3.再会して気付くこと
婚約解消を保留されてから、なんの進展もないまま一ヵ月が経過した。
ハノーヴァー卿からの沙汰もない。
そのせいでミュスカーは婚約解消なんてハッタリだったんだろうと強気で、ますますリリィに傾倒して私を蔑ろにした。
そんな態度を見ても、もう傷付きもしない。
私はもう諦めたのだ。ミュスカーと向き合うことを。
明日、改めて婚約解消を申し出よう。
そう決意したその日、ハノーヴァー卿から呼び出しがかかった。
ようやく解放されるのだ。
両親も納得してくれたし、あとは正式に手続きをするだけ。
馬車に向かう足取りは軽やかで、とてもこれから婚約者を失う女には見えないだろう。
父も母もどこか明るい顔をしていた。
「さぁ、きちんと話をしておいで」
ハノーヴァー侯爵家の客間に通されて、父が言う。
てっきり話し合いの場に同席してくれると思っていたのに、そうではないらしい。
父も母も、笑顔で私を応接室へと送り出そうとしている。
「ええ、でもお父様たちはよろしいの?」
「なに、積もる話もあるだろうから私達はここで待っているよ」
「? 話し合い自体はすでに済んでいるのだけど……」
「いいから行っておいで。私達はアメリアの決断を尊重するから」
笑顔のまま強引に背中を押されて廊下を進む。
心細かったけれど、もう一人前の大人だと認められているようで少し嬉しかった。
何度も出入りして慣れたお屋敷だから、応接室の場所は分かっている。
柔らかな絨毯の上を一人歩きながら、これまでのことを思う。
私を妻にしてくれるというミュスカーを愛そうと努力してきた。
過去の恋など忘れて、彼を支えようと前を向いた。
だけどもう無理なのだと気付いてしまった。
彼の目が私にだけ向けられていたら、また違った結果になっていたかもしれない。
けれどリリィという存在を過剰に優先する彼には、ほとほと愛想が尽きてしまったのだ。
彼女をどうにかしてまで添い遂げようと思うほどの愛は、私の心に芽生えてはくれなかった。
こんな結果になってしまった原因は私にもある。
やはり婚約継続はどう考えても無理だ。
情に訴えられても絶対に断ろう。
そう決意して応接室の前で深呼吸をする。
「失礼します」
ノックの後で声を掛けた。
「やぁアメリア。久しぶりだね」
返事を待たずに扉を開けた瞬間、呆然と立ち尽くしてしまう。
応接室にはハノーヴァー卿ではなく、彼の長男であるアーロンが立っていた。
「……アーロン。お帰りなさい」
逸る胸を抑え、ぎこちなく笑って挨拶をする。
二年ぶりに会う彼は男性らしさを増して、ますます素敵になっていた。
「いつ、帰ってきたの? 知っていたらもっと早く会いに来たのに」
声が掠れそうになるのをなんとか堪えて、応接室の中へと足を踏み入れる。
「今朝だよ。すごく急いで仕事を片付けて、ようやく帰れた」
まるで二年間のブランクなんてなかったみたいにアーロンは笑う。
その懐かしい笑みに、心臓が引き絞られるように痛んだ。
私とミュスカーの婚約が決まってすぐ、アーロンは国外視察という名の留学のために旅立つことになった。
同じ分野で学んでいたデイジーを連れて。
ああ、本当に彼らは結婚するのだな。
そう思い知って、アーロンへの恋心は胸の奥底に封印した。
馬鹿みたいな話だけど、それでようやくアーロンと普通に喋れるようになった。
今まで嫌な態度だったことを謝って、最後の挨拶と、それから元気でいてほしいと告げることが出来て、それだけでもう幸せだった。
アーロンは以前のように喋れるようになったことを喜んでくれたあと、「婚約おめでとう」と祝福の言葉をくれた。
それでけじめをつけたつもりだった。
だけど今再びアーロンの姿を前にして、私の胸は苦しいくらいに高鳴っている。
もう忘れたと思っていた恋心が、胸の奥でまだ強く息づいているのを感じた。
「デイジーは一緒じゃないの……?」
こんな想いは無駄なのだと、自分に言い聞かせるために問う。
なぜ急ぐ必要があったのか。
それは彼女との結婚が正式に認められたからではないのかと。
アーロンの口から聞いて、トドメを刺してもらうために。
「デイジー? 彼女とは国を出てからずっと別行動だよ」
「そうなの!?」
「……っと、これは秘密にしててくれるかい」
言ってはいけないことだったらしい。
アーロンはまずいことをしてしまったと顔を顰めたあと、人差し指を軽く口許に当てて苦笑した。
国を出てからずっと。
なぜ別行動だったのだろう。
理由はわからないけれど、そんなことで嬉しくなる自分が浅ましく思えて恥ずかしかった。
「……弟とのこと、聞いたよ」
俯いてしまった私に、アーロンが気の毒そうな声を掛ける。
そのことで落ち込んでいるわけではなかったけれど、本当のことを言えるわけもなく小さく頷いた。
「本当に、愚弟が申し訳ないことをした」
「いいの。アーロンは何も悪くないでしょう?」
「リリィへの執着は昔からだったから。アメリアと婚約した時に忠告はしたんだけどね」
「忠告?」
「ああ。結婚するのだから、リリィではなくアメリアを大切にしろと」
意味はなかったみたいだな、とアーロンが苦い顔をする。
「ありがとう。そんな風に気にかけてくれていたのね」
それだけで充分に嬉しかった。
私の恋は叶わなかったけれど、妹みたいには大切に思っていてくれるのだ。
「だが結局俺の言葉が足りなかったばかりに辛い思いをさせてしまった。本当に申し訳ない」
「もう、だからアーロンのせいじゃないったら。私に魅力がなかっただけ」
「そんなことはない」
苦笑しながら言うと、思いのほか強い言葉が返ってきて目を瞠る。
「あ、いや、すまない。こわがらせるつもりでは」
「怖くなんかないわ」
慌てるアーロンに思わず笑みがこぼれる。
彼は気恥ずかしそうに口許を押さえた。
「……まさか私を慰めるために急いで帰ってきたの?」
冗談交じりに、揶揄うように言う。
そんなことありえないことくらい解っている。
だけど二年ぶりのアーロンは相変わらず優しくて、それで少しだけ浮かれてしまった。
「いや、それもあるけどそうじゃなくて……」
私の言葉にアーロンは姿勢と表情を改めた。
「このタイミングで言うべきじゃないとわかってる。けど、どうしても伝えたかった」
それから真っ直ぐに私の目を見てこう言った。
「――必ず幸せにすると約束する。どうか俺と結婚して欲しい」
頭が真っ白になって、何も言葉が出てこない。
私の耳は聞こえているはずなのに、アーロンが何を言っているのかまったく理解ができなかった。