呼び名
夜、とあるバー。テーブル席にて、二人の男が話をしていた。
「いやー、にしても俺らもこんないいバーで飲むようになったんだなぁ……」
「ん、ああ……」
「中学生の頃は思いもしなかったよな。はははっ、この付き合いが長く続くともな」
「ああ……」
「まあ、お互い独身ってのもあるな。こうして気軽に会えるのもさ。しっかし結婚はまだ考えられないよなぁ」
「ああ……」
「なんて、『あの時はああ言ってたけど……』とかいうことになるかもな! ははは! しっかし、彼女くらいは欲しいよなぁ……。社会人になると案外出会いがないよな。なあ、お前も今いないんだよな? まさかいるとかないよな? な?」
「……ああ」
「おお……。なあ」
「ん……?」
「いや、なんだよ、どうしたんだ? さっきから元気ないな」
「ああ……なあ、田口。今日はちょっと話があんだけどさ」
「な、なんだよ、改まって……おいおいやっぱり彼女が、いやまさか、ついに結婚か? スピーチの挨拶やってくれとかか? おいおいマジかよ! うわー!」
「いや、そうじゃなくて……」
「え、じゃあなんだよ……。金か? まあ、額にもよるけど……」
「いや……」
「そうか……。まあ、言ってみろよ。俺もちゃんと聞くからさ」
「ああ……その」
「おお。言ってみ」
「呼び方、変えてもいいかな?」
「……うん? 呼び方?」
「そう、『田口』じゃなくて」
「ああ、名字じゃなくてって話ね。いいけども、え、そういうのって許可求めるものなの? いやまあ、気恥ずかしいか。でも急になんで?」
「んー、まあ……」
「ははっ、なんだよぉ、今さら親友感出していきたいのか? 気持ちわりーなっ。はははっ、いーけどさ、ふふん」
「……いやー、実はさ。最近、職場で新しく後輩ができてさ。それが田口っていうんだけど」
「おう?」
「紛らわしいじゃん?」
「あー、名前被りか。まあ、そういうのあるな。自分の中でごっちゃになるというか、呼ぶときに違和感あったり」
「だろ? そうなんだよなぁ。いやーありがとな!」
「ああ……いや、後輩のほうの呼び方変えればよくないか? なんか、俺がそいつに負けたみたいじゃん」
「いやー、負けたとかそんなんじゃないよ。はははっ」
「んー、まあいいか。なんか照れくさいけど、そうだな。いつまでも名字っていうのもな……親友だしな、うん。いいぞ、浩紀って呼んでも」
「いやー、名前のほうじゃなくて」
「え?」
「実は浩紀ももう他にいるんだ。大学時代の友達で」
「あ、そう……じゃあなんて呼ぶんだ? まさかグッチーとか? あだ名はちょっと恥ずかしいなぁ。言ってもさぁ、おれらもうおっさんだし」
「ああ、だからチャン・ホンハイビンって呼ぶわ」
「チャン・ホンハイビン!? なんで!?」
「他に思いつかなくてな。よろしくな、チャン。お前もこれから、俺と一緒にいる間は田口浩紀でなく、そのつもりで生きてくれ」
「むり、むりむりむりむり……。名前と一ミリも被ってないから反応できないって。ヒロでもグッチでもいいから、そっちで呼んでくれよ」
「それこそ無理だ」
「なんで」
「もういるから」
「ヒロもグッチも!?」
「ああ、近所の人と飲み屋仲間に」
「仲良いなお前。いや、なんなんだよ。俺って言わば古株だぞ? 俺を優先しろよ」
「古株ゆえに傲慢になっていたな。田口という席で満足し、長年胡坐をかいていたせいで、気づけばお前はヒロにもグッチにも行けなくなってしまったんだ」
「なんだよそれ……その席も後輩に奪われるんだろ? 呼び名難民かよ、いや呼び名難民ってなんだよ」
「俺だって、ビンビンには済まないと思っている」
「そっちの名であだ名つけんじゃねーよ」
「いーじゃん、ビンちゃん!」
「チャンが前に付いてるから、ちょっと紛らわしいんだよ」
「いや、ちょっともう時間ないからそれで頼むわ、ホンチャン!」
「なんの本番だよ。始まらねーよ」
「チャンチャン!」
「この話、お終いみたいに言うんじゃねーよ。俺、納得してないぞ。大体、本当にヒロとグッチの枠が埋まってるのかよ。いや、枠ってなんだよ」
「いや、とにかくお願いだからそこをなんとか、だってお前、すげー似て、あ! もう来た!」
「は? 来たって誰、え、美人、でも誰……」
「こんばんはぁ、あなたがチャンさん? うわぁ、本物だぁ!」
「アジアの実業家なんですってね! すごーい! あのぉ、会えるって聞いてSNSをフォローしたんですよぉ。あとで確認してみてくださいねっ」
「そーなんだよぉ! 嘘じゃなかったろ? こいつとは親友でさぁ! な! な! 大親友! な! 今夜は四人で楽しもうな!」
「……ドーモ、チャン・ホンハイビンでス。チャンチャンって呼んでくださイ! ハイ、ご一緒ニ! チャンチャン!」