たった一つの時間旅行09:一つの悪意
常桜の都に構える忍者たちの拠点に身を隠して一晩が経ちました。
「……なんだか外が騒がしいですね」
私の眠りを妨げたのは外を流れる人々の喧騒でした。
この街には落ち着いた雰囲気の印象を持っていたので、何だか少し裏切られた気分です。
「うーん? うん。ふあぁ〜〜。すぅ……」
アリエさんも一瞬だけ起きかけましたが、彼女にとっては気になるほどの雑音ではないようです。
私も普段なら寝つきはいい方だと思うのですが、この国に来てから少し神経質になっているのでしょうか。
木製のブラインドから外の様子をこっそり覗いてみる。
喧騒の正体は列を成して歩く甲冑を身に付けた兵士たちでした。
朝の見回りにしては仰々しいため、何かがあったと考えるのが自然でしょう。
「……なんだか胸騒ぎがします」
この虫の知らせが正しかったと分かるのはすぐ後のことでした。
「巫女さまぁ〜!」
「ふぎゃぁああ! もう、アオイちゃん。ビックリさせないでよー」
部屋に慌てて入ってきたアオイさんの声に驚いて、流石のアリエさんも飛び起きてしまった。
「わ、悪かったよ。でも、急いで支度してほしいんだ。この都からすぐにでも脱出しなくちゃならなくなった」
「外の方々と何か関係ありますか?」
「ありも大あり。あいつら、どうやらボクたちを探してるらしいんだ」
身支度をアリエさんに手伝ってもらいながら、何があったのかアオイさんの説明を聞くことになりました。
「姫様が拐われたらしいんだ。その犯人がどうやらボクら忍びたちってことになってるみたい」
「お姫様ってマイカのことかなー?」
「そう考えるのが妥当だと思います。それで、本当に拐ったのですか?」
「濡れ衣だよ。姫様なんて拐っても、ボクたちになんの得もないからね」
損得の観点からみれば決して得がないとは思いませんでしたが、それを言うのは野暮というものです。
「この街から戦わずに抜け出す算段はあるのでしょうか」
「街中を用水路が流れてるでしょ。あれは見栄えをよくするためにしているだけで、実は地下にもちゃんとした用水路があるんだ。そこを通って抜け出す予定だよ」
「分かりました。街を抜けたら一度、里に避難するということですね」
「うん。流石にあの里なら見つからないでしょ。誰かが密告でもしない限り」
「今日のお姉さまもバッチリだよー」
身支度を手伝ってくれたアリエさんが満足気な表情でそう告げる。
「毎度毎度ありがとうございます」
「お姉さまの髪を梳かすのはアリエの役割だからねー。もうマイカはいらなーい」
「自分でできればいいのですが、どうしてもボサボサになってしまって」
「ご褒美にお姉さま成分を吸収だー。ぎゅー」
「巫女さま方、遊んでないで出発するよ」
足首くらいまで水に浸かりながら、暗い道を提灯のわずかな明かりを頼りに進む。
地下と聞いていたので何となく下水を想像していましたが、思ったよりも綺麗なのでそうではないようです。
「ルッキー先生の魔法があれば足元汚れずに進めるのにー」
「こんな所を歩かせて申し訳ないけど、もう少しで出口だよ、ほら」
別れ道を水の流れに従って進むと、地下道の終わりと共に外の光が見えてきた。
「やっとゴールだー。よーし、一番乗りだ」
「待ってください!」
私は駆け出そうとするアリエさんの足元を咄嗟に魔法で凍らせた。
「一人で先に行くのは危険です」
「ごめんなさい……お姉さま……」
「わたしの方こそ強引でした。足は怪我していませんか?」
「うん、大丈夫だよー」
「いや、だいじょばないかもしれない」
先行するアオイさんは私たちにこれ以上進まないように手で静止を促す。
「待ち伏せされてるみたい。ここから逃げるのを読まれてたんだ」
「引き返しますか?」
「ううん。ボクが囮になって引き付けるから巫女さまたちはその隙に行って」
「アオイちゃん一人だけじゃ危ないよー」
「一番よくないのは巫女さまがあっちの手に渡ることだから、それだけは避けなくちゃ」
「アリエたちだって戦えるよ」
「うん、分かってる。だけど、それは悪魔相手にでしょ。今、目の前にいるのは普通の人。それでも戦える?」
「それは……」
「アオイさん……よろしくお願いします」
「お姉さま!」
「わたしたちの力は決して人を傷つけるために使ってはいけないのです」
マイカさんを除いて、私たちの身体能力は魔法や悪魔の力を借りなければ人並み以下しかありません。つまり、足手まといでしかありません。
「そんなに心配しないでよ。逃げるだけなんだからボクなら大丈夫だよ」
アオイさんはありったけの煙幕を焚いて、用水路から飛び出していった。
彼女の指示通りそれから三分経った後、私たちは煙幕の中を別方向に進んで里を目指しました。
私は目の前に広がるその光景を目の当たりにした時、とある会話の内容を思い出しました。
ピトゥーラさんの故郷でもあるサキュバス族が暮らす結晶と珊瑚の町で、町長のアスタロトさんは言いました。
「君たちは“戦争”という言葉を知っているかい?」
それは現実ではない物語の中にだけ存在する概念のはずでした。現実味はあれど決して現実的ではないと、この世界の歴史が証明しています。
お互いに譲り合えばそれでよかった。許し合えればそれで解決できた。不毛なことなんて起こるべくもないと私たちは思っていたのです。
だけど、それはこの世界が今までたまたま優しかっただけなのかもしれません。
「たった一つの悪意でこうも容易く起きてしまうのですね……」
私とアリエさんは予定通りアオイさんたちが暮らす里へと向かいました。この小さな隠れ里はたどり着くのに洞窟を抜ける必要があります。
遠く離れた安全な場所から私たちはその洞窟の入り口を見下ろす。
「なんで! なんで、ここがバレちゃったのさー……」
アリエさんの疑問に答えることはできず私は沈黙を貫いた。
私たちが都で用水路に逃げ込んだことも筒抜けになっていました。そして、里の位置までもがこうも早く突き止められてしまったとなると、証拠はないけど密告者がいたとしか考えられませんでした。
「……戦争」
忍者の者たちと甲冑を着る者たちが大勢で殺し合いを行っていました。
怒号が飛び交う中で死体が築き上げられていく様はまさしく、物語の中で描写されていた戦争を彷彿とさせるものだったのです。
私たちはこの世界の歴史上で初めて起きた戦争を目の当たりにしています。それは何十人にもなる二つの勢力がせめぎ合う光景でした。