たった一つの姉妹14:転移魔法
木々の揺れる音、動物の動く音。いつもならば絶えず聞こえる心地の良いわずらわしさを今は少しも感じることができなかった。
森が灰の悪魔の存在に怯えて息を潜めているみたいだった。
悪魔は世界の脅威だと言われるけど、“人類”ではなく“世界”という言葉が使われている理由を理解した気がする。
私はマイカさんや悪魔がすっかり見えなくなるまで逃げたところで立ち止まる。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を忘れていたからか、走ったわけでもないのに息苦しい。
付き添ってくれているクーニャを抱き上げて、木に寄りかかって腰を下ろす。
「えーと、初めまして、よね。わたしはスールの姉のエルマーナといいます」
「ニャウン」
「なんて……どう見たってわたしはスーちゃんなのでおかしいわよね」
「……ニャ」
魔法使いが連れている黒猫なので、もしかしてこの子は人の言葉を理解できるのでしょうか。
「あの……わたしの話を聞いてくれる?」
私は不安を紛らわすように話し始める。本音では言葉を理解しているかどうかは重要ではなかった。
「実はわたしも魔法……使えるのよ」
その言葉に反応したのか、クーニャが私の顔をジッと見つめる。
「わたしとスールの二つの人格。それを入れ替える魔法なのよ。人はそれを二重人格──そう呼ぶのだけど」
「でもスーちゃんにエルマーナという姉がいたのは本当よ。わたしの人格が本物のエルマーナなのか、スーちゃんが生んだ虚像なのかは分からないけど」
だけど、スールは何も覚えていない。初めから私たち姉妹が一つの体を共有していたとさえ思っている。そんなわけあるはずがないのに。
「本当はわたしたち、灰の悪魔もそれから魔法使いも見たのは初めてじゃないのよ」
数年前にも私たち家族はこの森で灰の悪魔に襲われた。その時も魔法使いが助けてくれてスールは無事だったけど、二つの人格が共存する歪な関係はその事故がキッカケだった。
一人語りをして気を紛らわしていると、クーニャの耳が反射的に動く。
「ニャ、ニャニャー」
何かを警告するように鳴くのを聞いて私の体に緊張が走る。そして、地面を一定のリズムで叩く音を耳にした。
「大きい足音……これって悪魔のものよね」
音の出どころは私たちが逃げてきた方向とは違った。
マイカさんが戦っている悪魔が回り込んできたとも考えにくい。となれば、もう一体の悪魔が現れたのだろうか。
「わたしたち、悪魔に縁があるのかな……」
この街の周辺で悪魔に襲われた事例なんて、数年前の私たち以外におそらくない。
木々の合間から灰の悪魔が姿を現した。先ほどの悪魔と双子のようによく似ていて、けれど同じではないと断言できる決定的な違いがあった。
悪魔は右腕を掲げて私たちに殺意を向ける。筒状の手が光りを集めた次の瞬間、光線が真っ直ぐに空間を穿つ。
「きゃぁぁぁぁぁ」
私は反射的にショルダーバッグを前に突き出して身を守ろうとするけど、そんなもので防げるわけがなかった。
「何が……起きてるの……?」
バッグは瞬く間に燃え尽きてしまったけど、その中に入っていた紫色の石が悪魔の放つ光線を受け止めていた。
「ニャウニャ!」
クーニャがその石に向かって何かを訴えるように叫んでいる。
何を言っているかは理解できないけど、私たちを守ってくれる綺麗な石にそっと手を伸ばした。
人差し指の先端がほんの少し触れたその瞬間、複雑な模様の魔方陣が宙に描かれてくるくると回り始める。
目の前に現れた存在を私は神様か天使の類いだと思ってしまった。
「綺麗……」
この一瞬ばかりは悪魔に襲われている事実を忘れて、ただただ素直な感想を思わず口にしてしまう。
「これは……転移魔法ですよね。えっと、あなたは……」
綺麗な石の中から現れた大きな杖を両手に持つ白髪の女性が私を見下ろす。
その女性の背後に悪魔がいることを伝えたいのに言葉が発せなくて、代わりに私は悪魔の方を指でさし示した。
「後ろに……悪魔! ですか。それにクーニャさんも! えーと、つまりあなたはマイカさんのお知り合いということですね」
「は、はい……」
その女性がマイカさんと一緒に旅をしている魔法使いであることを理解する。たしかミナさんという名前だったと記憶している。
「腕の形からして遠距離の攻撃ですよね。後ろの彼女を守るには……やはり溝ですかね」
悪魔と対峙したままミナさんは魔法の詠唱を始める。すると、静かに地面が揺れて、腰を抜かす私がすっかり隠れる深さの大きな溝が最終的にできあがった。
「その中でじっとしていてください。顔は絶対に出さないでくださいね」
「分かりました」
「クーニャさん、力をお借りしていいでしょうか」
「ニャウン!」
今のはきっと任せてと言ったように思えた。そして、クーニャの姿がおぼろげになっていって、ミナさんの持つ杖と同化する。気づけば、ミナさんは先ほどよりも華々しい姿に変わっていた。
悪魔の放つ光線をどこか余裕すら感じるほど華麗にかわしながら近づいていく。
その途中で拾った小枝を悪魔の右腕の中に投げ入れて魔法を唱えれば、筒状の手からデタラメな形の木が生えるのだった。
「もうあなたの攻撃手段は封じました」
悪魔の悲痛な叫び声に何か嫌な感情を覚えて思わず耳を塞いでしまう。
悪魔は右腕を引きずりながら、生き物としての尊厳を捨てたような姿で逃げていく。
しかし、その向かう先は初めに現れた悪魔から逃げてきた方角だった。
「えっと、ミナさん! 向こうにはマイカさんがいます。もしかしたら、まだ別の悪魔と戦ってるかもしれません!」
「マイカさんがいなかったのはそういうことだったのですね。分かりました。ありがとうございます」
ミナさんが逃げた悪魔を追うとなれば、クーニャもいないためこの場にいるのは私一人だけとなってしまう。
二体も悪魔が現れたのだから三体目がいたとしてもおかしくはない。そう考えると、誰の目も届かない所にいるのが途端に怖くなってしまう。
私は魔法で作られた溝から這い上がって、十分な距離を保ったままミナさんを追うことにした。