいつもこんな感じだ。
しばらく経って、病院から少し距離が開いたところでふと麻子さんが立ち止まった。
「……どうしましたよ?」
暑い。
緩慢な動きで足を止める。
「喉渇いた」
僕のシャツの袖をつんつんと引っ張りながら、麻子さんは熱のあまり遠くで揺らめいているように見える自販機を指差した。
何か買って来いとのことらしい。
言いたいことは少なからずあったけれど、結局は一言も文句を口に出さずに重い足取りで自販機へと向かった。僕は基本的に麻子さんに弱い。惚れた弱みっちゅーか、彼女さんには激甘だったりする。だから不満はあっても最終的には彼女の言うことに従う。パシリ上等である。
自販機の前で僅かに逡巡してから、手堅く冷たいお茶を二つ買った。それから帰りは行くときよりも急ぎ足で戻る。労いの言葉を期待して彼女の待つ方へと小走りに駆けた。
麻子さんはぼけーっと雲一つない晴天を仰いでいた。パタパタと駆ける足音に反応して、眠たそうな瞳が僕の姿を認める。
「あなたはだぁれ?」
息を切らしながら駆け寄った僕にきょとんと一言。
この女、労いの言葉どころか早速いつものボケをかましてきやがった。記憶力が貧弱だと言っても程度があるだろう。彼氏の顔を忘れるとは何たる暴挙か。
不思議そうに首を傾げて僕を見上げる彼女に、僕は僕で呆れたような諦めたような視線を彼女に注いでいた。
僕の彼女はボケ老人ではない。
誰かにそう言って欲しい。
「僕は君の恋人だよ」
本当のことを言ってみた。
「こびとさん?」
「いや、恋人」
「こいびと。誰の?」
「だから、君の恋人」
「誰が?」
「僕が」
「ええっ!?」
驚きを露にする彼女。
マジで脳内がお花畑だ。
くるくると目を回して混乱する麻子さんを見て、僕はかなり不安になる。僕が彼女から片時も離れないのは、時間の許す限り側に居たいという理由もあるけれど、その一方で彼女から目を離すのが堪らなく心配であるという理由もある。どうやら手がかかる子ほど可愛いというのは本当みたいだ。
「ちなみに僕と麻子さんはAからCを通り越してZまで進んだ仲。どこにホクロがあるかも全て把握していたり」
今度は嘘を吐いてみた。
「ぎょぴっ!?」
謎の奇声を浴びせ掛けられた。
耳まで顔を真っ赤にした彼女がそわそわと落ち着きなく視線を右に左と走らせて、時たまちらりと僕の顔を窺うように一瞥する。そして目が合うと慌てて視線を外して地面を眺めることに専念していた。
何だろう、このハイパー可愛い生き物は。
「こいびとさんの名前は?」
訊かれて、答える。
このやり取りを一週間の内に何回繰り返してきただろう。
いい加減に飽きてきたような、実はそうでもないような。この展開と問答には飽きていたけれど、あたふたと狼狽する麻子さんは何度見ていても飽きない。いつまでも眺めていたいとすら思える。
僕が名乗りを上げると、熟れたトマトのように赤くなっていた麻子さんの顔は徐々に落ち着きを取り戻していった。白黒とさせていた目もいつも通りとろんと気怠そうに垂れた。
「ん。思い出した」
ぽん、と手を打つ彼女。
ふにふにと僕の頬をつねりながら麻子さんは締まりなく口元をふにゃりと緩めた。
「この柔らかいほっぺたは、さては仁山正彦くんだなぁ」
どこで思い出してやがんだ。
文句を言ってやろうと口を開きかけて、けれども唇を塞がれてしまって声に出そうとした言葉を見失う。
少しだけ背伸びをした麻子さんが僕からそっと離れた。
「えっと……」
麻子さんとキスをするのが初めてというわけではないけれど、突然のことに戸惑ってしまう。いつの間にか心音は加速していた。頬が紅潮するのを自覚する。
「お詫び。正彦くんのこと、忘れてごめんねのチュー。今度からは頑張って忘れないようにするから。安心して」
最初に申し訳なさそうに力なく笑って、それからやっぱり例の幸せそうな笑みで破顔した。
安心してと言われても、どこにも安心できる要素は見当たらなかったけれども、黙って頷いておいた。
僕の彼女の記憶力は貧弱だ。
前はそうでもなかった。
何が原因でそうなったのかは分からない。ある日突然物忘れが激しくなっていた。人として色々と忘れてはいけないことを平気で忘れるし、てゆーか恋人である僕のことまで忘れることもあるけれど。
……まあ、それでもいいか、と思う。
僕は麻子さんのことを愛しているので問題ない。そりゃあ自分のことを忘れられるのはショックだったけれど、彼女のキス一つで僕の気分は上向きに軌道転換するほどベタ惚れなのだ。きっとこれからも上手くやっていけるだろう。
末長く続けばいいなぁ。
心の中でそう願った。
「はい、どーぞ」
買って来たお茶を手渡す。
「ありがとう」
へにゃへにゃと脱力系の笑みを浮かべながら麻子さんは受け取ったペットボトルのキャップを外した。
それから、すすっと僕に擦り寄って来て首を傾げる。
「ところで、あなたはだぁれ?」
ここで心が折れてしまっては麻子さんの彼氏は務まらない。
根気よく付き合っていこう。
……末長く、続けばいいな。
切にそう願った。
「僕は君の恋人だよ」
「こびと?」
「いや、恋人」
「こいびと。誰の?」
「だから、君の……」
むぅ、果てしなくエンドレスな予感。メビウスの輪を延々と走り続けている自分の姿が脳裏を掠めた。
今年の夏は去年よりも暑くなりそうだゼ。降り注ぐ夏の陽光を背に僕はそんな確信めいたものを感じた……と、収拾がつきそうにないのでここらで無難に纏めることにした。
だって、麻子さんとの会話にゴールが見えないんだもの、まる。