9.そんな場合じゃないのだけれど
「はしたないわよ。座りなさい二人とも」
二人の反応を楽しむように母が言う。
けれど彼らには聞こえていないようで、座り直す気配はなかった。
「ふざけるな! 僕と婚約解消した日に兄と婚約だと!? どんな手を使ったんだこの売女! 尻軽!」
「なっ」
「ミュスカー」
あまりにも酷い罵倒に反論しようとした瞬間、地響きのような低い声でアーロンが遮った。
見たこともない憤怒の形相にミュスカーがたじろぐ。
「アメリアを侮辱するのは許さない。誠実じゃなかったのはお前だ。彼女を傷付けたことは生涯を懸けて償え」
「でもっ、だって、」
アーロンの静かな怒りに触れて、ミュスカーが怯えたように青褪める。
唇が微かに震えていたけれど、反論の言葉は出てこないようだ。
「嘘よ!」
そこにさらに悲鳴のような声が割って入る。
リリィが顔を真っ赤にして、自分の服をぎゅっと握り締めてアーロンに縋るような表情をしていた。
「ウソウソウソウソ絶対ウソよ!! アーロン兄様はリリィと結婚するんだもん! 約束したでしょう!?」
駄々をこねるようにリリィが足を踏み鳴らす。
気に入らないことがあるときの彼女の癖だ。
だけどもうほとんど大人の顔をしているのに、あまりにも成長のない子供染みた行動がチグハグして見えた。
「……アーロン?」
どういうことだという顔でハノーヴァー卿がアーロンを見る。
「いえ、していませんが」
落ち着いた顔でアーロンが答える。
こうなることは予測済みだったのだろう。
冷静な表情に、私も動揺せずにいることができた。
「したもん! リリィが好きって言ったら『大人になったらね』って!」
「子供にそういう気持ちは持てないと言ったんだ」
アーロンがリリィの主張をピシャリと否定する。
記憶力のずば抜けたアーロンの言葉は、その場その場で都合のいい嘘をつくリリィの言葉よりもよっぽど信頼度が高い。
実際、彼がそんな無責任なことを言うとも思えないし、間違いなくアーロンの言い分が正しいだろう。
それにしてもすごい曲解だ。
「違うもん! キスだってしてくれたもん! 愛してるって言ってくれたもん!」
「リリィが六歳の時の話かな。それだったらうちに泊まりに来た時、キスしてくれないと寝ないと癇癪を起すから仕方なく額にキスをした記憶がある。その時に愛してるか聞かれたから、デイジーがキミを思うくらいにはって答えた」
それはつまり、全然愛していないということだ。
姉妹の確執を知っているからすぐに思い至った。
きっとその頃から、デイジーはリリィのせいで悲しい思いをしてきたのだろう。
それにしても、昔だけでなく今もリリィがこんなにアーロンを慕っていたなんて驚きだ。
じゃあ今まで散々私とミュスカーを振り回してきたのは、一体なんだったのか。
ミュスカーは何を考えてリリィに入れ込んでいたのか。
混乱してちらりとミュスカーを見ると、彼は顔を真っ赤にしてワナワナと震えていた。
唐突に癇癪を起こしたように、ミュスカーが思い切りテーブルを叩いた。
大きな音にびくりと身体が跳ねる。
「どうしていつも兄さんばっかり!!」
その激しい感情に怯えそうになる私の手に、アーロンがそっと自分の手を重ねた。
アーロンの方を見ると、安心させるように微笑んでくれた。
それですぐに平静を取り戻せた。
見つめ合っているのが気に食わなかったのか、リリィが思い切り睨んでくる。
だけど怖くはなかった。
アーロンの手をぎゅっと握り返す。
真っ直ぐに見返すと、リリィはわずかに怯んだように目を逸らした。
「父さんも母さんも兄さんを贔屓して! リリィだって昔から兄さん兄さんだし! アメリアだってそうだ! 結局僕はいつも愛されない!」
ミュスカーの主張を聞いて引いてしまう。
デイジーと違って、彼が露骨に虐げられたところなんて見たことがない。
それどころか、いつもアーロンのものを欲しがっては譲ってもらっていた。
学力が足りない分アーロンより教育費がかかっているし、服飾費だって趣味だって、質素を好むアーロンの何倍もかけてもらっているはずだ。
もちろんハノーヴァー夫妻が兄弟を比較してどちらかを上げてどちらかを下げるような発言を聞いたこともない。
他人が見ていないところではわからないが、愚痴ばかりのミュスカーが明らかに差別されていると感じるような発言をしたことは一度もない。
せいぜいがないものねだりとか、嫉妬とか被害妄想とかそういった類のものだった。
それを贔屓と言われても、私にはミュスカーの努力不足だとしか思えなかった。
「ようやく兄さんがいなくなってリリィが僕を見てくれるようになったのに! どうして帰ってくるんだよ最悪だ!」
「変なこと言わないで! ミュスカーなんて好きじゃないもん! リリィが大人になるまで結婚しないで待っててくれるって、兄様が言ったからそれまで遊んであげてただけ!」
ミュスカーが喚くのにリリィが必死で反論する。
余程アーロンに誤解を与えたくないようだけど、結婚しないで待つなんてたぶんアーロンは言っていないのだろう。
「出国する前に告白された時のことなら、結婚する気はないと言ったけどそれはリリィのためじゃない。アメリア以外との結婚が考えられなかっただけだ」
案の定すかさず入る訂正に、そんな場合ではないのにポッと頬が熱くなる。
思わず繋がれたままの手にぎゅっと力を込めて見つめると、アーロンが照れたように顔を背けた。
それにしても、何度も告白するなんて根性がある。
私なら一度でもフラれたら、怖くて二度と言えなくなってしまう。
ただ、リリィに関して言えば自分がフラれたとは微塵も思っていないだけかもしれないけれど。
「嘘よ! 兄様の嘘つき! リリィを好きなくせに!」
「キミを好きだったことは一度もない。ずっとアメリアだけを愛していた」
容赦のない言葉にリリィが言葉に詰まった。
真剣にリリィに言い返すアーロンの言葉が嬉しくて、結構な修羅場だと言うのに頬が熱くなるのを止められなかった。