たった一つの主人公04:魔法使い
今度こそ生への執着を諦めた僕は怖くなって目をつぶる。
「結局、この世界に主人公なんて居ないんだ……。だから、僕が主人公になれないのも仕方ないや……」
その時、何かの弾ける音とそれから真夏に吹く風のような熱を持った空気が押し寄せる。
僕は閉じた目を再び開いた。
土煙の中に大きな棒状の物を持った人影が映る。視界が晴れると、そこには魔法使いが立っていた。
「あなたは主人公になりたいのですか? それなら、なればいいのではありませんか」
僕は初め、どうしてウェディングドレスを着た花嫁がこんな森の中に居るのだろうと思った。
純白の長髪に真紅の瞳。透き通るような白い肌。そして、鈍器にも見える大きな杖を構えている。この少女もまた魔法使いなのだと察した。
「……だけど、僕じゃ魔法は使えない。特別なものを持ってないんだ。……だから、なりたくてもなれないよ」
「魔法使いじゃないと主人公になれないのですか? 昔読んだ小説で“誰もが自分という物語の主人公である”と言ってました」
「そんなのは嘘だ! 僕自身が僕の物語に納得できないんじゃないか! こんなのが主人公だなんて認められないんだよ!」
「そうですか」
再び動き出した悪魔の黒い腕に魔法使いは赤い小石のような物を投げつける。空気がわずかに歪んだ直後、爆発が悪魔の黒い腕を吹き飛ばした。
「一度だけでなく何度でも蘇るのですね。跡形もなく消す必要がありそうです」
魔法使いが杖の先端を地面に触れさせると、そこを中心に時計のような模様の魔法陣が広がった。
「生は死へ。そして有は無へ。輪廻の歯車は加速する。微々たる命の数々よ。今こそ浄化の時間です。さあ、土に還りなさい!」
魔法使いを囲う魔方陣と同じものが悪魔の周りにも現れる。だけど、それ以上の変化はない。唱えた魔法が悪魔にどんな影響を与えているのか一見しただけでは分からなかった。
「小説の主人公だって悩んだり立ち止まったりします。そういう時、主人公も自分という物語に納得してないんだと思います。あなたもきっと、今はそれと同じ状況なんじゃないですか」
そんなのは詭弁だ。それが最初に浮かんだ言葉だった。
だけど、僕は一度も納得のいく物語のエピローグでさえ始められていなかった。
物語の途中で諦めるのなら、少しはその物語に納得いくのかもしれない。でも何もしていない僕は彼女の言う状況に立てていないどころか、スタートラインさえ越えていないことを理解する。
「……僕でも……主人公になれるの?」
「可能かどうかではありません。何かを願ってしまった時点で、もうそれを叶えるしか道はないのです」
悪魔の本体である灰色の体が少し前よりも明らかに小さくなっている。体が地面に吸い込まれているのだ。そして、悪魔は成す術もなく地面の中に姿を消した。
やっぱり魔法使いこそが主人公なんだ。だけど、欲を言うならもう少し派手な倒し方が良かったな。
「さあ、もう大丈夫ですよ」と魔法使いが僕に手を差し伸べる。
「ありがとう……ございます。でも、自分で歩けるから平気。それよりも、あの人は大丈夫なのかな」
僕たちは魔法剣士の元へと向かった。
「大丈夫ですか?」と魔法使いが魔法剣士の肩を揺さぶる。
「……ごめん。気を失ってたのね」
「とりあえずは大丈夫そうですね。それならよかったです。本当に……」
魔法使いの瞳が一瞬だけ潤んだ気がした。
「あたしは大丈夫だから泣かないの。ただ、少しだけ休ませてちょうだい」
「な、泣きませんよ。ただ、あの反撃には気づいていましたが、出遅れてしまったばかりに……」
「いや、どう考えてもあたしの油断のせいでしょ」
今度こそ、本当に助かったんだと僕は安堵する。
何かを願ってしまった時点でもうそれを叶えるしか道はないと、魔法使いはそう言った。僕は主人公になりたいと思った。
「……そもそも、主人公ってなんだろう。死ぬ間際でふと思ったのがそれで。だけど、その定義が分からないよ」
「そうですね。正直に言えばわたしは主人公になりたいと思ったことがないので分かりません」
「だけど、君は僕を助けてくれた。僕は君を主人公だと思ったんだ。そこに答えがある気がするんだよ」
「あ、ありがとう……ございます……」
魔法使いは赤くなった顔を杖で隠す。肌が白いせいで、感情の変化はとても分かりやすかった。
「君はどうして僕を助けてくれたの? どうして灰の悪魔と戦うの?」
「“ミナの魔法はみんなの魔法”──わたしの大切だった人が残した言葉です」
「……みんなの魔法」
「はい、わたしには魔法があります。あなたが言うところの“特別”を持っています。ですが、この魔法はわたしのものであると同時に、わたしだけのものにしてはいけないと思っています」
「だから、君は魔法の力で灰の悪魔と……世界の脅威と戦うんだね。それが君の使命と言わんばかりに」
「使命……いいえ違います。そうしたいと願ってしまったからです」
「願ってしまったから、もうその道しかない……?」
「はい、願いや望みは大きければ大きいほど呪いのように付きまといます。やらなければ後悔する。やって失敗しても後悔する。それならもう、成功させるしか道はないんです」
魔法使いが言うように、なるほど願望というのは呪いのようだ。
僕にとってただ一つの納得できる結末は主人公になること。それ以外にないのだろう。
「まず僕のすべきこと……それは……」
僕は魔法使いが両手に持つ大きな杖を見詰めていた。でも、何がそんなに気になるのか自分でも分からなかった。
杖を見てると不思議にも腹が立つ。この苛立ちはなんだろう。誰に対する憤りなのだろうか。
「この杖がどうかしましたか? ああ、先端の装飾が少し大きいのが気になりましたか。これを振り回して武器にするためなんです」
「そ、そうなんだ。でも……そうじゃなくて僕は自分がまず何をするべきかわかった気がするんだ」
「あら、そうでしたか。それは喜ばしいことだと思います。わたしにも手伝えることはありますか?」
「あ、うん。えっと……無理にとは言わないんだ。もちろん、危険なのも承知してる。できたらそうしたいってだけで……。その、出会ったばかりの僕がどうしてって思うかもしれないけど……あの……」
別に愛の告白をするわけでもないのに何だか照れ臭い。断られたらどうしようという不安だってある。
「少し落ち着いて下さい。深呼吸です。わたしは逃げませんから、自分のペースで大丈夫ですよ」
その時、僕は枝葉をかき分けるような音を耳にした。
「……この音……それにこの匂いはなんだ……?」
僕は魔法使いよりも鼻が利くし耳もいい。いわゆる野生の勘というものを持っている。だから、いち早く気づくことができた。まだ戦いは終わってなかったんだ。
それはまばたき一つにも満たない一瞬の出来事だった。魔法使いに向けられる殺意。だけど、何かが来ることに気づいた僕はその殺意が届くより早く魔法使いに体当たりする。
魔法使いの真紅の瞳が大きく見開く。僕の方に手を伸ばしてくれるけど、あと数センチという距離が僕と彼女の手を阻んだ。
そして、灰色の殺意が僕の小さな体を貫いた。
体の内側が燃えるように熱い。だけど、この熱は体を貫かれた痛みだけのものではなかった。
先ほど植物が燃える匂いを嗅いだのだ。それを判断材料にすれば、例えば炎を操ることのできる、先ほどのとはまた別の悪魔が現れたと考えられる。
体を内側から焼く激痛が僕の意識を一瞬で奪っていった。最後に浮かんだ言葉は“優しさに満ち溢れた素晴らしきこの世界がいつまでも続きますように”という誰かの願いだった。