難しい小説が好きだったが、普通に英語で小説を読むだけで安定している上に10倍楽しめる件について
子供の頃から、気づきがあったのだろう。
難しい小説を読むのが、それを繰り返せば繰り返すほど、なにかと良くて、言うなら地頭を、脳の基本性能を上げる。
それもある程度は楽しみながら、長く飽きずに続けられる行為だと。
読書遍歴を軽くあげると(知名度のある有名作者しか、この場合は上げられないのであるが)。
たとえば、西尾維新は有名かもしれない。
十二分に知的に成長した、今思い出しても、あの物語は一体何だったのか?
ただ難しいだけじゃなく、なにかバックグラウンドに壮大な”なにか”あると思わせるような。
まあ読んで後悔しなかった感じの、人生の血肉には多少はなったかな?と思えるような物語、この例えにおいては好例である。
他にも覚えている人は少ないかもしれないが、一時期人気だった乙一という作家の物語も数点だが記憶に残っているな。
まあ、どれもこれも俺がサ〇ゲームスに出会って、たった6年前くらいの話だ。
プ〇コネとかいう、彩りに溢れた世界などを知り、その後にVtuberや配信者とかを知っていくと。
まあ”コレら”は永遠に読まないくらいには、俺的には前文明の遺産くらいに優先度は下がったなと。
それでも、これらが前提として、前段階の条件として、今を生きるのに必要だった知識なのは確実で。
なにが言いたいかというと、小難しい話で知的に成長して、物心のようなモノを付けるのは”有り”ということだ。
さて、最初の話に戻るが。
まあ色々あって、いま(2024年5月14日くらいだ)、現在において。
最も”小難しくて、知的成長に繋がり、なおかつ、楽しい”、小説に限らず、情報媒体は、なにか?という話をしたい、繋げたいわけだ。
俺は断言するが、外国語、とりわけ英語が、ソレに当たると思われる。
小説に限らず、英語で物事を見たり聞いたりするのは、小難しい小説を読むよりも、ずっと難しく、想像的でクリエイティブに溢れた行為だと、今は確信している。
惜しむらくの話なのだが。
英語をもっと子供の頃から、もっとシッカリと強く覚えておきたい、というのがある、最近の話だ。
言っちゃえば、無駄な、漢文とか、無くせと思う、人生において全く塵ほどの役にも立たない。
一般常識として歴史や理科とか、そういう現代でも”教養”に普遍的に広く汎用的になる知識を学校で教えるのはいい、これも百歩譲っていいだろうと思う、言う。
しかし、数学とか、そういうのは無くした方がいいだろ。
そういう無駄ばかり、時間を無駄に浪費しているから、魅力のない人間だらけの、腐った世の中になる。
少子化も根本原因はそれで、魅力がなく、自分くらいしか楽しませられない、一日中ネットばかりしているような人間だらけだからだ。
確かにネットは楽しい、人生のQOLを、質を一番効率的に上げるだろう。
しかし質ばかり重視すると、対人関係スキルなどは身につかないし、人と関わっても別に楽しくない、という風になる。
これを克服するには、一人一人の人間の質を高めるしかない。
そして質を高めるという観点から言って、社会的にも役に立たない、人間の可能性を広げるような知識にもならない、漢文や数学とか、特にいえば高等数学などは無用だろう。
将来的に人間がAIを駆使して、その過程で純粋数学が素養として必須に、必要になるとかでも無い限り、学校で貴重な時間をかけて教えるに値しないと、そう思うのだ。
さて、これも無駄に学術論を語った。
先の話に紐づけて関連して言えば、時間を無駄に浪費する悪事で悪行三昧のように見える、多少は反省した方がいいのかもしれないな。
だから、少しは良い話をしたいと思う。
俺が英語に目覚めた、切っ掛けの話だ。
結論から言えば、ゆ〇ソフトの、日本語と英語を相互に見ながら、物語を楽しめる媒体に出会って、完璧に変わった。
英語だけを読んで楽しむには、まだまだ俺の英語力が乏しく。
英語だけを読んでも、意味が完璧には分からず、純粋に言えば、至極で詰まらないのだが。
英語の後、先でも良いが、同時に日本語を並行して読めれば、英語を楽しみながら、意味も大体は分かり、効率的に物語を楽しみながら、英語も学べる、触れられる、一石二鳥なのだ。
後に気づいたのだが、この日本語と英語を相互に見ながら読める媒体というのは、ゆ〇ソフトだけでなく、割とあるらしい。
もちろん、起源はゆ〇ソフト、広くこの手法を広めたのは、あるかもしれない。
海外の売り上げも頭一つ飛びぬけて凄いらしいので、個人的にそう思っている。
そして、話は逸れるが、思えば。
俺が英語に出会う前、英語に可能性を感じた、切っ掛けになる、前提条件・段階の話だ。
俺はプログラミング関連に凝っていた。
英語を知れば、明らかに捗りそうだとも思った。
そうじゃなくても、英語も交わった、この知識体系の、情報強度の高さ、娯楽性の高さは、一線超えている、特筆に値するとも思ったのだろう。
だから、英語を真に深くしろうと、一念発起した、屈指の影響力、動機づけ、強制力になったのは、これがあったからだろうとも思う。
ので、だから。
普通の人が、普通に、当たり前に生きていたら。
つまり、俺のように、英語に無限の可能性、それこそ宇宙の神秘すら内包するくらいの、奇跡的な可能性を感じる機会は、果たして、そうそう無いのでは? とか、なんか、なんというか思ったりもする。
とりま、とりあえず、英語は最高で、最高の媒体で、日本語とソレを絡めるのは、もっと最高っぽくて。
小説やノベルゲーで、天才は数か国語を操るのは、操れるのは当たり前、とかも、実感を持って、そうだろうと思える、思えた。
なぜなら、言語をたくさん操るのは、純粋に、真に高次元で、ハイレベルで楽しいのだから。
頭の真にいい奴が、嘘でなく誇張でなく、真に楽しい事をしているのは当然だからだろうと。
下らない、詰まらない、毒にも薬にもならない、人間的に一線超えて目覚めてないような。
そういう歯牙にも掛ける必要がないような、俺の視点から見れば、下らん人生を送ってるような奴だ。
そういう奴は、英語もやってないだろう、必要でもないのだろう、そうと思う。
普通に生きてて、イージ―モードで、周りに優しく楽しい仲間がいて、とか、そういうの。
恵まれた環境にいて、英語が必要になるわけがないからだ、常識的に考えて。
そんな奴らは、下らん労働を楽しみながら、低賃金で生きてるだけで満たされて、満足して死ねるのだろうと思うから。
だが俺は違う、そういう奴らを断固として否定する。
お前らは恵まれているのだから、さっさと覚醒して、発展途上国の数十億人が人間らしく暮らせるように、死力を尽くして尽力せよとか、そういう事を当たり前に考えるし、思う。
その為なら、下らない文化も全て破壊する心づもりだし。
一瞬でも早く、効率化して、しきって、全ての価値と、それに内包される意味を破壊し尽くして、真に効率化していくべきだと思うし。
その果てでしか、救われない人間達、発展途上国というジリ貧で暮らす人たちを救い尽くせないと、真に確信に満ち溢れているからだ。
それは決して現代社会では、日本では、認められない事だろう。
言っちゃえば、既得権益の完全破壊であり、幸福に生きる人間達を否定して、あるいは不幸にする行為だからだ。
上記で言ったような、人生イージモードで、先進国の豊かさの象徴のような”幸福な人間達”。
それをハードモードにして、適者生存から言えば、確実に死地に落すような行為だ。
普通に考えて、発展途上国が発達したら、こんな温ま湯に浸かってるような、浸かってきた人間達など淘汰される。
日本企業が、軒並みグローバルな波に乗れず衰退したように、TOYOTAすら風前の灯火に見えるから、それ以下など論外になっているような現状からみて、それは真だとか思っている。
まあ、段々と何が言いたいのか分からなくなってきたので纏めるが。
英語をやらない奴は馬鹿で、、、あるとか、そういうことだ。
別にクソとか言わない、救いようがないとかも言わない、英語が必要でない人生も、そりゃあるだろう。
だが俺は、英語すらやらない奴は、気が合わないと思うし、信用もしない、ただそれだけだ、ただそれだけの事実が厳然として、あるだけだ、ホント、本当にただそれだけ、、、なのだが、、ね?
普通に、真っ当に生きてれば、英語は必ず必要になる力だし。
一線超えて知的能力を飛躍的に高める、起爆剤のようなものだし。
それすら必要でなかったような、言うなら下らない人生を無駄に送ってきたんだな―とか、そう思うのだ。
いやマジで、英語が必要でない人生も確かにある。
だが基本的に英語は、高いレベルで生きてれば当然のように触れるし、深く学んでいて当然だと、今は思うので。
まあ英語を知らない、扱えないような奴は、人間的に素養無し、論外とか。
ホント勿論ん、英語を必要としない仕事や人生を生きているなら、そうでもないが。
特に、言うなら、日本で生きているなら英語は必要がない、そういう人生もあるという事だ。
だがそれは昔の話だ、今は絶対に違う、型落ちの、古い人間達なら、そう言っても理解はする。
だが今を生きているなら、英語を身に付ければ、幅広くメリットがある。
生配信も動画も、電子媒体なら翻訳も容易なので、電子書籍などが一般化した今なら英語は覚えるメリットが多すぎる。
プログラミング関連も、ChatGPTですら、英語でやった方が3倍くらい性能が良いという話だ。
どう考えても、英語を学ばない理由がないわけで。
この現環境・状況下で英語というスキルカードを引いてないのは、人生というゲームのプレイニングスキルを深く疑う、疑わしい、疑うような行為なのだと、俺はそう思っているのだろう。
さて、まだ語り足りない事があったので、まあぶっちゃけ蛇足になるだろう、かもしれんが、する。
わー、とか引かんといてね(笑)。
欧州、まあEUなのだが、あそこ辺りだと、多言語を扱うのは”当たり前”なのだろう。
このエッセイで、しつこく語ったが、英語は最高なのだ、つまりシッカリ言い換えると。
”多言語を操るのは、一線超えて娯楽性が高い”。
結論つまり何が言いたいかというと。
多言語を操るような文化があると、それだけで娯楽については深く満足できる、ということだ。
俺の推理で推測だが、日本が無駄にオタク文化とかが異常に、ホント異常だ、異常なレベル。
最近はよく海外と比較して思うのだが、日本のHENTAIとか、海外で言われる文化の異常性は強く実感する。
例えば海外だと妹を恋愛対象として見るのは一般的じゃないし。
アニマルビデオ界隈で言えば、あれほどシチュエーションに凝ってるのも日本だけだと思われる。
時間停止モノとか、まあ犬は時間停止できないらしいが、本物は市場の10%とか、まあそういうのもないわけで、露骨に意図的に話を逸れた逸らしたが、まあいいだろう。
こういう語りたいだけの、話したいだけ、楽しいだけの、蛇足と最初にいった、貴方は潔く諦めるべきだと、そう思う。
で、言うなら多言語文化があると、それのせいでオタク文化は発達しない、抑制効果があるだろうと思う、見る。
多言語文化があると、それを使って人と関り、コミュニケーションをとる楽しさの方が優越する傾向はあると思うし。
某大陸の方も、英語を禁止して、中国語だけを強制するような話も、大きく聞いた事がある。
あれも多言語文化をしない流れで、あの国が日本を優越するようなオタク文化を持ち始めたのも、こう見れば納得できる流れと見る事もできると、そう思ったりもした、する。
一つの結論として、多言語文化の方が、少子化とかの問題においては歓迎要素であったりすると思う。
でもオタク文化の将来性は底知れないので、別にそうとだけは言えないかもしれない?
いやそれ以上に、純粋に人と関わるのが楽しくなる、言語に紐づいた娯楽文化が強い方が良いような、気もする、さて。
そこら辺は、まだまだ答えが出ない問題だなと思い、語る事もなくなってきたので、ここらで、この辺りで終わりとする。