ずっと準備をしてきた
「はじめまして。ブランシャール伯爵家の次女、ジョゼと申します」
「……!」
あれは僕がまだ八歳の時だ。
僕の婚約者として顔合わせの場に現れたジョゼという少女は、とても同い年の子どもとは思えないほど、洗練されたカーテシーを披露した。
ガラスのように透き通った瞳と、シミ一つない陶器のような肌は、高級なビスクドールを彷彿とさせたが、そんな中左腕に着けられた古びたブレスレットだけは、異様に浮いて見えた。
「あ、えっと……、エリク、です」
「……」
ジョゼのそのあまりに大人びたオーラに頭が真っ白になってしまい、僕の挨拶は実にたどたどしいものになってしまった。
そんな僕に向けた、ジョゼの憐れむようなガラスの瞳は、今でもたまに夢に見る――。
「エリク、あなたまたネクタイ曲がってるわよ。あと、寝癖もついてる」
「あ、ごめん、ジョゼ」
そして時は流れ、僕とジョゼは貴族学園高等部の三年生になった。
寮暮らしの僕らは、いつも寮の出入口で待ち合わせしてから一緒に登校しているのだが、開口一番ジョゼから身だしなみを注意されてしまった。
ジョゼの左腕には、今日も祖母の形見だという、古びたブレスレットが鈍く光っている。
「いや、実は昨日夜更かししたら寝坊しちゃって、急いでてさ」
「それは理由にならないわ。だったら早めに寝て、寝坊しないように備えればいいだけの話じゃない」
「あ……そ、それは、そうだけど……」
こうやって正論を言われてしまっては、僕は何も言えなくなってしまう。
「やあ二人とも。今日もいい朝だね」
「おはようございます、サミュエル様」
「……!」
その時だった。
我が学園の生徒会長であり、筆頭公爵家の嫡男でもあるサミュエル様が、僕たちに話し掛けてきた。
すらりと高い背に、女性かと見紛うほどのお美しいお顔。
そして何より、選ばれた側の人間だけが持つ、神々しいオーラのようなものが今日も全身から溢れ出ており、思わずたじろぐ。
あわわわわ。
「お、おはようござい、ましゅッ」
ヤ、ヤバいッ!
サミュエル様のオーラに圧倒されて、噛んでしまった……!
「ハハハ、エリクは今日も面白いね」
「あ、はは、ど、どうも」
「サミュエル様、エリクをあまり甘やかさないでください」
「まあまあ、そういうジョゼも、今日も可愛いね」
「お世辞は結構です」
「お世辞じゃないんだけどなぁ」
嗚呼、ジョゼもサミュエル様も、僕と同い年なのになんでこんなに余裕があるんだろう……。
この二人といると、まるでこの世で僕だけが子どものままみたいで、惨めな気持ちになる……。
「まあ、何にせよ今日から我が校にも新一年生が入って来るんだ。僕らも最上級生として、後輩たちを優しく導いてあげないとね」
「ええ、それは同感ですわ」
新一年生、か……。
どうせ僕が関わることはないだろうけど。
「あれぇ? あれ、あれぇ??」
その時だった。
一人の小柄な少女が、キョロキョロしながら僕らの前を横切った。
「ん? あの子、見掛けない子だな。新一年生かな? オォイ君、どうかしたのかい?」
サミュエル様が少女に声を掛ける。
「へ? あッ! ここここれはこれは! 生徒会長の、サミュエル様ですよね!?」
「あ、ああ、そうだけど」
「あ! ご挨拶が遅れました! 私は本日からこの学園に入学しました、クロエ・ギルメットと申します!」
クロエと名乗った新一年生は、たどたどしいカーテシーを披露した。
よく見れば、頭の後ろが寝癖で少しだけ跳ねている。
僕はクロエに、何となく親近感を覚えた。
「ギルメット家というと……、最近男爵位を買い取った、新進気鋭の商家ね」
ジョゼがおもむろに解説する。
ジョゼはどこから仕入れてくるのか、我が国の貴族の情報は全て頭に入っているのだ。
「はい、その通りです! お恥ずかしながら、私は極度の方向音痴でして……。入学式の会場に向かおうとしていたんですが、迷ってしまったのです」
「なるほどね、そういうことなら、僕らもちょうど向かうところだったから、一緒に行こう」
「いいんですか! ありがとうございます!」
クロエがガバリと頭を下げると、寝癖がフワッと揺れた。
まるで元気な仔犬みたいで、何とも愛らしい。
「僕のことは知ってるみたいだけど、改めて挨拶しておくよ。生徒会長を務めている、サミュエル・コクトーだ」
「ジョゼ・ブランシャールよ」
「あ……エリク・バラチエ」
「はい、よろしくお願いします! 入学早々こんな頼りになる先輩方に出会えて、私はホントラッキーです!」
た、頼りに、なる……!
そんなこと、生まれて初めて言われた……。
そうか、僕も先輩になったんだ――。
「こ、困ったことがあったら何でも言ってね! できる限り、力になるから!」
「わぁ、ありがとうございます、エリク様!」
「ハハ、調子いいなあ」
「……」
ジョゼがいつものように、憐れむようなガラスの瞳を僕に向けてくる。
だが、クロエの手前、今だけはその瞳は見ないフリをした。
「エリク様ぁ!」
「……!」
その日の放課後。
僕が一人で寮に向かっていると、クロエが後ろから声を掛けてきた。
「今朝は本当にありがとうございました! お陰様で、入学式に遅刻せずに済みました!」
「い、いや、僕は、当然のことをしたまでだよ」
「ふふ、謙虚なんですね。そんなところも、大人っぽくて素敵です」
「――!」
クロエは僕の左の二の腕辺りを、右手でそっと触れてきた。
ふおっ!?
今まで女性に触られた経験などほとんどない僕は、一瞬で全身が熱くなった。
「今朝のお礼もしたいので、よかったら今から、二人でお話ししませんか? エリク様のお部屋で」
「……!?」
ぼ、僕の……部屋で!?
「そ、それは流石にマズいんじゃないかな……? 一応僕には、ジョゼという婚約者がいるんだし……」
「まあ! 私はエリク様と少しお喋りがしたいだけですよ? ふふ、それともエリク様は、その先のことまでお考えだったのですか?」
「なっ!?」
クロエはプルンとした唇に人差し指を当てながら、艶めかしい上目遣いを向けてきた。
くっ……!
「そ、そんなことはないよ……! じゃあ、僕の部屋に行こうか」
「はい!」
――この後、二人きりの部屋で楽しくお喋りしているうちに、だんだんと心の距離が近くなっていった僕らは、そのままベッドの上で男女の関係になってしまったのであった。
生まれて初めて抱いた女性の身体は、同じ人間とは思えないくらい神秘的で、僕の頭の中はクロエのことだけでいっぱいになった――。
「エリク様、私、エリク様と結婚したいです」
「――!」
あの日以来、僕とクロエは毎日放課後に僕の部屋で愛を確かめ合った。
今日も早速一戦終え、お互い裸のまま天井をぼんやり眺めていると、不意にクロエがそんなことを言い出した。
クロエ……!
「ぼ、僕もだよ! 僕もクロエと結婚したい!」
「本当ですか! 嬉しいです!」
クロエが人懐っこい仔犬みたいに、僕に抱きついてくる。
ふふ、クロエは可愛いなぁ。
「じゃあ、ジョゼ様との婚約は、破棄するんですね?」
「…………あ」
そ、そうか……。
クロエと結婚するなら、当然そうなる、か……。
「あー、でもなぁ……、それだと少し問題が……」
「え? なんでですか?」
「……実は、僕の実家は没落寸前の名ばかり伯爵家でさ。ジョゼの実家からの援助で、やっと家計が維持できているのが実状なんだ……」
「えっ、そうなんですか……」
クロエは露骨に落胆したような表情になった。
あっ……!
「で、でも、慎ましい暮らしをすれば、何とか生活自体はできないこともないから! ぼ、僕は、クロエさえいれば、幸せだから……!」
「……いえ、真の幸せというのは、溢れるほどのお金があってこそ、実感できるものなのですよ、エリク様」
「――!」
クロエの瞳が、獲物を見据える猛禽類みたいに、鋭く光った気がした。
ク、クロエ……?
「そういうことでしたら、隷属魔法を使うというのはいかがでしょうか?」
「れ、隷属魔法……!?」
「ええ、隷属魔法でジョゼ様を操り人形にしてしまえば、ジョゼ様にワザと不貞を働かせることも可能です。その事実が明るみに出れば、ジョゼ様の実家から多額の慰謝料を請求できます。そうすれば、一生遊んで暮らせますよ」
「で、でも、隷属魔法の使用は、違法だよ?」
「ふふ、バレなければいいんですよ。薬物と違って、魔法は使った痕跡が残りません。現行犯でもない限り、エリク様が逮捕されることは絶対にありません」
「……」
確かに、クロエの言うことも一理ある。
――だが。
「やっぱり無理だよ。隷属魔法を使うには、僕じゃ魔力が絶望的に足りない」
隷属魔法の発動には、それこそ桁外れの魔力を要する。
僕みたいな凡人の魔力じゃ、とてもじゃないが発動は夢のまた夢だろう。
「ふふ、任せてください。私にいい考えがあります」
「?」
クロエは全裸のままおもむろに立ち上がると、傍らに置いてあったバッグの中から、無骨なデザインの指輪を取り出した。
「それは?」
「この指輪は、ニャッポリート合金で作られたものです」
「――!」
ニャ、ニャッポリート合金だって!?
「ご存知の通り、ニャッポリート合金は魔力を蓄積させられる唯一の金属です。私の実家は元々商家でしたから、稀にこういう希少な品も流れてくるんです」
クロエはニャッポリート合金製の指輪に、チュッとキスを落とした。
「今日から一年間、エリク様は毎日この指輪に魔力を込め続けてください。そうすれば一年後には、隷属魔法を発動させるだけの魔力が溜まるはずですよ」
「……ク、クロエ!」
僕はクロエから渡された指輪を、ぼんやりと見下ろす。
確かに一年分も溜めれば、僕でも隷属魔法を使えるかもしれない……!
「二人の幸せのために、一緒に頑張りましょう、エリク様」
クロエは僕の両肩に手を置きながら、聖母のように微笑む。
クロエ――!
「ああ! 僕、頑張るよ、クロエ!」
「ふふ、その意気です」
――こうしてこの日から僕は一日も休まず、コッソリ指輪に魔力を込め続けたのであった。
――そして迎えた、貴族学園の卒業式当日。
「エリク、何なの大事な話って?」
卒業式を終えた僕らは、後夜祭の最中に、ジョゼを僕の部屋に呼び出した。
何も知らないジョゼは、怪訝な表情をしながらも、一人で部屋に入って来た。
あまりの緊張で手足が震える。
だが、この日のために、ずっと準備をしてきたんだ。
ここまできたら、やるしかない――!
「ジョゼ、君には悪いんだけど、僕は君とは結婚できない」
「え……それって」
「――僕は、クロエと結婚するんだ!」
「ふふ、そういうことです、ジョゼ様」
「――!」
物陰に隠れていたクロエが、勝ち誇った笑みを浮かべながら僕の隣に立った。
「だから君には、僕の操り人形になってもらう!」
僕は懐に隠し持っていた指輪を右手の人差し指に素早く嵌め、右の手のひらをジョゼに突き出した。
「あなたの瞳がわたしを射抜き
あなたの声がわたしを酔わせ
あなたの指がわたしを狂わし
わたしの総てはあなたになる
――隷属魔法【糸の無い操り人形】」
「あああッ!」
指輪が粉々に砕けると同時に、僕の魔力がジョゼの全身を覆った。
よし、成功だ!
「エリク様、やりましたね!」
「ああ! これで僕たちの未来はバラ色だ!」
僕とクロエは、熱く抱き合った。
「……ふぅ」
「「――!!」」
その時だった。
ジョゼの左腕の古びたブレスレットが粉々に砕けると同時に、僕の放った魔力が一瞬で雲散霧消してしまった。
そ、そんな――!!?
「う、噓よ……!? 隷属魔法を解除するには、掛けられた魔力の、十倍の魔力が必要なのよッ!」
「そ、その通りだ! ジョゼの魔力は僕と同程度のはず! だから一年分も溜めた僕の、十倍の魔力なんて、ジョゼが出せるはずがないッ!」
「ええ、だから、私は十年前から魔力を溜めていたのよ。祖母の形見だった、ニャッポリート合金製のブレスレットにね」
「「――!!!」」
十年、前、から……?
それって、僕たちが初めて会った時からってことじゃないか――!
「君は……そんな前から、僕に隷属魔法を掛けられると思っていたのか?」
「まさか。流石にそこまでは考えていなかったわ。――でも、いざという時のために、準備はしておくに越したことはない。だからしていた。それだけの話よ」
「そ、それだけ、って……」
やっぱりこの女は化け物だ……。
とても同じ人間とは思えない……!
「……エリク様、斯くなる上は」
「――!」
クロエが僕の右手に、小振りなナイフを握らせてきた。
あ、あぁ……。
「このままでは私たちは犯罪者です。これでジョゼ様を殺して、山中に埋めましょう。そうすれば、私たちは捕まらずに済みます」
「う……うううぅぅぅ……!!」
それしかないのか……!
本当に、それしかないのか……!!
「……エリク」
「――!!」
ジョゼがいつもの、憐れむようなガラスの瞳を僕に向けた。
――この瞬間、僕の中で何かが弾けた。
「う、うおおおおおおおおおおおおおお」
僕はナイフを構え、ジョゼに突撃した――。
「――【神の矢】」
「「――!!!」」
その時だった。
何者かが窓の外から放った上級光線魔法である【神の矢】が、窓と僕の右の手のひらを貫通した。
「う、うがあああああああああああ!!!! ぼ、僕の手があああああああああああ!!!!」
堪らずその場に蹲る。
誰だッ!!?
誰がこんなことをッ!!?
「……エリク、最低だよ、君」
「――!! ……サミュエル様」
割れた窓からヒラリと室内に入って来たのは、他でもないサミュエル様だった。
な、なんで……サミュエル様がここに……!
「私が声を掛けておいたのよ」
「……なっ」
ジョ、ジョゼが……!?
「窓の外から様子を窺っていて、もしも私が命の危機に晒された時は、助けてくれるように頼んでおいたの」
「そ、そんな……! じゃあ君は、僕たちの企みに気付いていたってことなのか!?」
「むしろ気付いていないと思われてたことが心外だわ。あなたたちはコッソリ浮気していたつもりかもしれないけど、私は一年前からあなたたちの関係に気付いていたし、何やら怪しい計画を練っている気配も感じていたわ。そのあなたがこのタイミングで部屋に呼び出してきたんだもの、何かあると思うのが普通でしょ?」
「あ……あぁ……」
そ、そんなに前から……。
つまり最初から、僕らの計画は詰んでた、ってわけか……。
「ち、違うんです! 私はエリク様に脅されて協力させられてただけなんです!」
……なっ!?
クロエ――!!
「無駄だよクロエ、僕も君がエリクにナイフを握らせたのを見てる。そもそもエリクに、こんな大それた計画が立てられるわけないだろう? 大人しく、法の裁きを受けるんだね」
「……ク、クソがあああああああああ!!!」
クロエの絶叫が空気を揺らす。
「……さようなら、エリク」
そしてジョゼは、ビスクドールみたいなガラスの瞳で、僕をじっと見下ろしていた――。
拙作、『悪役令嬢への密着ドキュメンタリー番組 ~悲しみを越えて~』がマッグガーデン様より2024年10月15日(火)に発売された『悪役令嬢にハッピーエンドの祝福を!アンソロジーコミック 4』に収録されています。
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