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『二人の心/hope and despair are always together』

 少し生温い水面に、ゆらゆらと揺れているような感覚だった。気分はとてもリラックスしていて、体のどこをとっても冷たい部分がない。とても気持ちが良い、微睡みに包まれている。

 綺麗な青空。白い雲はゆっくりと流れて。足元には空と同じ青が広がっていて――この身が溶けてしまいそうだった。


 ――ぱちん。


 世界が揺れた。嫌だ。まだもう少しだけ、この世界に居たい。

 青に溶けて、風となっていつまでも綺麗な世界を駆け抜けていたい。


 ――ばちん。


 先ほどよりも強い衝撃。駄目だ。抗えない。空間に亀裂が入り、天も地も等しく裂けて崩壊していく。

 終焉――しかしそれは再構築への過程。

 不意に、視界が暗闇に包まれた。


「……」


 何故だろう。頬が痛い。そういえば何かを叩くような音が聞こえて――と、そこでスイッチが入ったように思考が巡り始めた。


「……ん」


 そしてなんとなく、近くに構えられた平手の気配を察知したので、とりあえず声を出しておく。

 流石に三回もビンタされるのはごめんだ。

 ゆっくりと目蓋を開ける。広がる視界。未だ夜明けの来ない星空。顔を少し横にすると、淡い月光の中でもよく見える白い髪と紫色の瞳が目に入った。


「……てっきり、死んじゃったのかと思った」


 掠れた声で言ってみる。

 どれほど気を失っていたのかは不明だが、最後に覚えているのは、確か目の前の彼女が突き立てた剣によって貫かれ、大量の血を流したこと。

 そうだ。彼女は選んだのだ。何者でもない自分から――アリサ・ヴィレ・エルネストという存在を掴み取るという選択をした。

 だから『かつてアリサだったもの』となった自分は、ソフィとしてすべての苦しみを背負ってそのまま――。


「ソフィなら……そんな簡単に死ねると思わないで」


 少しだけ感情のこもった、だけどまだ抑揚の少ない声。生まれたばかりの赤子のようなたどたどしい声。


「それに……殺せるわけ、ないでしょ」


 目元を赤く腫らしながら『アリサ』はそう言った。


 アリサの手元には一本の剣があった。『八番目(グリュック・フィーレ)の剣(・アハト)』――自らの魔力を代償に、治癒能力を発揮する剣。一度使うごとに消費魔力が増えていくデメリットがあるが、その能力を使えば、ある程度の傷なら瞬時に完治する。


「……ありがと」


 お礼を言うソフィに、アリサがかぶりを振った。目を赤く腫らすほど泣いたはずなのに、再びその頬には涙が流れる。


「お礼なんて言わないで……だって私はあんたから……。お礼を言うなら私で、それに謝罪や懺悔だって……!」


 彼女は一度選んだ。だがまだその選択を受け入れられていない。当然だ。だって、もう一人の自分から思い出と存在を奪って、代わりにこれまで背負ったすべての苦しみを預けるというんだ。

 他者の好意に慣れていない彼女なら余計に、それは受け取ってもいい善意(モノ)なのか判断に困るはず。


 ――それでも、選んだ。


 だったら、今のソフィの言うべきことは一つ。


「……私は後悔してない。だからあなたも胸を張って、前を向いて。今すぐは無理でも、いつか。そうしたら私も……これから生きていける」


 ふと指先に何かが当たった。それは気を失う前にも見ていた、感じていた――黒乃がソフィへプレゼントした月下美人の髪飾り。

 彼女がずっと持ち歩いていた、数少ない大切な思い出。


「……ねえ、アレ、持ってる? 前に渡した携帯電話」


 アリサは無言のまま頷いて、ポケットから携帯を取り出した。

 それはソフィがアリサを演じる上で必要になると渡したもの。黒乃や兄、時々学校の友達とも育んだ思い出が入った、掛け替えのないもの。

 そしてそれはソフィではなく、アリサが持つべきものだ。


「……それはあなたにあげる。その代わり、これを頂戴」


 手元に寄せた月下美人。


「あんたがそれを望むなら」


 アリサは一歩踏み出した。なら大丈夫。きっといつか、胸を張ってこれでよかったと言える日が訪れる。


「……ありがとう。それじゃあアリサ、黒乃のところへ行ってあげて。私はもう少しだけここに居るから」


「――――」


 一度、アリサは目蓋を閉じた。それから袖で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと立ち上がる。

 再生の時だ。自ら掴み取った、選び取った存在として――彼女は覚悟を決める。

 譲ってもらった未来だからこそ、もう二度と迷うわけにはいかない。

 愛する人のそばに居て、彼を幸せに、何より自分自身が幸せになることが――義務であり贖罪であり、精一杯できる感謝なんだ。


「――ありがとう、ソフィ。私はもう、迷わない」


「……うん」


 思わず目を逸らしたくなるほどの眩さを胸に宿したアリサは、真っすぐに駆け出した。

 エルネストの気配を追って、剣崎黒乃(けんざきくろの)のもとへ。

 

「……」


 一人砂浜に残ったソフィは、星が瞬く夜空を見上げながら穏やかな呼吸で、波の音を聞いていた。

 胸には上手く言えない気持ちが渦巻いている。喜びや悲しみ、後悔や達成感とも少し違う。

 名も無き感情――。


「……ねえ、兄さん。これで良かったのかな」


 答えはない。耳に届くのは波の音だけ。

 

「……きっと、良かったよね」


 そうしてソフィは立ち上がった。今は亡き母を思い出すような、優しい微笑みを浮かべて。


 ――夜明けは徐々に近づいている。

 島の南側。数年前の地震の影響で地面が隆起してできあがった丘の中でも最も高い場所。決戦の舞台に相応しき場所で、二人の男が戦っていた。

 一人は剣崎黒乃(けんざきくろの)。黒金のフレームに蒼穹を思わせる爽やかな青色のラインが浮かぶ鎧を纏った――運命を超えるために未来へ手を伸ばす青年。

 一人は『K』――かつて剣崎黒乃だった並行世界の男。漆黒のフレームに不気味な模様のような禍々しい赤色のラインが浮かぶ鎧を纏った――神を殺すことを贖罪とする悲しき男。


 両者の戦いはこれまで互角だ。

 すべての記憶を取り戻した黒乃は、ルドフレアが調整した『ヘヴンズプログラム』の力を百パーセント引き出すことができ、それに加えてスズカの魔術『共鳴歌(ヴィブレイド)』による魔力供給もある。

 際限のない力。力の代償は踏み倒され、光を掴み取るために黒乃は剣を振るう。


「何故そこまで神を殺そうとする――!」


 力の行使に無駄な部分はない。『ヘヴンズプログラム』の欠点だった感情の肥大化、暴走という部分も既に改善され、今では絶対的な平静さと加速した思考が周囲に転がる些細なピースを繋ぎ合わせ、未来予測に近いことを行い、即座に最善の判断を下すことができる。


「ぐッ――、はあ‼」


 『K』は自らに振り下ろされた『十四番目(エフェメラル・ダブル)の剣(・ジョーカー)』の刃を左手で受け止め、刀身を掴んで強引に黒乃の体勢を崩し、そのまま出現させた『十三番目の剣(キング・オブ・キング)』を突き立てる。

 受けるわけにはいかない。これはエルネスト同士の戦い。剣による負傷はカードを奪われることと同義だ。


 刹那――黒乃は剣を消失させ、瞬時に再出現。剣の形は変わっている。紫色を基調とした、刀身の中心が稲妻型になっている『五番目(ナイト・メア)の剣(・ファイヴ)』。

 その能力は使用者と剣の位置の入れ替え。


「――――」


 黒乃は冷静に能力を発動して『K』の攻撃を回避。瞬時に『K』の顔面を狙って拳を放つ。剣を再出現させて振り下ろすよりもコンマ数秒だけ速い攻撃。そしてそのコンマの差が『K』に回避の隙を与えない。

 

「チッ――――!」


 黒乃の拳が『K』の仮面を破壊する数瞬手前、紫色の光子が奔った。

 それは合図だ。『K』の纏う『ヘヴンズプログラム』は黒乃のモノと違って完全には完成していない。暴走状態になることは回避できているが、『十四本(フォーティーン)の剣(・ブレイド)』の能力を引き出すことは限定的にしか行えない。


 元々『K』はエルネストとして覚醒した時の記憶が抜け落ちて『半覚醒状態』――つまりそのままでは剣の能力を使うことができないのだ。それを例外的に『ヘヴンズプログラム』の能力で使用していたが――しかし、あと一歩完成に及ばないその状態では、剣の能力を使える時間はたった一分。


 『K』はその貴重な時間のひと欠片使用し、先ほどの黒乃と同じように『五番目(ナイト・メア)の剣(・ファイヴ)』を顕現。その能力で瞬間移動するように攻撃を回避する。


(……幸いにも剣の力は一度発動してしまえば、この状態を解いても持続する。能力を使用する一瞬だけ消費されるタイムリミット――残り時間は半分。その間にフィニッシュを決めてみせる!)


 そしてすぐに紫色の光子は消え、戦闘は再開される。


 すさまじい速度で漆黒の刃と白銀の刃は重なり、『K』が一手先に動く。

 即座に剣を消失させ、剣を握る黒乃の手を掴んでそのまま投げ飛ばし、追撃。

 黒乃は投げ飛ばされながらも重心を移動して両足で着地し、剣を背に構えて追撃を防御。それと同時に足をバネのように使って勢いよく立ち上がり、攻撃を弾き返すのと同時に体当たり。そして斬撃同士が交わり、同じタイミングで間髪入れず放たれた回し蹴りが交錯し、余波でお互いに吹き飛ばされる。


 別の世界、十年の差はあれど、同じ人間であることに変わりはない。

 黒乃と『K』の動きは基本的にはシンクロしている。だからこそこの戦い、どちらが相手の虚を突けるかにかかっている。


「『イノセント・エゴ』はエルネストに残酷なる運命を課した。抱えきれない悲しみが溢れ、大勢の命が消えた! ならば神へ教えてやらなければならない! 他者に命を奪われるということが、どれほど残酷なことなのかをな!」


「それは――お前が決めることじゃないだろう! それにアリサも言ったはずだ! 人の未来に可能性を求めるなら、僕らの出した答えが命を奪うことであってはいけないと!」


「ならばもっと分かりやすく言ってやろう! これは世界を滅ぼした私の贖罪なのだ! 神を殺し、残されたもう一つの世界を解放する――どれだけ穢れた道を歩もうとも、未来は取り戻す! ああそうさ、エルネストの運命などどうだっていい! 私は私のエゴで――神を殺すだけだ!」


 互いに剣を構えて、再びぶつかり合う。剣閃、散って消える火花。数度打ち合い『K』が峰を絡めるようにして黒乃の剣を弾き、生まれた隙間を突く。黒乃は僅かに切っ先が掠るすれすれのところまで身を引き、回避するのと同時に剣を振り下ろす。

 ――『K』はそれを身一つで受け流すように躱し、下から上へ思いきり剣を振り上げる。

 

「――――‼」


 黒乃は瞬時に顔を逸らして、ぎりぎりのところでそれを回避。

 だが『K』の攻撃はまだ終わっていない。開いた両手で、体勢の崩れた黒乃へ追撃、そして体を捻り、全力を込めた蹴りを当てる。


 地面に転がる黒乃。肉薄する『K』。黒乃は咄嗟に前方へ剣を構えるが、それは『K』への反撃にはならない。何故なら『K』は――上に居た。

 紫色の光子――『K』は先ほど振り上げた剣をそのまま上空に放り、『五番目(ナイト・メア)の剣(・ファイヴ)』の能力で、上から黒乃に奇襲を仕掛けたのだ。


「うおおおおおォォォォ――‼」


 既に剣を再出現して構えている。

 

「ッ――――」


 ならばと、黒乃はバク転で身を起こす。しかし『K』の落下は早い。ただ身を起こすだけでは回避は間に合わない。――だから、黒乃も剣を構えることにした。それも立ち上がり体勢を整えるよりも早く。

 ()()に出現させた剣。それが『K』の攻撃を防ぎ、着地点をずらした。

 またも剣戟が繰り広げられる。


(『K』は剣の能力を限定的にしか使えない。状況で言えば僕の方が圧倒的に有利だけど――それでも決めきれない! 執念が、神への殺意が、その想いの分『K』を強くしている!)


 守るために戦う黒乃。殺すために戦う『K』。ベクトルの違う想いではあるが、それでも黒乃の希望を、『K』の絶望が越えようとしている。

 そして――黒乃は剣の打ち合いに負けて、腹に蹴りを貰った。


「ッッッ――‼」


 剣を地面に突き立て、ブレーキ代わりに利用する。


「そういうお前はどうする? お前の中には可能性が眠っている。未来を取り戻せるかもしれない可能性――だが、そんなものは不確かだ。その不確かな可能性が世界を終わらせることだってあるのだよ!」


 冷静に、黒乃は妖しく光る『K』の眼を見返す。その仮面の内側で、彼がどのような表情を浮かべているのかは分からない。けれどその声音は酷く、何かを後悔しているように思えた。


「――それはお前だ。僕じゃない」


「なら示せ。私は確実な手段を示した。あと一人、この世からエルネストを排除し、のこのことこの世界に顕現する神を殺害し、人が人の意志で選択できる未来を掴み取る。――だが、お前はなんだ。お前はどうする! 形のない方法を夢想し、確証のない希望に縋るのか! 答えてみろ黒乃‼」


 再び始まる剣戟――互いの距離は一歩でゼロになり、息つく間もなく交戦が始まる。


「――――」


 黒乃に焦りはない。一瞬の油断が命取りになるこの状況では制御AIの『ターズ』が不安なども抑制してくれる。そして同時に、黒乃に必要な最後のピースを冷静に導き出す。

 奥の手を使う前に――『剣崎黒乃』として、どうしてもアレをやらなければならない。


「うぉおおおオオオオ――――‼」

 

 『K』は大きく振りかぶって剣を振り下ろす。黒乃はそれを刃で受け止めようとするが、いつまで経っても攻撃の感触や衝撃は訪れない。それはフェイク。『K』は自らの攻撃が受け止められる瞬間に剣を消失させ、すぐに次の行動に移っていた。

 真横からの拳――、黒乃はそれを潜るように回避するが、それを捉えるようにもう片方の拳が追撃。『ヘヴンズプログラム』の演算で黒乃はそれを読んでいる。

 わざと足を滑らせて、さらに体勢を低くして追撃を回避。その後すぐに左手一本で体を支え、それを軸に全力を込めた回し蹴り。


「――――」


 狙いは正確無比。だが『K』はそれを躱す。それでも黒乃の狙いは叶った。回し蹴りの勢いを利用した体勢の立て直し――再び両足を地面につけた黒乃。しかし『K』はさらにそこを追撃する。

 絶対に逃がさないと全身で叫ぶように喰らいついて離れないその行動――その執念こそが、黒乃の優位性を奪い、『K』自身の足りない部分を補っている。


「ッ――――」


 防御を許さないほどに激しい剣閃の雨。『K』は時折フェイクを混ぜながら剣を振るう。常人の思考と反射では不可能なほどに速い疾風怒濤の剣舞。黒乃がその動きに対応すればすぐに『K』は剣を消失させ格闘戦に移行し、リーチの差で優位に立とうとする。

 使える力は黒乃の方が大きいが、何よりも『K』には経験がある。

 世界を敵に回し、かつての仲間を皆殺しにした経験――それによって培った戦いの術は黒乃を上回る。


「ッ――――」


 それでも『K』の攻撃を何とか紙一重で躱し続ける黒乃。

 しかしそれも長く続かない。『K』の右ストレート。躱せば左拳が放たれ、黒乃はそれをガードするが、一度防がれたところで攻撃は止まない。

 頭を狙って何度も放たれる左拳のジャブ。それを受けるたびに余波で周囲の大地が抉れていく。

 

「――――!」


 次は黒乃の反撃。放たれた拳を掴んで引っ張り、膝を『K』の腹に叩き込む。

 衝撃が奔った。当然ダメージは入っているだろう。だがそれでも『K』は止まらない。瞬時に回し蹴りで先ほどの黒乃のように体勢を整える。

 黒乃はそれを姿勢を低くすることで躱すが、その間に『K』は両の拳を構えて一気に距離を詰め、連撃を行う。完全に主導権を握られてしまった。


「――ッッ‼」


「ぐ――ッ、――!」


 衝撃で心臓が破裂するんじゃないかと思うほどの威力が何度も体に叩き込まれ、さらに『K』は飛び込むようにして黒乃を掴み、そのまま背負い投げる。黒乃は当然受け身を取るが、追い打ちをかけるように向かってきた『K』の懇親の蹴りを側頭部に食らった。


「がッッッ――‼」


 勢いよく吹き飛ばされる黒乃。そして『K』は自らの拳を大地へ叩きつけた。それによりせり上がった丘の一部分が削れ、抉れた塊の部分が周囲に降り注ぐ。そのうちの一つは黒乃へ。

 黒乃は即座に『五番目(ナイト・メア)の剣(・ファイヴ)』を出現させる。正直なところを言えば、あの程度の大地の破片を受けようと、『ヘヴンズプログラム』を纏っている今なら無傷で済むだろう。


 だが問題はその後だ。ダメージがなくとも、あれを受ければ一瞬のみでも隙が生まれてしまう。そして今の『K』ならば絶対にそこを突いてくる。

 これ以上、相手にペースを握られてはならない。


「ッ――」


 片手を無理やり地面に当てて飛ばされている体の姿勢を整え、もう片方の手で剣を投擲する。

 そして即座に能力を使い瞬間移動を――、


「――『二番目(レヴォリューション)の剣(・デュース)』ッ!」


 刹那、発動した剣の能力が無効化された。相殺と言ってもいい。『K』が使った『二番目(レヴォリューション)の剣(・デュース)』は、別の能力の発動と同タイミングで使うことによってその能力を無効にできる。

 それにより黒乃は降り注ぐ岩や土の塊を浴び、そして『K』が追撃してくる。


「――‼」


 『K』が剣を構え、黒乃もまた剣を構える。切り札の剣と王の剣――二つの刃は重なり、鈍い音を響かせ、勢いのまま宙を舞い、そして着地と同時に黒乃は剣を投擲した。

 『K』はそれを叩き落とし、剣を振り下ろす。


「ッ――ッッ‼」


 黒乃は『K』が剣を振り下ろし終える前に距離を詰め、右手で王の剣の柄を握り、左手で『K』の手首を抑えた。そのまま流れるように膝蹴りを放ち、抑えた剣を押し返し、先ほどの衝撃で生み出された岩の柱を足場にして宙で一回転。

 身軽な動きで『K』の後ろに回り込み、避けられるのを予測したうえで即座に足払いを放ち、さらに体を捻り、飛び込むように勢いをつけて剣を全力で振り下ろす。


 『K』はそれをバク転で躱し、一瞬で体勢を整えて大地に亀裂が入るほどの力で一歩踏み出す。

 黒乃も全身全霊を込めて駆け出す。

 両者の動きは徐々に加速し、しかし攻撃は正確に、流れるように――華麗な踊りでも見ているように洗練されていく。


 何度目かも変わらない刃の交錯――即座に両者は剣を消失させ、斬り抜けるように位置を入れ替え、振り向くように回し蹴りを放つ。同じタイミング、同じ動き。衝突した二つの攻撃は互いを弾き合い、空中で体を回転させて体勢を整え、再び剣と剣を構える。

 『K』の袈裟斬りを黒乃が受け止め、即座に重心を動かし、受け流すようにして反撃。

 黒乃の八の字を描くような逆袈裟を同じように『K』は受け流し、尽き、薙ぎ払い、切り上げ――そうして岩柱の一つに黒乃を追い込む。


「――僕に示せと言ったな。ああ、示すさ。だがその前に、お前の本心を暴かせてもらう!」


 瞬間、黒乃は新たな剣を出現させた。それは金の装飾が施されたレイピアのように細い剣。しかし細い刀身ではあるが纏うオーラは見たものを圧倒するような、不思議な魅力がある――そう『十三番目の剣(キング・オブ・キング)』だ。

 これまで『K』が自らのトレードマークのように使ってきたその剣――その能力を使用する。


「――ッ、させるか!」


 『K』は知っている。王の剣の能力を。

 だからこそ即座に無効化するために残り少ないタイムリミットを使い切る覚悟で紫色の光子を纏い、『二番目(レヴォリューション)の剣(・デュース)』を掴み取る。

 だが――その無効化能力はさらに『二番目(レヴォリューション)の剣(・デュース)』によって無効化された。


「――――」


 『十三番目の剣(キング・オブ・キング)』の能力は『他の剣の同時使役』。つまり黒乃は王の剣を出現させるのとほぼ同時に革命の剣を召喚、『K』に合わせて能力を使用した。


「――!」


 能力が無効化されるなら意味はないと『K』は即座に剣を捨てて拳を握る。

 『十三番目の剣(キング・オブ・キング)』の能力は強力だが、当然代償もある。本来剣の出現に必要ない魔力を要求され、そのうえ常に召喚した剣に意識を割かなければならない。言ってみれば魂を切り分けて剣に込め、そうしてできた複数の自分をすべて操作しなければならないのだ。

 普通なら脳がパンクする。できても一本追加で操るだけで限界だろう。


 だが――黒乃は違う。

 『ヘヴンズプログラム』によって加速した思考は容易に複数の剣を制御する。

 とはいえ全く負担がないわけではない。少なくとも今の状態では長時間複数の剣を扱うことは不可能だろう。

 つまりは――ここで絶対に、流れを変える一手を繰り出さなければ負ける!


「私の本心――フッ、ならば私も改めてお前の愚かさを覗いてやろう!」


 左右からくる『K』の拳を躱し、滑り込むようにして黒乃はその場を離れようとする。

 追撃する『K』――その手にはまた新たな剣が出現する。

 ――『三番目(ディレット・クラウン)の剣(・トゥロワ)』。濃い緑とピンクが螺旋を描く色合いに王冠の形をした鍔。その能力は『心象風景の具現化』。

 具体的にはその刃で傷を負わせた相手の心の景色を結界として周囲に再現する能力。


 『K』は黒乃がその能力を使おうとしていることに気づいていた。意図は不明だが、しかしならば、こちらが先に使用すれば良いだけのこと。

 背中を見せた黒乃を狙い、『K』は肉薄する。


 ――その瞬間、地面を滑る黒乃は左足をストッパーにし、跳躍するのと同時に前方へ一回転。

 だがそれでは『K』の攻撃は防御できない。


「――――ッ!」


 だからこそ黒乃は、剣を出現させた。両手では間に合わない。ならばと黒乃は剣を右足に出現させ、『K』の追撃を弾き、着地と同時に剣を右手へ。

 そのまま振り向いざまに薙ぎ払い、刃と刃が交錯し、再び弾かれ――、


「ッ――‼」


「――ッ‼」


 続く一撃も弾かれ――、そして黒乃と『K』は同じタイミング、同じ動きで剣を左手に移し替え、そのまま全力で前に突き出した。


「――」


「――」


 剣は互いに『三番目(ディレット・クラウン)の剣(・トゥロワ)』。鋭い刃は互いに互いの体を鎧の上から貫き、そして現れた眩しい光の中に包み込まれて――もう一つの世界が創造された。


 何か嫌な臭いがした。生ゴミが腐ったようなそれと似て非なる――言うならば死臭、だろうか。

 死には臭いがある。それは例えば魔術や超能力といったスピリチュアルな話というわけではなく、もっと論理的に腐敗した臓器が放つ臭いというやつだ。

 それはどこか甘い匂いで、でも、決していい気分になれるものじゃない。


 でも――この臭いよりはマシだろう。

 甘い匂いを放つ死は緩やかに訪れる死だ。

 ならばこの臭いは。血と汗と涙と――それらを焦がし尽くす業火が放つ臭気は、嗅いでいるだけで心臓を鷲掴みにされるような、体が端からボロボロになって崩れていくような、そんな感覚を覚える。


 目蓋を開けた。そこがどこなのかは判らない。判別できるのは、空には暗雲が立ち込めていて、周囲には燃え盛る炎があって、崩れた建物があって、それと同じくらい積み上げられた――死体の山。

 なんとなく見覚えがあった。

 この光景は――失敗してしまった世界だ。


 そっと手を顔にかざし、長い間着けていた仮面がないことに気づく。

 白く染まった髪は黒く染め直され、右目は紫色、左目は潰れて大きな傷が残っている。服装はいつものスーツ――変身はいつの間にか解けていた。


「――『三番目(ディレット・クラウン)の剣(・トゥロワ)』が具現化した心象世界。同時に使用されて混線でもしたか。これは……私の世界だ」


 周囲に人影はない。生きている人間の気配も。

 この世界は間違いなく終わっている。何もかもが。選択を間違えた末のバッドエンド。

 息苦しい。死体を燃やして上がった煙を吸ったから喉が焼かれてしまったのだろうか。それともこの一片たりとも救いようのない世界に、心が悲鳴をあげているのか。分からない。


 ただ一つ言えることは。かつて自分自身がこの凄惨な光景を生み出してしまったということ。

 『夢幻世界(ヴィジョンワールド)』――かつての自分の居場所。

 世界を滅ぼす存在を生み出し、世界を敵に回し、共に戦った仲間を殺し、何より――大切な初恋の記憶をどこかに落としてしまった過去。

 故に――神を殺すことに決めた。すべては自分のエゴだ。あの世界同様、あの結末同様、自分もどこまでも救われない存在だ。


 だからこそ、救われない存在を全うすることにした。

 すべての憎しみを神へ注ぎ、自分の気持ちを誤魔化し、騙し、残ったもう一つの世界の未来だけは守ろうとした。


「――――」


 死体の山に目を向ける。

 そこにはかつての仲間、友人、家族、とにかく少しでも覚えのある顔が転がっていた。

 ここはあくまでも心象風景の具現。つまりはイメージの世界。だから実際にこの光景と同じことがあったわけではない。


 それでも――この景色の痛みは、『K』の心に強く刻まれた。


 いつの間にか、微睡みの中に居た。温かい木漏れ日。近くもなければ遠くもない場所で、子供のはしゃぐ声が聞こえて。ずっと――このままゆったりとした時間を過ごしていたかった。

 それでも目蓋は開かれる。託された想い、役割、使命――それが体のスイッチを入れる。


「――――」


 ベンチに座っていた。場所は公園。周囲を見渡す限り、住宅地に囲まれた小さな場所らしい。

 こじんまりとしているが遊具は一通り揃っている。きっと休日は、はしゃぐ子供たちを母親がこのベンチに座って眺めているに違いない。


「ここは……心象世界……?」


 返事の当てもなく声に出した。

 服装はブラックスーツ、髪は白く、目は両方とも紫色に染まっている。持ち物は特にない。

 いつの間にか解けていた変身――とにかく黒乃は、立ち上がり、この世界を歩いてみることにした。


 ゆったりとリラックスした足取りで公園を出ようとする。

 するとそこで、すれ違うように一人の少女が公園に入ってきた。


「ママ! こっちこっち!」


 その姿に、目を疑った。


「――――」


 まだ五、六歳くらいの女の子。その容姿は――白髪紫眼。エルネストのものと同じだ。

 そして何よりも、その表情に、目や鼻、耳なんかに何かの面影を感じた。

 答えはすぐに現れる。数歩遅れて公園に入ってきた女――。


「待って――()()()! あはは……待ちなさいって!」


 少女の母親。けれどその声は少女と同じように無邪気で、明るくて、これまでどのような道を歩めばそんな結末に辿り着けたのだろうと思わず手を伸ばしてしまいたくなった。

 すれ違う黒乃と少女の母親。


 ――ソフィ。


 フィアとは、並行世界のアリサ――つまりソフィが望まぬ形で手に入れた希望。

 しかし『イノセント・エゴ』の仕組んだ運命によって生まれることもなくこの世を去った赤子の名だ。


 ――思わず、涙が出そうになった。

 光を眩しく感じるほどの闇の中に塗れていた彼女。それがあんなにも幸せそうに笑っているなんて、そんなのずる過ぎる。

 優しい光に包まれた彼女を見届け、黒乃は早足で公園を出た。


 そうして通りの道に出ると――人にぶつかった。


「――おっと、大丈夫かい? ぶつかって済まない」


 落ち着いた声音で、優しくこちらを気遣う男。


「いえ……こっちこそ余所見してて、ごめんなさ――」


 そこで言葉を失った。男の姿を見て、その隣に居る女を見て――声が出なくなってしまった。

 男の姿は白髪紫眼。そしてその隣に居る、妻だと思われる女も同じ、エルネスト。

 

「では失礼するよ。行こうか――フィーネ」


「はい」


 優しく微笑んで二人は歩き出す。その背中に、思わず黒乃は手を伸ばし、待ってと声を掛けそうになった。そして寸前で堪える。今、待つようにお願いすれば二人は話を聞いてくれるだろう。でも、何を話せばいいというのだろう。


「あれは……フィーネさんと、アリサの父親……?」


 不意に、近くの電気屋が表に出したテレビからインタビューの様子が流れ始めた。

 何かに引き寄せられるように、黒乃はそのテレビに意識を向ける。


『剣崎さん。財団が建設したホテル『モノクローム』は大変好評で、世界各国からも人が訪れるほどだそうですね! その利益はやはり慈善団体などへの寄付なのでしょうか?』


『まあね。あとは全国にレジャーランドを建設したり、とにかく誰かのためになることをするつもりですよ』


『巷では貴方のことを聖人だと崇める方もいらっしゃるようですが、どのような気分ですか?』


『いや、私は先代に拾って頂きそして財団を託していただいた。先代は亡くなってしまったが、その恩はまだ返し切れていない。だから自分勝手にやってるだけですよ』


『なるほど! では、次に計画していることなどあれば、少しでも教えていただけますか?』


『そうだね。とりあえずは帰って美味しいものでも食べながら、いつも私の業務を手伝ってくれる弟をねぎらってやろうかなと』


「――兄さん」


 剣崎惣助(けんざきそうすけ)。血の繋がらない、黒乃の兄。

 判っている。これは心象風景の具現。現実じゃない。現実の黒乃と惣助の関係はもっと冷たいものだったし、その繋がりも結局は、黒乃が大量の手切れ金を脅し取ることで終了した。

 だが――こんな未来もあったのだろうと、実際に見せられると。


 再び黒乃は歩き出す。

 街の中――思い出深き故郷、桐木町(きりぎちょう)とは違うが、どこか似ている。

 

「げぇ……結構並んでるね」


「ああ。別の店にするか?」


「この時間ならどこも混んでいるんじゃないかしら」


 ふとラーメン店の前にできた行列から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 近くをゆっくりと歩きながらその声に耳を澄ませる。


「いいや、私は待つよ! スズカもそう言ってるし!」


「ふふ、相変わらず貴女は譲らないわね」


「そうか――なら俺も付き合おう」


 少しパンクな格好をして、黒髪をポニーテールにした夜代蓮(やしろれん)と、黒いシャツにスラックスとシンプルな格好に、肩にかかるくらいの水に濡れたような黒髪、夜代織(やしろしき)

 そして空色を基調とした女の子らしい服装で、少し伸びた黒髪に伊達眼鏡をかけた遠静鈴華(えんじょうすずか)


 現実の世界では消えてしまった織。戻らなかった遠静鈴華の記憶。

 それがこの世界では最高の形に収まっているようだ。


「それにしても、兄さんもデートで彼女をラーメン屋に連れていきます? 普通?」


「誘ったのは鈴華の方でしょ。あ、妹からランチの誘いよ。一緒に来る?」


 次に聞こえてきた声は、夜代澪(やしろみお)のもの。普段の男口調も、どこか投げやりな声音もない。

 魂を砕かれる前の人格がそのまま残り、服装も蓮と似ていて、仲もそれなりに良いのだろう。

 そして澪と話すのはセラ・スターダスト――ではなく瀬良明星(せらあかり)だろうか。

 彼女の家族は亡くなっていない。幼少期に家族から捨てられることもなく、金色と銀色のオッドアイも、薄い緑色の髪もない。鮮やかな着物に黒い髪、その様は大和撫子のようだ。


 ――信号機。横断歩道の前で立ち止まり、青になるのを待つ。

 不意に隣の人が持っていた新聞が目に入った。


『アルフレド・アザスティア、ルドフレア・ネクスト、再びノーベル賞を受賞』


「きゃあ――泥棒⁉」


 突然の声に振り向くと、地面に倒れこんだ女と逃げ去っていく男。

 黒乃はすぐにそれを追おうとするが、男の逃げた先には金髪碧眼の男と、金髪金眼のゴスロリ少女がいた。


「そら、出番だぞ相棒」


「やれやれ。手荒い仕事はもうしていないんだがね――!」


 ジェイルズ・ブラッドとレベッカ・エルシエラ。掃除の仕事は引退し、日本で平和に暮らしているのだろう。

 泥棒の男は無事に逮捕され、黒乃はその場を後にする。


 そして気付けば――桜並木を歩いていた。

 穏やかな陽に照らされ、輝く桜吹雪。その中に、雪のように風に靡く髪が見えた。

 白い髪、紫色の瞳を持つ彼女と――オレンジの髪にエメラルド色の瞳を持つ仲の良い兄妹。


「今日の晩御飯は私が作るからね。オムライス、今度は失敗しないから!」


「それよりもオレはフィーネさんのローストビーフの方が食べたいんだがな」


「妹の料理をそれ呼ばわりですか⁉ ああそうですかそうですか、なら今度またソフィとの買い物に付き合ってもらっちゃおうかなぁ!」


「……ま、荷物持ちくらいはしてやるさ。ソフィの分だけな」


「最近ちょっと私への風当たり強くない?」


「それだけ仲が良いということだ。あっ、照れたな? よし、オレの勝ちだ」


「……父さんに母さんとの温泉旅行をプレゼントしちゃおうかな」


「デリケートな話題はよせ!」


 楽しそうに話す二人の姿を、黒乃は遠くから眺めていた。

 頬には涙が流れていた。これは夢だ。現実じゃない。

 だけど――たとえ幻想だったとしても、それを否定することも切り捨てることもしちゃいけない。

 ユメは希望を与え、前に進むために必要なものだから。


 黒乃は服の上から心臓を掴むように拳を握った。

 できればこの光景を掴み取りたかった。でもアリサの父親であるリュート・ヴィレ・エルネストや、遠静鈴華の記憶を取り戻すことは、最初からやり直したって不可能だ。

 セラの家族と人間性を、澪の魂を、織の命を、フィアの命を、フィーネの命を、ヴォイドの命を、他のエルネストや、剣崎惣助との関係性も、取り溢してしまった。


 だからこそ――この『誰もが笑って、幸せでいる世界』を、心に刻み込んだ。

 もう戻らない命がある。取り戻せない時間がある。

 でも――そうだ。それでも。


「違う場所で、違う『誰か』が――この幸せな世界に辿り着いてくれる。だから僕は、そのための未来を取り戻さなくちゃいけないんだ」


「だが――未来が、今よりも良いものになるとは限らない」


 重い声。どこか色気を含んだ、悲しみに塗れた声。

 振り向くと――そこには地獄が広がっていた。死体の山、崩壊した世界。終末と言っても過言ではないほどの凄惨な景色。

 世界は半分に分かれた。黒乃がいる幸せな世界と、『K』がいる何も救われない世界。


「見ろ、剣崎黒乃――この世界を。この地獄を。これに近い景色を、私は確かに観測した。だがお前が夢見る理想の世界など現実には存在しない」


「未来は一つじゃない。可能性はいくつも分岐していて、確かにお前が辿った悲しみの世界だってあるだろう。でも――だからって、最初から理想を諦めていい理由なんてない」


「なら答えろ。お前は『イノセント・エゴ』を殺さずにどうする? 神を殺さなければ、いずれ『起源選定』と同じか、それ以上に残酷な運命が訪れるのだ。お前が今見たような『誰もが笑って、幸せでいる世界』など容赦なく蹂躙されるぞ」


「――僕は」


 そこで黒乃は言葉を止めた。答えに迷ったわけではない。ただ、先に言わなければならないのだ。

 宣言しておかなければならない。はっきりさせておかなければならない。

 

「……なあ『K』。最後にもう一度、聞かせて欲しい。お前の本心は、答えは、本当に神を殺すことでいいのか? 神を殺して世界が自由になったという事実は、後の歴史で惨劇を引き起こすかもしれない」


 この期に及んで何を言い出すかと思えば、と『K』が鼻を鳴らす。

 同時に黒乃が片手を軽く上げて、もう少しだけ聞いてくれと意志を示した。


「こう考えたことはないか? 僕らの世界は『イノセント・エゴ』にとっての『地球シミュレータ』と同じだ。そしてシミュレータは現実にも存在している。その中に仮想の世界があって、人間もいるかもしれない。造り物の――生命が。これってさ、僕らと何が違うんだ? 仮想世界に『起源選定』はないかもしれない。でももし『ヘヴンズプログラム』やジョイのように彼らがシンギュラリティを起こして自我を獲得した時――彼らにとって僕らは、神様だ」


 『イノセント・エゴ』が黒乃たちが住む下位世界を作り、その下位世界でまた、仮想空間での下位世界が創造される。下位世界の下位世界の下位世界の下位世界が生まれて――そうして世界は層になっていく。

 上位の存在を神と崇める人がいるかもしれない。

 世界を統治する神に反逆を翻す人がいるかもしれない。


「だからこそ――僕らが神様を殺したなんて歴史を作っちゃいけないと思うんだ。平和的に解決し、それを歴史にして未来へ示す。後世へ残す。――そうすればいつか『誰もが笑って、幸せでいる世界』が実現する」


「……くだらない」


「――そんなことない!」


 一蹴する『K』の態度を、黒乃は力強く否定した。

 駄目だ。この世界は絶対に否定させない。させてはならない。

 だって、この世界は。最高のハッピーエンドを望むこの世界は――、


「お前のものだろ、『K』」


 その言葉を口にすると、『K』は無言のまま目を見張った。驚きのあまり言葉を忘れ、瞳孔も開いている。

 黒乃は続ける。『K』はもう一人の自分だ。なら、自分に遠慮はしない。


「剣の力はちゃんと発動した。僕はお前の心の世界を見て、お前は僕の心の世界を見た。正直驚いたけど――でも、嬉しかった。こんなに人間らしいものがお前に残っていてくれて」


 失敗した先に待っているのは後悔だ。どこで間違えたのか、どう進むべきだったのか、何度も何度も反芻して、辿り着けなかった最高のハッピーエンドを求め続けた。

 だからこそ、すべてに失敗し神を殺そうとする『K』の心には、誰もが羨むような理想の世界があった。


「――馬鹿な! ならこちらの世界は、このどうしようもなく救えない世界は⁉」


「僕の恐怖だ。……お前だから言うけどさ。その……怖くて当然だろ。もし僕が未来を掴み損なったら、もし選択を間違ったら――全部が無駄になるかもしれない。世界中が敵になって、仲間と戦って、大切な人を守れなくて。それに、実際に失敗したお前がいるんだ。だから本音を言えば……こんな世界を描くほどに僕は怖かった」


 先頭を走るのは、いつだって一人だ。多くの人が背中を押しても、一歩踏み出すには孤独が伴う。

 だから誰よりも前向きに未来へ手を伸ばす黒乃の心には、誰もが持っている当たり前の恐怖があった。

 ――そして今、黒乃の中に渦巻いていた未来への恐怖、失敗への不安は桜吹雪に塗り替えられていく。


「でもお前がこの世界を見せてくれたおかげで――本当の本当に、何の不安も後悔もなく、これからやること、やるべきことを選ぶことができる!」


「なら今一度問おう――! 剣崎黒乃、お前は『イノセント・エゴ』をどうするというのだ!」


「僕は『イノセント・エゴ』に心を与え、そして対話する! 『起源選定』によって始まった運命がどれだけ残酷なもので、そしてどれほどの悲しみを生み出してきたかを教えて――そのうえで、僕らを運命から解放してくれるようにお願いする!」


 胸を張って、剣崎黒乃はもう一人の自分へ宣言した。

 神は殺さない。平和的に、対話で解決する。

 もうこれ以上誰の命も犠牲にしない。それが剣崎黒乃の出した二度と変わることのない『答え』なのだ。


「ッ――そんな綺麗事が、本当に通じると思っているのか!」


「それが僕の役割だ! お前の言う綺麗事を――僕らが広げた、(はる)か彼方まで飛ぶための翼で『イノセント・エゴ』に届けてみせる! 必ず――‼」


 すべてが淡い桃色の吹雪に包み込まれ――二つの世界が光に包まれる。

 心の景色を形にした世界が崩れていく。

 『三番目(ディレット・クラウン)の剣(・トゥロワ)』の能力が解かれた。


「――ならば。さあ示してみろ。お前の意志を! お前の翼をッ――‼」


 そしていよいよ――『起源選定』は終幕を迎える。

 失われた未来を取り戻すため、世界を悲しき運命から解放するため、『イノセント・エゴ』の存在を賭けた戦いが――。何よりも、愛する人を守り、その人が安心して暮らせる世界のために。


「悲しいことは全部、終わりにしよう――‼」


 ――『剣崎黒乃』の最後の闘いが、始まる。


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