たった一つの姉妹17:天才の宝物
あの悲劇は私とスールと母の三人でピクニックも兼ねて森へ行った日に起きた。
何度も通っている見慣れた景色、普段と何も変わらないはずだった。これからも、この普通の毎日が続いていくと思っていた。
だけど、世界は私たちが思うよりもっとずっと意地悪だった。
森から帰る途中に私たちは遭遇してしまったのだ。
サソリのような尻尾と黒光りする鋼鉄の鎧をまとうそれは、漠然とした知識しかない私でも一目見て灰の悪魔であることを確信する。
「スーちゃん、スーちゃん! 逃げるわよ」
慄くスールに呼びかける母はその声が届いていないことを察してスールを抱き上げる。
「エルマーナは先に行きなさい」
「う、うん。分かった」
スールを抱える母よりも私の方が逃げ足は速かった。だけど、一人で逃げるのは心細かったし、何より母やスールが心配なのもあって、たびたび後ろを振り返りながら目の届く距離を離れることはしなかった。
母のその更に後方には未だ悪魔の姿がちらついている。
最初こそ悪魔との距離を引き離せていたものの、その差は時間の経過と共に縮まっていった。
そして、最悪の事態に陥る。ここからの出来事はほんの一瞬だった。
「やめてぇぇぇ」
悪魔から伸びる先の尖った尻尾が母の背中に突き立てられようとする瞬間を目の当たりにする。
倒れる母の元へ私は慌てて駆け寄った。
「お母さん! お母さん、大丈夫?」
「大丈夫よ。思ったよりも傷は浅いみたい。だけど、スーちゃんをお願いできる?」
「それってお母さんを置いていくってこと! そんなのできないよ」
私はわがままを言わずにすぐさまスールの手を引いて逃げるべきだったのだろう。
そうすれば、もしかしたらスールだけじゃなくて私も助かったのかもしれない。スールの抱える悲しみを今よりは小さくできたのかもしれない。
悪魔の尻尾が目前に迫り来るのに気付いた私はスールを庇うように抱きしめる。
太い注射針に刺されたような、見た目ほど痛みは感じなかった。だけど、体が麻痺しているのか思うように動かせない。
死を覚悟し、せめてスールだけは守ろうと誓ったその瞬間、悪魔よりも遥かに大きい氷の塊が目の前の脅威を吹き飛ばした。
あれが俗に言う十二の魔法使いの内の一人だったのだろう。
氷の炎の両極端な魔法が悪魔の装甲を脆くして、半ば一方的に悪魔を打ち倒してしまう。
それを見届けた時点で気を失った私が次に意識を取り戻したのは自室のベッドの上だった。
おそらくは助けてくれた魔法使いが運んでくれたか、救援を呼んでくれたかのどちらかだろう。
「スーちゃん、ごめんね。心配かけて」
「ママが……ママが死んじゃうの……」
目を覚ましたばかりの私はそこで初めて母の容体を知ることとなる。
母は原因不明の病に冒されていた。
その病の元となる毒か何かは灰の悪魔から貰ったものだとは思う。
しかし、それだけ分かったところで何の意味もない。医者も匙を投げるしかなかった。
絶望して塞ぎ込む私に声をかけたのは意外にもスールの方だった。
「ねえ、お姉ちゃん。スー、帽子を作りたいの。ママに似合うぼうじをずぐっで……」
最後まで言えずに泣き出すスールを抱きしめる。
「こんなんじゃお姉ちゃん失格だったよね。ごめんね。お姉ちゃんにも帽子作り手伝わせてくれる?」
「……うん」
母の病気が治りますようにという願いを込めて作ったその帽子は初めて私たちだけの力で一から作った作品だった。
「こういう感じでどうかしら?」
「うん、いいと思うけど……ママのことを考えるとこうした方がいいと思うの」
私は母に贈る帽子を一つの作品としてどうデザインするのが望ましいかしか考えていなかった。
だけど、スールは違っていた。
スールはこの帽子を母がかぶるということを考えていた。
母の頭の形を考慮したり、母の見た目に合うかを意識したり、母の好きなものを取り入れたりと。
逆に帽子を形作っていく作業は私の方が得意だった。
とは言っても、私がスールと同じ歳の頃がどうだったかを考えれば、技術的な面は歳の差でしかなかったと思う。
そして、完成した母のための帽子は技術的にはまだまだ拙いところもあるけど、母に似合うという点では世界で一番を自負する出来となった。
「すごいじゃない。スール、エルマーナ、ありがとう。宝物をありがとう」
帽子作りの天才だと称される母は私たちが作った帽子をすごい喜んでくれた。天才だと褒めてくれた。
それでも、奇跡は起きなかった。母はこの数日後に息を引き取った。
さらに不幸は続き、母とバトンタッチするように私もまた原因不明の病に伏してしまう。
思い返せば私もまた悪魔の尻尾に刺されていたのだから、今まで症状が出なかったことの方が奇跡だったのかもしれない。
…………………………
蓋をした過去の記憶を私たちは辿ってきた。
「本当のお姉ちゃんは……もういないの」
「ええ、そうね」
「じゃあ……お姉ちゃんは誰なの」
「わたしも分からないわね。本物のエルマーナの人格なのか、それともスーちゃんが生み出したものなのか」
私は今見た記憶がエルマーナ視点であることに気づくけど、本当のところは分からないし言っても意味ないと思ったから口をつぐんだ。
「忘れてたってことは思い出したくなかったってことなのに、どうして思い出させたの」
「スーちゃんが能力ばかりを気にして、本当に大切なことを忘れてしまっているからよ」
「本当に大切なこと……」
「帽子の所有者は誰か。所有者はどんな人か。それを意識したデザイン。つまりはそうね──相手を想う気持ちよ」
「……」
「それを気づかせてくれたのはスーちゃんなんだから。もっと自信持っていいのよ」
「……うん」
「それじゃあ、魔法という名の奇跡はもうお終い。この先へ進むのよ。その先には現実が待ってるから」
真っ白に光るトンネルの先へスールの背中をそっと押す。こちらをチラチラと振り返りながら進むスールの背中を私はいつまでも見守っていた。