元敵国に嫁ぐことになった私を、過保護な弟(実は義理)が追いかけてきたのです
「姉さん、姉さん! 待ってよ、姉さん!!」
廊下を歩いている私を呼ぶ声に振り向くと、血相を変えて走り込んできた弟のエドガーが私の前で立ち止まり、両手を膝に乗せて、ぜえぜえと床に向かって息を切らした。
「あらあら、こんなに急いでどうしたのかしら。エドガーったら、髪もタイも振り乱して、あわてんぼうなのは昔のままね」
顔を上げたエドガーは、笑っている私を睨む。碧眼が恨めしそうに歪んだ。
「姉さん。笑っている時じゃないだろう」
「あら、どうして? 今日は、お天気も良好。花もきれいに咲き乱れる初夏よ。気持ちが明るくなって、笑みがこぼれるのは当たり前でしょう」
「どうして、そんな風に、こんな時に笑っていられるんだよ。どうしてだよ、姉さん」
「どうしてって、ねえ。お天気がいいからよねえ」
「姉さん。誤魔化すのも、はぐらかすのも、やめてくれよ」
「あら、あら」
呼吸を整えて立ち上がった弟が、私の前に立つ。私は手を伸ばし、乱れた金髪を手櫛でなおしてあげて、よれたタイも整えてあげる。
ほんの数年前まで私より小さかった弟が、今では見上げる程高くなり、眩しいくらいかっこよく育った。
「姉さん。行くの……」
「行くわよ」
エドガーが苦し気に秀眉を歪めて、視線を逸らした。
「なんで、姉さんが行かなくちゃいけないんだよ。姉さんは、長子で、公爵家の継嗣じゃないか」
「んーっと、そこは私じゃなくてもあなたがいるわ」
「俺は、ずっと姉さんを助けるつもりでいたんだ」
「そう、なら、より一層安心ね。私が後を継いでも、本当の家の主はあなたになるなら、本当にあなたが継いじゃった方がきっといいわ」
私が両手を叩いて笑むと、エドガーが渋い顔をする。
「王家に姫が生まれなかったの。二代ごとに、元敵国に娘を嫁がせてきた慣例を破るわけにはいかないわ。それこそ、戦火の種が再燃しては大変でしょ」
「こんな嫁とりの慣例を守らないぐらいで」
「エドガー、言葉を謹んで。これは私情で、どうこういうことではないのよ。私たちと、かの国との間で長い無益な争いを鎮めてきた慣例を、私たちの代で破り、最悪の結果を招くことになるとしたら、それこそ、後世に顔向けできないわ」
ぴしゃりと諫めると、もうエドガーはなにも言えない。そもそも私が納得しているんですもの。弟に反対されても、決定は覆らせない。
「私、オースティン公爵家長女シアーラは、元敵国に、慣例に従い嫁ぐことを決めたのです。私の決断は、可愛い弟の頼みでもきいてあげれないのよ」
私が生まれたガネル国と私が嫁ぐマクネア国は、長い間、敵対する国同士だった。
大河を挟んで、上流では水源を争い、川では運輸で争い、資源をめぐり海で争い、そこここで衝突した。ある時、大きな水災害に見舞われた。自然の天誅が、人間の小競り合いに一石を投じたのね。
元々、民は争うことを望んではいない。争いを絶やさない王家や貴族を疎ましく思っていた。自然災害により民の本心を知ることになった両王家は悟った。このままでは決起をおこし、余力を失った民が、窮鼠となり爪と牙を向けてくると。
そこで、両王家は今までの争いを一旦横に置き、協力し水災害の支援に乗り出す。その最中に、両王家はこれからは仲良くすることを世間に示すため、互いの姫をそれぞれの王太子の妃として差し出した。
それ以来、二代ごとに姫を送りあい、血縁を深めていく慣例が定着した。
今でも、大河をめぐっては色々あるものの、時間をかけて話し合って解決するようになった。
そして、両王家が次期王太子に姫を差し出す今回に限って、なぜか、王家に年頃の姫が生まれなかった。
少々、年が離れていても容認されるはずが、なかなか女児に恵まれず、さすがに生まれたとしても次期王太子殿下に年の差十五歳以上の姫が嫁ぐのはどうかということになった。
相手国が三歳年下の愛らしい姫を嫁がせて来るのに、まさかまだ生まれていない赤子を差し出すと約束するわけにもいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが、公爵家。王家の血を引く娘たち。
何人かの候補の中で、王や宰相やら、お偉い方の会議の末、決定したのが私だった。
まさに青天の霹靂。
弟が仰天するのも頷ける。
これから私は、王家の養女になる。公爵家から直接嫁がせるわけにはいかない。形だけでも、姫という体裁がとられるのだ。
実際に婚約が発表されるのは、三年後。それまでは、準備期間。その準備期間のうち、二年は隣国の学校に留学することが決まっている。
これから住まう国へ馴染むために、ちょっとした予行演習ね。
どうやら、私の婚約者になる第一王子様は一歳年上なので、学校に通いながら、人柄を知ることができそうなの。
楽しみというには、不安が大きい。
私だって、悩まなかった訳じゃない。
でもね、悩んでいることは顔には出せない。
これ以上、弟に心配はかけたくないもの。
小さい頃から優しくし過ぎてしまったせいか、どうも姉離れができないの。
未だに婚約者が決まっていないのも、ちょっと問題ありじゃないかと母心に寄りすぎている私は気になってしまう。これは私の悪いところね。
だから、これを機会に弟離れをはたして、心機一転、新天地で頑張ることにしたのよ。
正式な手続きを経て、王家の養女になった私は、さっそく隣国の学校へ編入することになる。
この学校は試験が厳しく、王家の養女になる条件が、この編入試験に受かることだったの。確かに、養女を選定する期間にテストを受けたわ。どうやらそれが編入試験そのもので、その結果を踏まえて吟味されるとは思ってもいなかった。
通常なら、幼少期から教育を受けた姫が臨む試験。誰が受かるかと検討するより、全員受けさせて、結果を踏まえて考えるなんてね。そんな裏があるとは知らなかったので、真面目に受けちゃたじゃない。
裏事情を知っても、後の祭り。もう私は、編入試験に合格したマクネア国の学校の正門まで来てしまった。
同行してくれた外交官と一緒に、校門をくぐる。案内された校内の一室で、学校長に挨拶を済ますと、外交官とはお別れ。私は教師に案内され、寮へと向かう。
この学校は、全寮制。身分も関係ないという。私の出身や立場で優遇もないけど、不当な扱いもないという。
話半分に聞いておく。そこのところは、一応ちょっとだけ警戒するわ。油断して、巻き込まれて、痛い目を見るのは私だもの。
私の婚約者となる第一王子様も一学年上に在籍し、もちろん寮生活。
当然、男子寮と女子寮も分けられているわ。
寮での暮らし方を簡単に説明してもらってから、部屋へと向かう。一人部屋だった。プライベートが保証されているのはほっとする。
ベッドと机に小さなクローゼットがある。クローゼットには、事前に伝えておいたサイズの制服が用意されていた。
その制服に着替えてから、再び教師に案内されて校舎に戻る。今度は、立派な応接室に通された。今まで見てきた学び舎の雰囲気とは一線を画す格調高い部屋に驚いてしまう。
教師は出て行き、ソファーに座る私は待たされる。目の前に、冷たい紅茶が入ったガラスのピッチャーとグラスがあったので、注いで、喉を潤した。
ぽつねんと待っていると、ばたんと扉が開いた。
「すまない、待たせた」
飛び込んできたのは黒目黒髪の青年。容姿から第一王子様だとすぐに気づいた。すかさず立ち上がり、私は深々と頭を垂れた。
「はじめまして、シアーラ・オースティン・ガネルです」
顔をあげると、殿下は両目を瞬かせた。
「マクネア国、第一王子ジョシュア殿下ですね」
「一目見て、私とわかりますか」
「はい、よく存じております」
話にも聞いていたし、領事館で肖像画も見せてもらっていた。
殿下が傍に来て、私に座るように促す。
ローテーブル越しに向き合う。背が高い殿下は一人掛けの椅子にゆったりと腰をおろす。
「はるばる隣国から、よく来てくださいました。改めまして、私はジョシュア・スチュワート・マクネア。この国の第一王子です。学び舎の不文律にのっとって、ジョシュアとお呼びください」
「でしたら、私のことも、シアーラと呼んでくださると嬉しいですわ」
私が笑むと、殿下もほほ笑む。
切れ長の目に、すべてを威圧するような黒という色味から、黙っていると怖さを感じさせるのに、笑顔を浮かべると、急に優しそうな雰囲気に変わる。
光を吸い込んだ黒色の瞳は、星を瞬かせる夜空のようにきれいね。
初対面の殿下と私は、他愛無い話をする。
マクネア国の印象はとか、以前殿下が訪ねた時のガネル国のこととか。互いの国の印象深いところをすり合わせながら、小一時間ぐらいお話したの。
接点なんて少ない方と思っていたのに、淡白な川魚が一番好きという食の話で盛り上がってしまいました。思わず熱を込めてしまい、殿下がちょっと引いていて、口を閉ざしたわ。食べることって罪深いわね。
「シアーラの事情は知っています。心構えもなく、急にこちらに来ることになった事情は存じております。この国に滞在時、困りごとなどありましたら、一人で抱え込んだりしないで、どうぞ私に頼ってください。シアーラが楽しく暮らしていけるように、誠心誠意フォローさせていただきます」
美丈夫の真摯な眼差しに、私の方が照れ笑いしてしまうわ。
「ありがとうございます、殿下。とても心強いお言葉が沁みますわ」
好印象が残る初対面。私も殿下も、互いに、この縁談は良縁であると感じたと後日、二人きりの時に確かめ合ったわ。
殿下は有言実行する方で、時間が合えば、私に会いに来てくれた。公園も併設されていて、木陰で談笑するのはとても楽しかった。
国の優秀な人たちを集める教育機関なだけあって、皆さん勤勉で、その前向きな姿勢と並んで学べるだけで、こちらに来たかいがあると思ったわ。
自国には、これだけしっかりとした教育施設はないもの。ガネル国はもっと、ゆったりとした国だった。
週に何度か、図書室で並んで勉強を殿下に教わっていた。殿下はとても優秀で、教え方も上手。講義についていくだけで必死な私は、ついつい頼ってしまう。殿下も、頼ってくれてうれしいなんていうし、自ら時間を割いてくださるから、申し訳ない気持ちを抱きながらも、やっぱり甘えてしまう。
今日も図書室で歴史の教科書を開いている。
半分以上が、両国の戦争の歴史になっている。本当に、よくこれだけ絶え間なく争いを続けられたものね。呆れてしまうわ。
「歴史の勉強は、教科書を読むだけで、気が滅入りそうになりますね」
苦笑いを浮かべる私に、隣に座る殿下が、肩が触れ合う距離に近づいてきた。
「両国の争いがなぜ起こったか、そして長引いたか。それを、理解しておくのは、とても大切なことです。そこを理解していただくと、なぜ互いの姫を交換し合うことが、平和につながっているのかを理解することもできますよ」
「慣例というだけでなく、ちゃんと役割があるのですか?」
殿下は小さく頷いた。そして、口元に指を立てて、顔を寄せてくる。内緒話をしましょうと言われているようで、私も体を殿下の方に傾けて、ちょっとだけ前のめりになる。
「ガネル国とマクネア国は大河を挟んでまるで双子の国のように並んでいます。同じような沃土と資源を備え、気候もよく似ています。
しかし、川が氾濫した場合、被害を受けるのはマクネア国ばかりでした。地理の条件が、どうしてもこちら側が不利になっているのです。
今でこそ、治水の技術が発達し、灌漑もすべからく行われるようになったので、影響も少なくなりましたが、古くは本当に大変だったのです。
私たちの食糧難、これがきっかけになり、戦うことを止めれない歴史につながっていきました。
そんな中で、ある時、未曽有の水災害が起きます。その被害は、両国に及びました。
当時、大河を挟んで暮らす民たちは、それなりの友好関係にありました。川を挟んで婚姻する者もおり、互いの国に親類がいる状況です。
元々、それなりに民は助け合って生きていたのに、私たちはそんなことを気にせず、それこそ慣例通りの諍いを繰り返していたのです。
この期に及んで、まだ矛を向けあうのかと、災害により親族を失った民の蜂起の予兆により、両王家は助け合う方向に舵を切ったのです。
姫を嫁がせるのは、とても効果的でした。
嫁いだそれぞれの姫たちは、時に嫁ぎ先の王や宰相に助言し、時に祖国の使者へ嫁いだ国の現状を伝える役を担ったのです。歴代の彼女たちは聡明で、表立ちはしませんが、二国間の重要な調整役となったのです」
「二代ごとに姫を嫁がせることは、ただの慣例ではなかったのですね」
改めて、この婚約は重要な意味を持つと知り、私は大いに驚いた。王家に近いとはいえ、公爵家を出自とする私には知りえないことがまだたくさんあるのね。
「私、ちゃんと歴代のお姫様方のようにちゃんとできるか心配ですわ」
「大丈夫です、私がちゃんとフォローしますから。でもね、こうして一緒にいると、どうしてあなたが選ばれたか、よく分かりますよ」
意味が分からず、両目をぱちぱちしてしまう。
気づけば、覗き込んでくる殿下がとても近い。内容に気をとられていた私は、途端に気恥ずかしくなった。
肩が振れ合う距離で、顔を寄せてひそひそ話をしていたのだから当然と言えば当然なのだけどね。
恥ずかしさを誤魔化すために開いた教科書に顔を埋めた。
「シアーラ。教科書が逆さまですよ」
追い打ちをかけられて、もう顔を上げることもできず、額を机に押し付けてしまった。
私は殿下と過ごす時間が増えた。
周囲もそれとなく、私の立場を知っているので、暖かく見守ってくれる。
(敵国だったというのも過去のことだもの。思ったより、互いに好意的なのね)
意外と殿下は奔放なところがあり、夜に忍んで女子寮の窓下にやってきて私を驚かせたり、学校外に連れ出してくれることもあった。
なにを考えているのか、よく分からないところはあっても、この人だからとするりと飲ませる無邪気さも備えている。
(面白い人ね)
私は、殿下と一緒にいることが楽しい。
そのうちに、こっそりと人目がつかない場所に二人きりで会うようになった。
図書室や木陰では、周囲の目があって、半歩ほどは距離を置かざる得ない。並んで、ひそひそ話すのも、今では私のほうが照れくさくてできなくなっていた。
校舎のなかでも、わりと人気の少ないいくつかの場所で、人に見つかりにくい時間に、二人で過ごす時間が自ずと増えて行ったわ。
恥ずかしさはあっても、人目がない場ではどうしても近づきたくなる。周囲を気にしないでいると、ぴったりと寄り添うことができた。
いつもはおしゃべりな殿下も、ひっそりと会う時は無言になる。片腕を背に回し、肩に手を添えてくる時も多い。肩口にもたれるのが好きだった。
週に一度が、二度三度に増えて、もうすぐ毎日になるかなという時だった。
いつものように、さわさわと撫でてくれる手が気持ちよくて、口元をほころばせながらくつろいでいた。
殿下が髪に触れて、頬を撫でる。くすぐったくて首をすぼめると、頬を撫でる手が傾いて顎に触れた。
ちょっとだけ、上向けられて、目を丸くしているうちに、殿下の顔が近づいてきた。
(あれ?)
疑問に思う間もなかった。殿下の顔が近づいてきて、私の唇に柔らかい感触が触れた。
あったかい感触が、ちょっと擦れ合う。
(キスしてる!)
振れ合った唇が離れた。
ほやんと目を丸くしてしまった私と目が合った殿下のほっぺには、しまったという言葉が張り付いていた。
今まで見たこともないような表情で青くなったり赤くなったり、口をパクパクさせている殿下。
初めてのキスの余韻は、殿下の面白さで埋め尽くされてしまう。
おっきい殿下が照れる様があまりに可愛かったので、私は彼のほっぺに仕返しのキスをしてした。
ほっぺに触れた唇を離したら、いたたまれなくなったのか、とっても大きな殿下が両手で顔を包んで、ちっちゃくなってしまったの。
どうしようもないくらい可愛らしくて笑ってしまうと、殿下はますます顔を上げれなくなってしまったわ。
そんな穏やかな学校生活を殿下と過ごして、四か月。
私は進級した。
一学年だった私は二学年になり、殿下は二学年から三学年になる。
例年、新入生のなかにはガネル国からの留学生がいる。驚くことに、その留学生に弟のエドガーがいたの。留学できるのは優秀な数人と決まっている。とても一生懸命勉強したのだとしみじみと弟を褒めたくなる。まだまだ、弟離れができていないのね。
それでも、弟の結果は、とても誇らしいわ。
「姉さん、姉さん。すいません、通してください。姉さん、姉さんってば」
新入生歓迎のセレモニーが終了した後だった。
聞きなれた呼び声にうたれて、私は周囲を見渡す。
たくさんの新入生の一群から、弟のエドガーが、人をかき分け飛び出してきた。
数日前には入寮していると話では聞いていたものの、男女で建物が違うため、会う機会がもてなかった。五か月ぶりの弟との再会に私は嬉しくなる。
「エドガー、エドガー」
弟を見つけた私が手を振ると、エドガーは心底嬉しそうな顔で近寄ってきた。私の前で、息を切らして立ち止まる。
「姉さん、元気だった。手紙では、とても楽しいと書いてあったけど、本当のところはどうなの」
「本当のところって……、大袈裟ねえ。書いた通りよ。とても楽しい学校生活を送らせてもらっているわ。
エドガーこそ、よく頑張ったわね。国内の留学選抜試験は二か月前でしょ。受けるなんて言ってなかったから、こっちへ来ると聞いてびっくりしたわ」
「受ける気は無かったけど、一か八か、三か月だけみっちり勉強して受けたんだ。たぶん、受かったのはギリギリだと思うけど、姉さんに会いたかったから、滑り込んだ」
「まあ、私を追ってきてくれたの。弟に心配されるぐらい、不甲斐ない姉だったかしら」
「違う、姉さん、違うんだ」
私はいつもの調子で弟をからかってしまう。小さい頃から真っ直ぐに繋がってきた二人の関係が懐かしい。
久しぶりに会って気が急いているのか、エドガーはうまく言葉を選べない様子で、食いしばって斜め下を向く。
いつもと違う反応に一抹の不安を覚えた。
「どうしたの、何かあったの」
「姉さん……、一緒に帰ろう」
ぽつりと呟いた台詞は、本当に小さくて、誰の耳にも届かなかっただろう。ただ、私の耳にだけははっきりと聞こえてしまった。俯く弟が可哀そうになって、私は彼の手を握った。
「私を心配してきてくれたのでしょ。ありがとう、エドガーはいつも優しい。でも、本当に私は大丈夫なのよ」
顔を上げた弟の視線が私の後ろに流れて、私も振り向く。
後ろに立っていたのは、ジョシュアだった。いつの間に後ろにいたのか分からない彼は首に手を当てて、私たちを見据えていた。
「えっと、彼は……、確か、留学生の一人ですよね」
複雑な表情のジョシュア。誤解させてはいけないと私は弟の手を離した。
「紹介するわ、ジョシュア。私の弟、エドガー・オースティン。今年度の留学生の一人なの。
エドガー、こちらはマクネア国の第一王子、ジョシュア・スチュワート・マクネア様よ」
「えっ、じゃあ、この方が、姉さんの……」
「そう、婚約者になる方ね」
弟の驚く顔を見ていると、私は笑顔を崩せない気持ちにかられた。
遠くから、「新入生はこっちへ~」という大きな声が響いてくる。「姉さん、行かなくちゃ。またね」とエドガーは慌てて、新入生の輪の中に消えて行った。
残された私はジョシュアに笑顔を向ける。
「彼が弟?」
「そう、弟よ。王家じゃなくて、生家である公爵家の実の弟なの」
「……随分、姉思いなんだね」
「急に元敵国に嫁ぐことに決まったから、心配かけちゃったのね」
「……本当に、それだけ」
「それだけよ。だって、弟ですもの」
「弟ねえ」
ジョシュアは、新入生の一群が消えた方角を見つめる。私もだけど、ちょっと引っかかることはあっても気にしないことにした。
エドガーは弟だし、王家の養女にまでなった私の婚約を取り消せすことはできないのよ。
『姉さん……、一緒に帰ろう』
エドガーの苦渋の呟きが刺さったまま、私は心配しないでとジョシュアに笑いかけた。
何事もないまま、平穏に過ぎればいいと思っている時に限って、事件は起こるのよね。
学校で会ったジョシュアが、ほっぺたを赤くしていた。腕にも軽いあざをこさえている。どうしたのと聞いても、ちゃんと答えてくれない。周囲の男子生徒も、同じ寮にいるはずなのに、教えてくれる人はいなかった。
午後になっても、理由が分からないでいたら、ぱったりとエドガーと鉢合わせた。
そしたら、エドガーもジョシュアと同じように、口元にちょっと切れた傷があり、赤く腫れているものだから、嫌でもピンと来てしまう。
(エドガーとジョシュアの間になにかあったのね)
「エドガー!」
「なに、姉さん」
急に大きな声で名を呼ばれたエドガーがびくつく。私はむんずと腕を掴んで歩き始めた。ジョシュアと隠れて会う場所の一つに弟を連れてゆく。
弟を引っ張っていく私の姿を、たくさんの人に廊下で見られても、目的地は外だ。人気の少ない、小さなせせらぎの傍にあるベンチ。今は、授業開始直前なので、尚更、人は来ないはず。
ベンチ横に来た私は、エドガーを掴んでいた手を緩めた。弟が掴まれていた腕を引いた。
「……、これから、授業なんだけど。姉さん」
「その口元はどうしたの。それに答えてくれたら、行っていいわ」
「……、俺の方が足早いよ」
口をすぼめてエドガーは言いよどむ。
こういう時は、強く出た方が勝ちなのよ。腕を組んで、私はふんとエドガーを睨む。
「逃げれるとでもいうのね。そうね、逃げてもいいわ。でもね、逃げたら、もう二度とあなたと口きかないから」
「なっ、なにさ、それ! まるで子どもじゃないか」
慌てる弟なんて、そっちのけで私は続ける。
「ジョシュアも頬を赤くしていたの。男子生徒に聞いてもちっとも教えてくれないの。そしたら、あなたまで唇を切って腫らしてる! これで何もないなんて通じないのよ。
ジョシュアと何があったの、エドガー。白状しなさい」
エドガーは、口を引き結んで、下を向く。
すると横に自生する低層の木々の葉が擦れる音が響く。
私とエドガーが誰か来たと焦ったところに、ジョシュアが現れた。彼もまた走ってきたようで、息が早くなっている。
「シアーラ、この件は不問です。エドガーにも、男子生徒にも私が口止めしています。知りたいのなら、私がお伝えします。
エドガーが私に拳を向け私もそれに応じてしまったことなので誰にも言えない。いや、言ってはいけないのです」
「それは、つまるところ、けんかをしたということですか」
ジョシュアは苦笑いを浮かべる。
エドガーは苦々しい表情で目を逸らした。
公爵令息と第一王子のけんかなんてシャレにならない。
でも、理由が分からない。初対面に近い者同士が、いきなりけんかするなんて……。
「なんで?」
聞きたいことは言葉になる前に沢山浮かんで消えていく。やっとの思いで拾い上げた言葉はそれだけだった。
「姉さんが、関わるからだよ!!」
エドガーの怒声が飛び、私は目を丸くした。
(エドガーは私を迎えに来たんだ)
薄々分かっていただけに、突き付けられて、自覚する。
エドガーは私を追いかけてきた。その目的は、再会した時に零した呟きに込められている。
息を吐くエドガーが、ベンチに腰を掛け、両手両足を投げ出すと、俯いて語り出した。
「姉さんは、五か月前に、急にマクネア国へ嫁がされることになった。姉さんは本来は公爵家を継ぐ立場だったんだ。ただ王家に姫が生まれなかったという事情だけで、姉さんの人生が狂わされたんだ」
「それで、怒ったの? そんなことで……」
「そんなことじゃないだろ!」
ぽつりとこぼした私の一言は弟の神経を逆なでした。滅多に刺すように怒鳴らない弟の刺々しい低い怒声に、私の身体は強張った。
そんな私の反応に、エドガーはひどく傷ついた顔になり、またうつむいてしまった。
「姉さん。嫁いだ姫はみんな、祖国には帰らないんだ。下手したら、姉さんはもう二度と、家には帰れないんだよ。実の親とも、誰とも会えなくなるんだよ。そんな人生の選択を、急に決められて、怒らない方が可笑しいじゃないか」
エドガーが力を失った声音で、たどたどしく言葉を紡ぎ、沈黙した。
続いて、ジョシュアが口を開く。
「寮でばったりと会ったエドガーと言い争いになった末に、私たちは互いに怪我を負いました。
彼から受けた叱責は、貴女と初めて会った時に言われることを覚悟していた言葉でした。
覚えていますか、初日。応接室で二人きりで会った時を」
私は頷く。
「他者の目があっては、本音は言えないと思い人払いをさせていたのです。にもかかわらず、あなたはとても朗らかに現状を受けて止めていました。私も急に決まったことでも、きちんと受け止めることができる、芯の強い貴女に驚くとともに、惹かれました。
貴女はとても穏やかで、愛らしい。
この数か月、あなたとともに過ごすなかで、いつしか私はこの縁談に感謝するようになっていました。
腹が立ったのは私のせいです。
初日であれば、エドガーの叱責も私は黙って聞けたでしょう。
でも、今は駄目です。
私が、あなたを大事に想うように変わってしまったせいなのです。
私が貴女を、手放したくないのです。
これは私の本心ですが、この本心をもって、不本意な貴女を縛ることは望んでいません」
二人が何を言っているのか私は分からなかった。
婚約話は、もう決まっていることで、覆せるわけじゃない。
そんなにエドガーが怒っても、現実は変わらないはずなのに。
「でも、でもね。よく考えて、二人とも。私には選択権なんてないじゃない」
エドガーが顔を上げた。
「あるんだよ、姉さん」
「ありますね」
涼しい顔の二人が同時に同じことを言い出し、私は面食らう。
「どういうこと……」
「ガネル国から嫁がされる予定の姫を見て、相性が悪いと思った場合は、私の方が婚約予定を解消することができるのです。貴女ではなく、私に拒否権があるのです」
「今まで利用されたことがない決め事だけど、今回は何もかもが異例だ。だから、姉さんが本当は帰りたいと言えば、帰れるんだ。俺は昨日、言質を取った」
「ええ、この一件の選択権はすべてシアーラに委ねます。貴女の選択を、最優先で指示します。私は、エドガーと怒鳴りあいながら、約束しました。二言はないつもりです」
神妙な表情の殿下。再び、うつむくエドガー。さすがの私も二人を見比べて、後ずさる。
「シアーラ、選ぶのは貴女です」
「帰ろうよ、姉さん」
どうしたらいいの。
ガネル国へ帰る選択肢は、初めからないと思っていたわ。あるはずのない選択肢を、いきなり提示されてもどうしたらいいか分からない。
「ごめんなさい。よく考えてよ。そんなの決まっていることではなくて、私がもし祖国に戻っても、きっと婿は迎えられないわ。こんな大事な役目をまっとうできなかった娘だもの。きっと、誰も、見向きもしないわ。私の選択肢なんて、一つしか……」
「俺と姉さんは、血は繋がってない!!」
私が言い切らないうちに、エドガーが叫んだ。うつむいたまま、弟は頭を抱えて、頭を振る。
「俺と姉さんは、姉弟じゃない。俺は従弟だ。
俺は父の妹夫婦の子だ。生まれた翌年に事故死し、公爵家に姉さんの弟として引き取られた。
俺は、姉さんの、従弟なんだ」
私は頭のなかが真っ白になる。
今まで、弟だと思っていたエドガーが、従弟。言葉もなく、立ちすくむ。
うつむいたままのエドガーの頬に雫が伝い落ちていく
「こんな、別れは、嫌だ。
俺は、姉さんが好きだ。シアーラが大好きだ。
あんな別れ方を迎えるなんて、思わなかったんだ」
最後の声は震えていた。伝う涙がとめどない。
エドガーが泣いている。
いたたまれなくなり、体が動く。私は大切な弟を抱きしめた。
「もっと早く、姉さんに姉弟じゃないって言えばよかった。シアーラが好きだって言えばよかった。
ずっと姉さんは家にいると思っていた。
姉弟の関係が惜しくて、嫌われたくなくて、黙っていたら、公爵家の年頃の娘で婚約者がいなかったのが姉さんしかいなかったんだ。
父さんが気を使って、婚約者を決めないでいてくれたことが仇になった。
俺が動かなかったことが、父さんにまだ早いよなんて、言っていたことが……。
世間では、俺は姉さんの弟で、弟という後継ぎの代わりがいて、婚約者のいない姉さんが本命にあがるのは必然だったんだ」
泣きじゃくる弟が可哀そうで、いたたまれなくて、私まで泣いてしまいそうだった。
「姉さんが、シアーラが決めたことに従うよ。でも、最後に言わせて」
抱きしめていた私をエドガーの両腕がすくいあげるように背に回る。体が浮くかという勢いで、抱きしめられて、顔が近づいた。
「俺はずっと、あなたが、好きでした」
胸がうずく。長い間、エドガーだけを苦しめてきたことがあるのだと思うと悲しくなる。
「ごめんなさい、私、あなたがこんなに苦しんでるって分からなくて……」
「違うよ、シアーラ。俺は幸せだったんだ。シアーラといることが幸せで、この幸せが続くといいと思っていたら、まさか……、まさか、こんな形でかっさらわれるなんて思わなかったんだよ。
本当に、心から、ずっとシアーラを助けて、ずっとずっと一緒にいるつもりだったんだよ」
「私も、エドガーと一緒にいることはとても楽しかったわ。本当に、あなたと一緒に育つことができて、嬉しかった」
もし、こんな婚約話が降ってわいて来なかったらどうだったろう。
家を継いで、エドガーと姉弟じゃないと知っていたら……。
そしてら、きっと、私は……。
私はエドガーを抱き返した。ぎゅうぎゅうに体を押し付けて、背中も目一杯強く抱きしめた。視界の端に、傷ついたような表情を浮かべるジョシュアがいる。
過去へは遡れない。
私たちが進めるのは、未来だけ。
「決めたわ。私……」
生い茂る葉、透き通る水、青い空。
暖かい日差しに包まれる初夏の風が吹く。
私が、マクネア国に初めて訪れてから、幾度目かの初夏がめぐる。
花が咲き乱れる花壇をぬう小道を歩く。
色とりどりの花は鮮やかで、気持ちまで華やいでくる。
庭に用意される茶席はもうすぐ。
「シアーラ」
私に向けて手をふるエドガーに、私も手を振り返す。
弟の隣には、王太子になったジョシュアがいる。
私はあの日、ジョシュアを選んだ。
「シアーラ」
ジョシュアは再び、私の名を呼ぶ。
仕事を終えた穏やかそうな顔をしている二人に向かって私は声を張り上げた。
「また二人とも、会議で喧嘩してきたんでしょ。顔に書いてあるわよ」
義理の兄弟は顔を見合わせて、苦笑した。
いつものことだもの、すべてお見通しなのよ。
マクネア国の王太子妃になる未来を選んだ私は、大切な人に囲まれて、とても幸せです。