第一話
―――それじゃあ先輩、また会いましょう。
わたがしをちぎって投げたかのような雪が降っている夜だった。夜の公園を照らすたった一本の街灯の下で彼女はくすりと笑った。
遠くで車が道路を走る音がかすかに聞こえる。公園を囲む民家の窓からあたたかな灯りがもれている。それらの音、光の全てが彼女を幻想的に仕上げていた。
俺が彼女と過ごしたのは、その日が最後だ。
◆
その日、透真は午前10時に目を覚ました。うららかな春の陽気を感じる平日のことだった。当然、高校はある。しかし、遅刻ではない。今日は新学期初日。学校は午後からだ。今ごろ新入生が入学式をやっているころだろう。
いまだにけだるい体を無理やりおこし、一階に降りる。鏡にうつる眠たい目をした自分とにらめっこしながら顔を洗い、髪をととのえる。あくびをしながら洗面所をでて、がらんとしたリビングにはいった。ソファーに座りテレビをつけたが、ニュースはやっておらず、地方のレストランを紹介するローカル番組が映し出された。透真はなんとなくその映像を聞き流す。透真の家のリビングは広かった。友達10人いれても余裕があり、昔は友達をたくさん家によんだものだ。
平日の午前10時。多くの社会人はすでに出社している時刻だろう。透真の親も例外ではなかった。だが、今朝の透真の家のキッチンには料理の跡も、洗い物をした跡もなく、ダイニングには食事をした跡すらなかった。正確には、今朝も、だ。
透真―――水野透真は一人暮らしだ。母親はもとから体が弱く、透真が産まれたときに死んでしまった。透真をここまで育てたのはまぎれもなく透真の父親ひとりの力によるものだ。彼の苦労は計り知れない。最愛の妻が死んでしまったのにそれを悲しんでいる暇はなく、生まれて間もない赤ん坊を罪悪感に苛まれながら保育園の0歳コースに預け、仕事にでる。たっぷり10時間労働の後、へとへとになりながらも息子を回収し、帰宅。子育てとの両立は大変だっただろう。それでも、彼は透真を育てあげた。どんなに苦しくても、生前の妻とそう約束したから、と。
平日の午前10時。多くの社会人はすでに出社している時刻だろう。透真の親も例外ではなかった。なかったのだ。
透真の父親は去年、交通事故で死んだ。透真の高校の合格発表と同じ3月14日のことだった。その日、透真は受験校で張り出された紙により合格を知らされていた。
(昨日、親父は昼休みに抜け出して高校にとんできてやる、って言ってくれた。はやくこないかな。はやく合格を伝えてあげたい)
透真は父が来るのをわくわくしながら待っていた。しかし、透真の父はなかなか現れなかった。校門から人が入るたびに様子をうかがい、父ではないとわかり肩を落とす、というのを繰り返していた。
あと一時間だけ、あと三十分だけ、とそんなことをしているうちに時計の短針はぐるぐるとまわっていった。
午後3時になった。まわりには合格不合格に飛び上がって喜んだり泣き崩れたりしていた中学生はもうほとんどいなくなっていた。ここまで待っても来ないならおそらく仕事先でなんらかのトラブルが発生したんだろう。透真はそう思い、帰る支度をした。鞄をもったその瞬間、一台の車が校門からはいってきた。黒い、見慣れない車。その車は駐車場に雑に止まり、中からスーツ姿の男が姿を表した。男は慌ただしく周りを見回し、透真を見つけると走り近づき息を切らしながら口をひらいた。
『すみません』
『水野玄一さんの息子の、水野透真くんというのは、君ですか』
◆
透真は嫌なものを思い出したようにテレビを消した。広いリビングにはかすかな寂寥感が漂っている。昔は楽しかったこの空間も、今ではもっと狭ければよかったのにと思う。
透真はソファーから立ち上がって朝食の準備をしようとキッチンの方へ歩いていく。と、そのとき、インターホンがなった。透真はワンテンポ遅れてその音に反応し、玄関のドアをあけにいく。ドアを開けると、そこには美少年が立っていた。少し緑がかった髪に、柔和な印象を持たせる顔。その少年はまだ眠たそうな透真の目と視線が合うと、やわらかい笑みを浮かべた。
「おはよ」
「……おう」
そんなやり取りをして透真はその少年を中に招き入れる。
少年の名前は草薙柊。透真と同じく16歳で、同じ学校に通う高校生。透真と柊は、0歳のときに出会った。お互いまだ赤ん坊で物心なんかついていなかった。透真の父親はこの無駄に広い家に引っ越してきたときに透真を抱いてお隣へ挨拶にいった。すると、その家にも同じ年に産まれた子供がいるという。その子供―――柊と透真が幼い頃からよく遊ぶようになったのは、自然な流れと言えるだろう。透真と柊はまさに双子のような関係だった。
「朝ごはん、食べた?」
「いや、今から」
「そっか。じゃあ僕も一緒に食べるよ」
透真が父の死から立ち直れたのは柊の存在が大きい。合格発表の日、黒スーツの男が透真の父の死を知らせにきたとき、柊は透真と同じ場所にいた。
『君の父さんが交通事故にあってしまったんです。今すぐきてください』
『……ぇ?』
透真の返答をまたずに男は透真の手をひっぱって車へ向かってく。柊は数秒、かたまった。呆然と引っ張られていく透真を眺めていた。そして、ハッとした。一秒にも満たないわずかな時間で最悪の展開を想像する。
気づいたときには鞄を置き去りにしたまま走り、黒スーツの男を追いかけていた。
『すみません。僕も、連れて行ってください。今は透真を、ひとりにしたくない』
それから、柊は透真をなるべくひとりにしないようにした。登校を一緒にしたり、透真の家に頻繁にお泊まりしたりした。なるべく透真の家を賑やかにしようと、この広い家から寂しさを追い出そうと努力した。透真の家の人口密度を高くするため、今日もまた、草薙柊は朝食を食べにきた。
「キッチン借りるね」
柊はそう言ってキッチンへ移動する。
「いやまて、今日は俺がつくる」
「いやいいよ。透真、起きたばっかでしょ? ねぼけたまま包丁使うのも危ないからそこに座っててよ」
「む……」
柊に言いくるめられた透真はおとなしくソファーに座り、トントンとリズミカルに食材を切っていく柊を見つめる。
……うーむ。イケメンだ。うちにイケメンがいる。
透真の中での柊の評価は、完璧超人だ。勉強だってできるし料理も透真より上手い。部活でやっている弓道は全国レベルだ。透真は以前、柊が弓を射ている姿を目にしたことがある。
かっこよかった。めっちゃくちゃかっこよかった。
それが、透真が抱いた感想だ。凛とした姿勢で静かに、でも力強く弓をひくその姿は、昔からよく遊んでいた幼なじみとは思えなかった。別人のようだった。
「なあ柊」
「んー? なにー?」
「お前、なんかこう……いい感じの女子とかいないの?」
トン、と、包丁の音がやむ。柊はしばらく透真を見つめ、それからふわりと笑った。
「僕はね、透真。ほんとうに恋愛とか、興味がないんだよ。強がりとかじゃなくて、ほんとに」
透真の曖昧な質問の意図を十分に察した回答。さすが産まれてからほとんど一緒に過ごしてきただけある。
「そっか」
透真は天井を仰いだ。興味がない。透真はその言葉を反芻する。
一体何人の女子が柊に惚れ込んだのだろうか。神様も残酷なことをする。惚れ込ませた張本人が、恋愛に興味がないとは。
「透真は?」
「ん?」
「いつだか言ってたろ、公園でよく話してたっていう、いっこ下の女の子」
「あぁ……」
透真は、一人の少女を思い浮かべる。自分と多くを語り合った少女。生意気なやつだったが当時の透真にとって彼女とすごす時間はいやなことを忘れられ、気に入っていた。
「……中3のときのクリスマスを最後に会ってない」
「そうなんだ」
「……………………」
「でも」
柊は透真にじろりと視線をむけた。
「そのほうがいいよ、透真。その子が本気になったら、かわいそう」
「……ああ、そうだな」
水野透真は少々特殊な高校生だ。高校生なのに親はおらず、だだっ広い家に一人暮らし。親の資産はそこそこ残っているが無限ではない。無駄使いしないできりつめた生活を送っていた。料理洗濯掃除ゴミ捨て全て自分でこなしていて、16歳という若さでかなり自立していた。他の高校生よりも二倍も三倍も濃い16年間を生きてきたからだろう。
―――そして、現代高校生にしては珍しく、婚約者が存在していた。