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「フィーリア・エフティヒアは成績優秀の才女、ね……」
フィーリアは記憶の中にある主人公の設定を思い出しながら、眼下にある教科書を見詰める。
フィーリアは勉強に苦手意識を持っている訳ではない。新しい知識を吸収するのが好きだったため、勉強する事を苦痛に感じたことはなかったし、逆に自ら勉強に身を打ち込む事も多々あった。
だが、フィーリアは目の前に並べられた教科書を開こうとはしなかった。
何故なら、とある妙案を思い付いたからである。
この世界の貴族子女は、王立学園への入学試験を受けられる権利が与えられている。
この権利は入学の確約では無く、入学試験を受けられる権利である事が重要になってくる。
入学試験を突破出来れば晴れて名門王立学園へと入学、反対に突破出来なければ落ちこぼれとして貴族の面々から馬鹿にされるのだ。
このゲームの本筋である舞台はフィーリアが学園へと入学する15歳から卒業までの18歳の間である。
フィーリアは成績優秀で素行も良い。本来であれば難なく入学を突破出来るだろう。
だが、フィーリアがこの学園へ入学する事によって、バドエンルートという名の断頭台へ一歩近付いてしまうことになる。
そこでフィーリアは、そもそもこの学園に入学しなければ乙女ゲームは開始しないのではないかと思い付いた。
が、次の瞬間両親の怒り心頭な様子が思い浮かんだ。
「……最終手段として取っておこう」
まだまだ先は長いし……。
ここで、この乙女ゲームの要点を整理しよう。
キーポイントとなる場面は、幼少期のフィーリアと攻略対象達が出会うことだ。幼いフィーリアに恋に落ちた彼らは、学園で再会した時に彼女へ想いを爆ぜる事になる。
それが結果的にバッドエンドへと繋がっていく。
なので、根本である彼らと幼少期に出会わなければ乙女ゲームのシナリオは始動しないのではないか、とフィーリアは考えた。
このゲームの攻略対象は計四人。
まず一人目は我が国の崇高なる王太子殿下。
この国で唯一の王族直系子女である。
彼とは2週間後に開催される王宮のパーティーで出会うはずだ。
そして二人目に宰相子息。
現宰相を務める侯爵家の嫡男として生まれた彼は、世襲制で次期宰相となることが決定している。
なので、未来の王になる王太子殿下の右腕とも言える存在だ。
彼はいつも王太子殿下に付きっきりなので、記憶が正しければ、彼とも2週間後のパーティーにてご対面するはずだ。
つぎに三人目となる神官。
彼とは、フィーリアが10歳の頃に父に付いて神殿へと赴いた時に出会う。
神官補佐であった彼は、フィーリアの内なる力――聖女のみが有する聖力に惹かれ、次第にフィーリア自身にも想いを寄せることとなる。
最後は四人目である騎士。
騎士の家系である伯爵家に生まれた彼は、騎士になる為に王宮近衛騎士団の副団長を務める彼の父のもとへ毎日王宮へと通っていた。
フィーリアが12歳になる頃に、王宮へ出向いたフィーリアと出会い、恋に落ちる。
そうして彼らはフィーリアと再会した学園にて猛アタックをし、様々なバドエン劇を繰り広げるのだ。
―――絶対に嫌だ。
バドエンは見てる分には良いけど、実体験などしてみたくもない。
何としてでも彼等とのフラグを折っておかなければ。
シナリオの強制力があるかどうかは知らないが、フラグ自体を折っておけば幾分マシにはなるだろう。
その為には、一先ず両親が待ち焦がれている2週間後のパーティーをどうにかして欠席しなければならない。
だがあの両親をどうやって説得すればいいのだろうか。
王宮に行きたくないと言った瞬間、蔑んだ目で見られる予感しかしない。
はあ、とため息をついたフィーリアはぼんやりとしながら何気なく目の前にある教科書をパラパラとめくった。
そして、そこに書いてある数式に目を見開く。
「こ、れはまさか複素数平面……こっちは極限!?こんな高度な数学が、この世界の初等教育には組み込まれているの……?」
そこでフィーリアは思い出す。
この世界には魔法というものが存在しており、その魔法を使う際、原理としては数字を多用して魔法を生み出しているという事を。
だからこの世界は、ここまで数学への理解が深いのか。
なるほど……と頷きながらひとり納得したフィーリアは、教科書を次のページへと読み進めた。
そうして気がつけば、真上に居たはずの太陽の代わりに、月が真上へと鎮座していた。
「お嬢様、お食事の支度ができまし……って、えぇ!?」
「!」
フィーリアはメイドであるロティの驚愕の声で、ようやく本から顔を上げた。
「お、お嬢様……まさかそちらの本、全てお読みになられたのですか……?」
恐る恐ると言った様子で、ロティはフィーリアの机を指差す。
その様子に頭を傾げながらフィーリアは自身の机上を見ると、そこには数学から社会学まで、多種多様の教科書や本が20冊ほど積み重なっていた。
最初は数冊しかなかったはずだが……
不意に、フィーリアは窓の外を見る。
読み始めた頃は明るかったはずの外が知らぬ間に暗くなっていたのだ。
いつの間に…と思いながら手元の読書中の経済学の本をパタン、と閉じた。
新しい知識を吸収するのが楽しすぎたあまり、夢中になりすぎたみたいだ。
扉の横で待機しているロティのもとへ向かい、扉を開くと、またしても白銀の髪が視界に入った。
「読書は終わったのか?」
壁にもたれ掛かりながら、優雅に佇むローゼルがいた。
「お兄様……!今日も迎えに来て下さったのですか?」
「勿論だ。フィーリアを迎えに行くことが俺の楽しみなんだからな」
「私もお兄様がこうして迎えに来てくれていること、とても嬉しいです!」
「そうか。ならよかった」
そう言って微笑むローゼルの腕には、数冊の本が抱えられていた。
「古典派経済学……もしかして、途中からお兄様が本を持ってきてくださっていたのですか?」
「ああ。フィーリアが真剣に本を読んでいたからな。俺の声すらも聞こえないくらいに。いや、謝る必要はない。懸命に本を読むフィーリアの横顔を見つめるのも存外悪くなかった。途中から俺も横で本を読んでいたのだが、読み終わった本をフィーリアに置いておいたらいつの間にかフィーリアがその本を読み始めていて驚いた。どうやら俺の妹は天才らしい」
ローゼルは子爵家嫡男として養子に望まれるくらい、優れた才を持った少年である。
確かゲームでは首席入学、首席卒業をしていた気がする。
なので、まだ9歳である彼の読む本は、そこらの9歳児が読むような本とは遥かに違う、高難易度のものであろう。
そんな高難易度の本をすらすら読める7歳のフィーリア。これが天才でないならばなんと言うのだろうか。
……実際は前世の知識があったおかげで難なく理解出来ただけの事なのだが。
だが、フィーリアは前世の事を誰かに打ち明けるつもりはない。
前世の記憶がある人間など、どう見ても異端者であるからだ。
異端者は斬首刑にされると、相場は決まっている。
と、思考が逸れた瞬間に本来の目的を思い出した。
「ねえ、お兄様。私、大好きなお兄様にお願いがあるのです……」
「っ!な、なんだ……?」
上目遣いで頼み込めば、ドの付くシスコンであるローゼルは端正な顔を赤く染め上げる。
「お兄様にしか頼めない、誰にも言えない頼みなのです!引き受けて、くれますか……?」
『お兄様だけ』
ゲーム内のローゼルは、この言葉に滅法弱かった。
なのでこの言葉でお願いすれば、彼はフィーリアの願いなど何がなんでも叶えようとするだろう。
そんなフィーリアの予想通りに、ローゼルは首を縦に降った。
それから5日が経った頃。
フィーリアは一人で家を抜け出した。
いつも、今の時間帯になるとフィーリアは自習を始める。その間、部屋には誰も入ってこない。
なので、誰の目にも止まらずに抜け出すには絶好の機会なのだ。
ちなみにすぐに帰ってくる予定なので、断じて家出などではない。
突然家出してしまえばあの兄がどうなるか……想像もしたくない。
フィーリアはあれから5日で魔法書を読み漁り、初級魔法の実践を完遂させた。
屋敷の敷地内から出る前に、会得した初級魔法を使って桃色の髪を茶色へと変え、紫の瞳も無難な茶色へと変える。そして肝心の服装もみすぼらしいものに変えた。
そんな格好をしてどこに行くのかというと、城下町に行ってみたかったのである。
このゲームの大部分は王都で紡がれる物語で、王立学園やフィーリアの住む子爵領も王都にある。
ゲーム内での城下町のデートシーンを見ている時、フィーリアは一人で行ってみたいな、とずっと思っていたのだ。
嬉々とした足取りでフィーリアはひとり、城下町へと向かった。
「よし、これくらいでいいかな!」
なんの問題も無く城下町へと辿り着いたフィーリアは、持参したお金を使って買い物を楽しんだ。
主に食べ物を中心に。
現在、彼女の両手には先程買ったばかりのパンと、特段好きな訳ではなかったが、目に止まったのでつい買ってしまったいちご飴があった。
そろそろ帰ろうかな、と人で賑わっている城下町をぶらついていると、人波から外れた路地で、一人の少年が蹲っているのが見えた。
誰の目にも止まらないまま、一人で自身の身体を抱きしめている少年。
髪は灰で薄汚れており、着ている服は布と言ってもおかしくないほどに、ボロボロになっていた。
ここで見て見ぬふりをしても、自分にはなんの罰も下らない。
フィーリアも他人と同じく見なかったことにすれば良かったのだが、彼女の足は何かを考えようとする前に、自然と少年の方へと向かっていた。
「これ、よかったらどうぞ」
右手に持っていたパンと、懐から取り出した新品のハンカチを少年に差し出す。
ハンカチは不器用なりに刺繍した家紋のグラジオラスが入っていたが、特に思い入れも無かった。
少年は突然差し出された刺繍入りのハンカチを見つめ、目を見開いたかと思えば、パッとフィーリアへと顔を上げた。
綺麗な深緑がフィーリアの瞳に映る。
「な、んで……」
「?なんでも何もないわ。私がしたかったからやっただけ。ただの自己満でしかないけれど……」
窄みながら最後を言い終えても、少年の瞳はカッと見開いたままフィーリアを一心に見つめていた。
その視線に居たたまれなくなったフィーリアは、拒む様子が無かったので呆然としている少年の手にパンとハンカチを置くと、元来た道に戻ろうと背を向けた。
「ま、待って!」
少年の細長い指がフィーリアの腕を掴む。
フィーリアは驚いて後ろを振り向いた。
「あ、ありがとう……」
頬に赤みを散らしながら礼を言う少年に、フィーリアの口角が自然と上がる。
「どういたしまして」
そうしてフィーリアはこの場を去った。
フィーリアの去っていく背中を見つめながら、右手に残されたハンカチを愛おし気に、そして大切に握りしめた少年はぽつりと呟く。
「今度こそは、必ず―――」




