約束
一目惚れなんてする奴は馬鹿だと思っていた。
よく知らない他人のことを見てくれだけで好きになるなんてありえないだろと。
そう思っていたんだけど、どうやら僕もその馬鹿の一人だったらしい。
それはある日の夕暮れ時のことだった。その日は学校の帰りに珍しく本屋に寄り道をして帰るのが遅くなってしまった。
走って帰る姿を誰かに見られるのが嫌だった僕は人気のない川沿いの道を通った。
そして出会ってしまったんだ。運命の人に。
彼女は誰もいない川原で一人、ギターを弾いていた。その姿は思わず見惚れてしまうほどに綺麗で、まるでどこかの画家が描いた一枚の絵画のようだった。
僕は声をかけずにはいられなかった。心臓がバクバクと音をたて、声も震えていたがなんとかその一言を絞り出す。
「こんにちは、ギター上手ですね」
彼女は僕に声をかけられて一瞬驚いた顔をしたかと思うと、すぐに元の寂しげな表情に戻った。
「ありがとう、そんなこと初めて言われたからとても嬉しいわ」
彼女が僕に微笑みかけてくれた、それだけで僕は有頂天になってしまった。
「あの、よければ僕にギター教えてくれませんか」
そのままの勢いで僕は彼女に教えを乞うた。なんとかして今後も彼女に話しかける口実が欲しかったからだ。それを聞いた彼女は再び驚きの表情を浮かべた。
「どうして、ギターを教えて欲しいの?」
「あなたのことが好きだから」
「それは……一目惚れということ?」
勢いでとんでもないことを言ってしまった。
「すみません! 今のは違くてっ、その」
「ふふっ、そんなに慌てることないのに」
彼女は控えめに笑った後、耐えきれなくなったように声を上げて笑い出した。僕の慌てふためく姿がそんなに面白かったのだろうか。涙を浮かべながら笑う姿は、最初に感じた彼女の印象とは少し違った。それでもやっぱり綺麗だった。
「はー、久しぶりにこんなに笑った」
「そんなにおかしかったですか」
「うん、最高だった」
「できれば忘れていただけると嬉しいです」
「それは無理そうかな」
彼女はそう言って、また笑った。笑われるのは恥ずかしかったけど、不思議と悪い気はしなかった。彼女の笑顔が見られたからだ。
「あの、それでさっきの返事は」
「いいよ、ギター教えてあげる」
「ありがとうございます!」
「でも今日はもう遅いから明日からね」
ふたたび有頂天になりかけた僕は彼女の一言で我に帰る。
「本当だ、もうこんな時間」
時刻は六時を過ぎようとしていた。
「じゃあ、また明日ね」
「はい、また明日」
明日が楽しみなんて思ったのは生まれて初めてだった。
翌日。僕は学校が終わると同時に川原へと走った。彼女は昨日と全く同じようにそこにいた。
「こんにちは、今日は早いんだね」
「あなたに会いたくて、急いできました」
僕が肩を上下させながらそう言うと、彼女はまた笑ってくれた。そして約束どおり、ギターを教えてくれた。
「まずは、いくつかコードを覚えて簡単な曲を弾いてみよう」
「まずは、で片付けられるほど簡単そうには思えないんですが」
「大丈夫、やればできるよ。君は得意そうな見た目してるし」
「そんなこと初めて言われました。適当に言ってません?」
「ばれた?」
彼女がまた笑った。やばい。今とても幸せだ。
今までの人生がいかに退屈だったかが思い知らされる。もし、昨日彼女と出会えていなければ、今も、これからも僕の人生は灰色に染まっていたんだろう。
この時間を絶対に手放したくないと思った。だから僕は今日も彼女に愛を囁いた。
「あなたのことが好きです」
彼女は僕の告白に少し驚いた様子だった。
「今日は、昨日と違って慌てないんだね」
「家で練習してきましたから」
「ひょっとして毎日告白してくるつもり?」
「あなたがオーケーしてくれるまで何度でも言います」
「それはちょっと重いかな」
「えっ、すみません。迷惑ですか」
「それは、えっと」
どう答えようか悩んでいるようだ。僕は彼女に迷惑はかけたくない。でも、諦める気もさらさらなかった。
「だったら、毎日はやめます。その代わりに」
「その代わりに、何?」
彼女が深刻そうな顔で顔でじっとこちらを見ている。その表情には不思議な威圧感があって僕は気圧されそうになる。それでも絶対に負けるわけにはいかなかった。
「いつも弾いているあの曲を僕に教えてください」
「あの曲を?」
「はい。僕があの曲を完璧に弾けるようになった時に、改めてあなたに告白します。そのときは、ちゃんとした返事を聞かせてください」
「わかった、私頑張ってみる」
「それはどちらかというと僕のセリフのような」
「時間はたっぷりあるしね、その時までに心の準備はしておくよ」
「すぐに、弾けるようになってみせますから」
その日、僕は帰りに楽器屋で自分用のギターを買った。これで家でも練習ができる。
僕が川原に通うようになってから一ヶ月がたった。一ヶ月も経つと僕の日常もパターン化していた。
学校にいる間は彼女のことばかり考えて過ごし、放課後になると急いで川原へと向かう。
川原に着くと彼女と楽しく雑談を交えながらギターの練習をする。そして、家に帰ってからもギターの練習をする。これが僕の一日だ。
この一ヶ月で僕の彼女に対する恋心は最初の頃とは比べ物にならないほど大きく膨れ上がっていた。
彼女は僕のことをどう思っているのだろう。一ヶ月も一緒にいるのだから、少しぐらいは男として意識してくれているだろうか。
わからない。僕は彼女のことを何も知らない。彼女のことを詳しく知りたいと思って色々と質問をしては見るのだが、彼女は肝心な部分をいつもはぐらかして答えるのだ。
「そういえば、いつも弾いている曲ってなんて曲名なんですか」
「ごめんなさい、それは私も知らないの」
「あなたはなんでいつもここにいるんですか」
「ある人との約束を果たすためかな」
「約束?」
「そう。もっとギターを上手くなるっていう約束」
「すでに上手だと思います」
「ありがとう。でも、あの人はこの程度じゃ認めてくれなかった」
「その人はそんなに上手な人なんですか」
「もうしばらく聴いてないから忘れちゃったな」
それは多分嘘だ。彼女はいつも僕には聞こえない音を聞いている。遠い日の記憶を、音を思い返しているのだ。
彼女はいつも自分自身の演奏に納得がいってない様子だった。おそらく記憶の中の人が奏でるギターと同じ音を出すために、毎日練習を重ねているんだ。
この話を聞いていっそう練習を頑張ろうと思った。
そして、さらに一ヶ月が過ぎたころ。僕は彼女がいつも弾いている曲をミスなしで弾けるようになっていた。
もういいだろうか。約束は完璧に弾けるようになったらだったはずだ。これ以上のクオリティを求めると途方もない時間がかかってしまう気がする。
それは避けたい。もうすぐ受験の時期で忙しくなるから練習時間は取れなくなってしまうのだ。
その日僕は彼女に三度目の告白をしようと決めた。
学校から川原へと向かう道中からすでに心臓がバクバクと音を立て始めていた。川原に着いた時にはもう彼女にもこの音が聞こえているんじゃないかと気が気じゃ無かった。
「こんにちは、今日もいい天気ですね」
震えた声で言った。それだけで彼女は何かを悟ったようだった。
「こんにちは、なんだか出会った時を思い出すね」
笑う彼女を見ると少しだけ緊張が和らぐ。ああ、やっぱり僕は彼女のことが好きだ。
「あの、僕のギターを聞いてくれますか」
「いいよ、弾いてみて」
自分の左胸を強めに叩いた。静まれ、心臓。今日は、少しのノイズも混ぜるわけにはいかないんだ。
当然、ミスも許されない。落ち着け、あんなに練習したんだから大丈夫だ。
きっと全部うまくいく。
「じゃあ、始めます」
「うん、お願い」
彼女は真剣な眼差しで僕を見ていた。僕は期待に応えなければならない。
深呼吸をして、僕はこの二ヶ月嫌というほど練習したあの曲を奏で始めた。
演奏している間、まるで走馬灯のようにこの二ヶ月が思い起こされていた。
彼女との出会い、あの時は勇気を出して話しかけて本当に良かった。
二度目の告白、失敗に終わったが諦めずに今日の約束を取り付けた。
それからは、ひたすら練習の日々。自分でもよく頑張ったと思う。
ギターに全く興味がなかった僕がまさかこんなにも熱中することになるとは思いもしなかった。それもこれも全ては彼女のおかげだ。
曲を弾き終えた僕は興奮と緊張でおかしくなりそうだった。だから叫んだ。そうしないと倒れてしまいそうだったから。
「僕はあなたのことが好きだー!」
僕の胸は達成感に満ち溢れていた。当然だ。このために頑張ってきたんだから。彼女の次の一言を聞くために今日まで必死に……。
「うるさい……。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!」
耳をつんざくような大声で彼女が叫んだ。
「信じてたのに! きっと君は私を救ってくれるって、話が違うじゃない!」
何が起こったのかわからなかった。なんで彼女は泣いているんだ。
「もう限界……。これ以上は頑張れない」
彼女の瞳は深い絶望の色に染まっていた。もう僕の姿も映っていないかもしれない。
「ごめんね、君の想いには応えられない」
彼女はそう言ってその場を立ち去ろうとする。まだ混乱していた頭に鞭を打って彼女を引き止める。
「僕の今日の演奏はどうでしたか」
「全然ダメ。あれでよく完璧なんてぬかせるわね」
いつもの彼女からは想像もつかないほど冷たい声だった。
「僕、もっと練習します! 今度こそ完璧に弾けるようになって約束を果たしますからその時まで……」
待っていてくれますか、と言い終える前に彼女は無慈悲に告げた。
「君の音じゃ、私の中の呪いは消せない」
そういって、彼女は走り去っていった。
翌日、彼女は川原に来なかった。
何がいけなかったのだろう。僕の演奏がそこまで酷かったんだろうか。
確かに彼女の演奏と比べたら僕の演奏は駄目駄目だと思うけど、それで彼女は怒ったんだろうか。
思えば僕は一度たりとも彼女に演奏を褒められたことがなかった。自分よりも下手くそな奴が完璧を気取っていたことに腹が立ったとか。
とにかく今はできることをするしかない。もっと練習してもう一度彼女に僕の演奏を聞いてもらうんだ。絶対に諦めないぞ。
しかし、次の日もまた次の日も彼女は現れなかった。
僕は彼女を探し回った。このまま二度と彼女に会えないんじゃないかと思うと胸が張り裂けそうだった。学校中の人にも聞いて回ったが、めぼしい情報は得られなかった。
僕は川原以外で彼女が現れる場所を知らない。打つ手なしだった。
色々なことがあり過ぎて受験勉強が手につかなかった僕は受けた大学を落ちた。正直、どうでも良かった。彼女に会えない時点で僕の人生は終わったも同然だ。
それから彼女とは一度も会えないまま一年の月日が経った。僕は今、バイトをして川原でギターを弾くだけの日々を送っている。
いまだに僕は彼女のことが忘れられない。あの人の弾くギターの音が頭から離れないのだ。
僕のギターの腕は一年前と比べたら遥かに上達した。それでも記憶の中のあの人には遠く及ばない。
ある日いつもどおりに川原でギターを弾いていると後ろから声をかけられた。
「こんにちは!」
少しだけ期待して振り返った。もしかしたらあの人が来てくれたのではないかと。そこには学校帰りの女子高生が立っていた。どうやら今の挨拶は彼女が僕に向けてしたらしい。
「こんにちは」
少し戸惑いながら僕も挨拶を返した。この道を通る人はほとんどいないので少し驚いてしまった。
「あのっ! ギター、お上手ですね」
予想外の言葉だった。僕のギターが上手?
「ありがとう、そんなこと初めて言われた」
「わっ私にギター教えてくれませんか!」
それはいつかの僕と同じ恋に落ちた顔だった。だから次の質問への答えも聞く前からわかった。
「なんで、ギターを教えて欲しいの?」
「あなたに一目惚れしたからです! 付き合ってください!」
彼女は食い気味にそう答える。あの時の僕もこんな感じだったんだろうか。
「あっすみません! いきなりこんなこと言われても困っちゃいますよね」
ふと我に返ったように彼女は言った。彼女も僕と同じで不器用なようだった。僕の目の前であたふたしている彼女を見ていると不思議と笑みが溢れる。
「そんなにおかしかったですか」
「ああ、なんだか久しぶりに笑った気がする」
実際、あの人と会えなくなってからは笑うことなんてなかった。
「いいよ、ギター教えてあげる」
「本当ですか!」
「ああ、本当だ」
「ありがとうございます!」
「ただし、今日はもう遅いから明日からな」
「はい、明日からよろしくお願いします!」
彼女は嬉しそうに走り去っていった。その姿が何だかあの人と重なってしんみりした気持ちになった。
翌日、約束どおりに彼女は川原へとやってきた。僕はいつかあの人が僕にしてくれたように彼女にギターを教えた。
合間に軽い雑談を交えながら、彼女にギターを教える時間は意外にも楽しく、まるで一年前に戻ったようだった。不意に彼女が呟く。
「やっぱ、かっこいいなぁ」
「それは僕のことを言ってる?」
「えっ、聞こえてましたか」
「うん、ばっちりと」
彼女は少し照れた後、真剣な顔で言う。
「あの、昨日も言ったと思うんですけど一目惚れなんです。どうしようもなく好きになっちゃったんです。私と付き合ってくれませんか」
彼女はとんでもなく早口でまくしたてる。ちゃんと答えた方がいいんだろうなとは思う。それでも頭の中にこびりついたあの人の音が邪魔をしていた。
「悪いんだけど、僕は……」
君の期待に応えることはできない、と続ける前に彼女に遮られた。
「何をすれば付き合ってくれますか? 私にできることだったら何でもします」
「それなら…………この音を忘れさせてくれ、君の音で」
苦しい、こうしている間にも音は鳴り続けている。
「それはどういう意味ですか?」
「僕の心を塗り替えるような素晴らしい演奏をできるようになってくれ」
彼女は困惑している。
「よくわからないけどわかりました。要はギターをもっと上手くなれば付き合ってくれるんですね」
「私、頑張りますから。それまで待っててくださいね」
彼女が帰った後も僕は一人でギターを弾いていた。
クソッ、全然駄目だ。この一年間、欠かさず練習をしているにもかかわらず記憶に残るあの人の音には届かない。もうこの音を忘れるには、彼女に期待するしかないと思うと、情けなくて涙が出てくる。
今になって気づいた。多分あの人もこんな思いをしていたんだ。大切な人の音が頭から離れなくて、絶望していた。そんな時に僕が現れて、完璧な演奏をするなんて言い出したのだ。
彼女には僕がまるで救世主のように映ったんではないだろうか。僕はなんてひどいことをしてしまったんだ。これが彼女の言っていた呪いか。
次は僕の番だということだ。
それからあっという間に二ヶ月が経った。そろそろ彼女は僕に演奏を聞かせにくるだろう。
絶対に無理だ。たった二ヶ月であの曲を完璧に弾くことなんてできるわけがない。僕にはできなかった。一年間経った今でも完璧な演奏はできていない。そんなことを考えているうちに彼女が川原へとやってきた。
「こんにちは!」
「こんにちは、今日は早いね」
「約束を果たしにきました」
とても大きな声で彼女は言った。緊張をごまかすためだろうか。
「期待してる」
「はい、私に任せてください!」
嘘を言った。本当はこれっぽっちも期待していないのに。
深く深呼吸をしてから彼女は言った。
「それでは聞いてください、『あの日の約束』」
何を言っているんだ。あの曲に曲名なんてないはずだ。そして彼女は演奏を始めた。思った通りあの人どころか僕にも及ばない演奏だ。
やはり無理だった。そう思ったその時だった。
彼女のスマホから別の音が流れ出した。ピアノの音だ、他にもドラムやベースの音も聞こえる。
何だこれは。何が起きている。混乱する僕を見て彼女は笑った。そしてさらに追い討ちをかけてくる。
なんと彼女が歌を歌い出したのだ。
それはとても心地の良い歌声だった。聞いているだけで幸せな感情が溢れてくる。
もう僕の頭の中にあの人の音は流れていなかった。
「どうでしたか……って、泣いてるんですか!?」
涙が溢れて止まらなかった。それぐらい感動した。
「あのドラムやピアノはどうしたんだ」
「軽音部の人に頼んだんです。私のギターだけじゃ認めてもらえないだろうと思って。ちなみに曲名と歌詞は私が考えたんです。どうでしたか?」
歌詞には僕に対する想いが込められていた。それがとてもよく伝わってきた。
「とても良かった、君はすごいな」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいです」
本当にすごい子だ。僕にもあの人にもできなかったことを成し遂げたんだから。
「それじゃあ、約束どおり私と付き合ってください!」
僕には彼女の姿が強く輝いて見えた。彼女と一緒ならどんな困難にも打ち勝てる気がした。
「ああ、こちらこそお願いするよ」
そして僕らは付き合い始めた。
これからの人生はきっと色とりどりの素敵な音に溢れているだろう。




