たった一つの主人公08:タイムリミット
灰色の炎によって蒸された果実はその甘い香りをより一層際立たせていた。
燃える樹海の中心で灰の悪魔が僕らをあざ笑うかのように咆哮を上げ、背中の触手を自在な動きで振りかざす。
この触手に触れてはいけない。触れてしまえば、その箇所からたちまち灰色の炎が発火する。木々が燃えているのはこれのせいだ。
だけど、今の僕らにとってこの攻撃は脅威とはならなかった。
目にも止まらぬ速さと言っても差し支えなかったのに、魔法少女の瞳にはスローモーションのように映る。そのおかげで、攻撃をかわす最小限の動作を判断するための時間があった。
「先ほどの恥ずかしいセリフにはどんな意味があったのでしょうか?」
「僕も自分で言ってみて分かったよ。意味なんてなくて、やっぱりあいつに騙されただけなんだって」
「あいつ……とはどなたなのでしょう」
「それは灰色の世界にいた……えっと……思い出せない。気を失っている間、僕は確かに誰かと会っていたんだけど」
「そうですか。まるで夢のようですね」
「なるほど、確かに思い出せないこの感覚は夢にどこか似ている」
魔法少女は触手の猛攻を器用にかわしながら、少しずつ悪魔に近づいていく。懐に潜り込んだところで、杖の先端を悪魔の腹部に叩き込んだ。
一度、二度、三度。数を重ねるたびに力は蓄積されていき、魔法少女が指を鳴らすことで衝撃は一斉に流れ出す。それは悪魔を上空へと打ち上げるほどのものであった。
悪魔は空中で体勢を立て直すと、反撃とばかりに空洞になっている口から灰色の炎を広範囲に吐き出した。
魔法少女が杖を手前に突き出して魔力を流し込むと、空気が水晶玉を覗いたように屈折する。球体が泡みたいに弾ければ、そこから生じた突風が迫りくる炎を穿ち活路を切り開いた。
「この炎は風で吹き飛ばせるのですね。何を燃料にして燃えているのか気になります」
「考えるのは後だよ。奴が前方から来る!」
風が突き破ったのは目の前の炎のみで、大気を燃やす灰色の業火は今も左右の退路を塞いでいる。そうなれば選択肢は一つしかなかった。
魔法少女は空高くへ大きく跳躍する。だけど、僕たち地上の動物は鳥のように空を自由に飛べるわけではなのだ。これ以上の追撃に対処する手立てを僕たちは持ち合わせていなかった。
悪魔が目だけでニヤリと笑う。この状況を計算していたかのように、無数の触手を僕らの方へと伸ばしてきた。
「あたしが居ること、忘れるんじゃないわよ!」
横から飛んできた白く波打つ水の刃が悪魔の触手を切断まではいかないものの弾くことに成功する。
しかし、全部を絡めとるまでには至らず、打ち漏らした触手が魔法少女の足首を鞭打つのであった。
そこまで強いわけではない。それなのに触手に触れた箇所が途端に熱を持ち始める。内側から溶けてしまうのではないかと思うほどの苦痛が足首を襲う。
地面に着地した魔法少女は痛みをかばうように膝をつく。
「マイカさん! ありがとうございます、助かりました」
「せめて援護くらいは任せて。一緒に戦いたいけど、正直足手まといにしかならなそうだから」
魔法少女は攻撃を受けた足首を確認する。
「高く跳べても自由に動けないのでは隙にしかなりませんね。これは明日以降の課題です」
「それより大丈夫……なの? ううん、大丈夫なわけないよね」
「わたしの中にいるあなたもまた、同じ痛みを感じているのですよね。ダメージを半分こしてくれるから、まだ戦えます」
「戦えたとしても、また同じ手を使われたら今度こそ僕らの負けだよ」
「おそらく広範囲の炎を出すには準備が必要なんだと思います。そうでなければ、あなたが目を覚ますより前に私は負けていたはずです」
「タイムリミットがあるってことだね」
「そうではありません。連発できない理由にこそ、打開策があるのではないかということです」
「それで、その理由というのは?」
「まだハッキリしません。そうですね、あと一つピースが欲しいです」
そうか。彼女の行動はきっとその全てが相手の能力を、引いては勝つための情報を得るための布石になっていたんだ。もしかしたら、攻撃を受けたのだってそうなのかもしれない。
「流石にそれは違います。わたしだって痛いのは嫌ですから。ですが、得られる情報がないわけではありません」
しかし、あと一つのピースが中々埋められない。
悪魔の攻撃は灰色の炎だけではなく、背中から生えた無数の触手もまた今の状況では充分に脅威となる。魔法少女の瞳に映す世界がいくらスローモーションであったとしても、痛む足首をかばいながらではそれを避けるのが精一杯なのだ。
「くしゅん!」
「危ない」
不幸にも命の駆け引きをしている最中にくしゃみという生理現象が起こる。もちろん、悪魔が都合よく待ってくれるなんていうことはない。
先ほどのお返しとばかりに、腹部に触手を叩きつけられる。それと同時に、僕にもまたお腹に衝撃が走った。
足首に受けた時よりも確実に痛い。だけど、体を一度貫かれて感覚が麻痺しているのか、歯を食いしばれば耐えられないほどでもない。
「どういうことでしょう……。痛くも熱くもありませんでした」
魔法少女は強がっているわけでもなく、本当に今の攻撃でダメージを負ったようには見えなかった。だけど、その理由が全く分からない。感覚が麻痺しているとはいえ、僕には確かに今の攻撃が作用したのだから。
「よく分からないけど、こっちに都合がいいならそれでいいんじゃないかな」
「そうでしょうか。何だか嫌な予感がするのですが。それと、先ほどから鼻がかゆいのは……灰が空気中を漂っているからでしょうか」
「ああ、それでくしゃみが出ちゃったんだね」
「そ、それは聞かなかったことにして下さい」
くしゃみぐらい恥ずかしがる必要もないだろうと思うが、魔法少女は律儀に顔を赤く染めた。
燃える草木が灰となって、そこら中を漂っている。だけど、目を凝らせば微細な粉が空気中で散布しているのが、うっすらではあるが見てとれた。
この粉を深く吸い込むと、まるで悪魔の住み処に迷い込んだ感覚におちいる。それはきっと、あの悪魔の匂いが染みついているからなのだろう。
「くしゃみの原因かは分からないけど、灰だけじゃなくて凄く小さな粉みたいのが見える。きっと、この粉は奴のものだと思うんだ」
「粉ですか。わたしの視力では見えないので助かります。そうなると、その粉が発火の原因だと考えられますね。恐らく時間的に猶予がないので、この仮説が正しいと仮定して打開策を考えようと思います」
魔法少女は顎に手を当てながら空を見上げる。燃え広がる森が作る禍々しい色の綿のような雲がそこには広がっていた。
「これなら、いけるかもしれません。……と言いたいところですが、思ったよりもタイムリミットは短かったようですね」
魔法少女は悪魔が操る炎への対抗策を思いついたのだろう。だけど、それを実行するだけの猶予が残されていなかった。