『悲しみを愛せるように/A gentle lie will last forever』
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『――待ってるだけでは世界は変わらない。『僕』はアリサを守ると約束したんだ』
そう宣言した彼がいた。少し伸びた黒髪で風で靡いたような爽やかな髪型をした青年。
その時の彼に記憶はなかったが、それでも自分の知るもう一つの世界のもう一人の彼とは明らかに目の色が違った。
どれだけ幸せな時間を過ごせば、こんなにも輝くのだろうと思うほどに、眩しかった。
いや――その時の彼女はまだそのことに気づいていなかった。彼の目を見ようとはしていなかった。
ただ自分が『アリサ』の代わりを演じていて、それでも、守ると言ってくれた彼の言葉が、少しだけ嬉しかった。それだけだ。
『記憶があった昔も、記憶がない今も、アリサの隣が僕の居場所だ!』
そう言って、彼は一緒に来ることになった。その時点で何としても彼を『起源選定』から遠ざけるというヴォイドたちの目論見は狂い、そして運命もまた、少しずつ狂い始めた。
『待ってくれ! さっき聞きそびれたことがあるんだ。君が変わってしまった理由を――思い出の中の君はもっと明るくて元気だった。でも今の君は違う、何があったのさ?』
そう言われて現実に引き戻された。多分夢を見ているという自覚もない、浅い眠りの中で。
お前はこの世界のアリサじゃない。彼が求めているのはお前じゃない。そう耳元で囁かれたように、事実を改めて認識した。
だから――冷たいことを言ってしまった。
あの言葉は本心だったけれど、彼を傷つけてしまったことは今でも申し訳なく思っている。
『綺麗だね。似合ってるよ、アリサ』
外見を褒められたのは初めてだったし、華やかなドレスを着たのも初めてだった。
とても嬉しかった。おとりという立場での潜入、そして起こる戦闘を心待ちにしていたが、自分が飢えた獣のように戦うところを、彼には見られたくないと密かに思った。
ドレスが傷つくことも、少しだけ。結局それは叶わなかったけれど。
『アリサァァァァァ――――‼︎‼︎‼︎』
『ヘヴンズプログラム』を纏った『K』の攻撃。あの時は死を覚悟して、同時に死を受け入れようとしていた。戦いの中で死ぬことはきっと本望だった。だから良いと、思えた。
でも彼の声がそれを許せなかった。
まるで白馬に乗った王子様のように颯爽と現れ、そして自分を守ってくれた。
誰かに守られたのも、その後にお姫様抱っこされてビルから飛び降りたのも初めてのことで、嬉しかった。
『――思うわけないだろ。君は綺麗で素敵だと思う、だから卑怯なことなんてしたくない』
自分に近づいてくる男なんて、欲望を発散したいだけの下衆だと思っていた。
だからもし彼が、その本質が、これまで出会ってきた男と同じものだとしたら、これ以上期待してしまう前にどうにかして諦めたかった。見切りをつけて、早く死にたがりの自分に戻りたかった。
でも――違った。
はっきりと目を見てそんなこと言われたのは初めてで、彼はその後お礼を言われて上機嫌だったようだが、それは自分も同じだった。
『――君は誰? 僕の知っているアリサじゃないよな』
すべてが終わったと思った。
これまで彼が守ろうとしていたアリサと自分は別人で、こちらから見切りをつけるつもりが、逆に向こうから見捨てられると直感した。
『僕は今後、アリサだけじゃなく君も守るつもりだ。病院の屋上であの時の僕が守ると誓ったのは、君だから。だから僕は、君のことをもっと理解するべきだと思う』
胸が痛かった。言葉にできない感情が全身を奔り、貫き、抉り、自分の中に深く根付いていた病巣を切除されていくような感覚で。
『――僕がこの戦いを終わらせる』
心を撃ち抜かれ、
『運命が好きじゃないのは、君もだろ? だから僕は――運命を超えてみせる』
彼なら、という予感が渦巻いて、
『――本当の君が知れてよかったよ、ありがとう』
きっとあの時――恋に落ちていた。そのことを自覚するのはもう少し先。
そう、あのお祭りの夜。
『ゲームだとしても、勝負に本気になれるって――魂が燃えてるようでさ。それってかなりアリなことじゃない? 僕はそっちのほうが生きてるって感じがして好きなんだ』
いつからか、生きてる実感すらなかった。でもその言葉が、過去に置き去りにしたままの何かを思い出させようとしてくれた。
『……はい、ソフィ。好きなものを選んでよ』
昔から、自分で選ぶ権利なんてものはなかった。施設で育ったから、あれが欲しい、これが欲しいと言えるはずもないし。進学する学校も選べない。着たい服も、食べたい物も、家族も、そもそもエルネストである以上は戦いの運命から逃れられない。
だから彼のその言葉で、何かが救われた気がした。自分には何かを選ぶ権利があるのだと思った。見えていなかっただけで、選択肢は常にあったのだと気づけた。
そして――彼、剣崎黒乃への恋心を自覚した。
同時に『アリサ』への憧れと嫉妬を覚え、今の自分がどうしようもないほどに惨めな存在であることを再認識した。
アリサから渡された携帯電話、彼がプレゼントしてくれた月下美人の髪飾り。どちらもまだ持っている。
手放せずにいて、まだしがみついていて。
彼の優しさは、眩しさは、焼き付いて離れないほどに刻まれた。
そしてあの島で、彼とこの世界のアリサは再開を果たしてしまい、ついに自分を終わらせる時が来たのだと思った。捨てたはずの、それでもしがみついていた『アリサ』を今度こそ本当に失う時が訪れたと覚悟し、それでも怖くなって彼の袖を掴んだ。
とめどなく溢れる彼への恋心。彼が好きで、彼の放つ光が眩しくて、ずっとその光に優しく包まれていたくて――そしてあの言葉が大きな分岐点となった。
『――なら、奪ってしまえばいい』
ヴォイド・ヴィレ・エルネストが最期に遺したあの言葉。捉えようによっては呪いかもしれないが、それでも自分が一番欲しいと願った言葉だった。
それですべての覚悟が決まった。――待っているだけでは世界は変わらないのだから。
『――私は黒乃が好きだから。諦めないから』
自分の運命は自分で変える。
そのためにこの世界の『アリサ』を殺してでも、自らの存在を勝ち取ってみせると誓った。
確固たる意志で刃を振るい、お互いの存在を賭けた戦いを繰り広げたのだ。
そしてその果てに、負けを認めた。
どうあがいても剣崎黒乃の隣にいるべきなのはアリサ・ヴィレ・エルネストで、そして自分はアリサにはなれない。
彼と彼女の輝かしい、二度と手が届かない思い出を見せつけられ、自分では受け止めきれないと思ってしまった。
だから、だから、だから――この痛みを背負ったまま、あと少し生きて、そして終わりにしようと決めた。
そうだ。この戦いには意味があった。
夜代蓮が遠静鈴華の記憶を諦めたように、自身の弱さを受け入れて、前に進んだように。
彼女もまた、この恋を諦めて、せめて彼の幸せを願いながら前向きに死のうと思った。
なのに。だというのに。
眼前の女の言葉に、未だ――そしてもう少しの間だけ――何物でもない『彼女』は打ち負かされていた。
気づけば一歩、二歩と下がっていた。気圧されていた。後退さっていた。
それほどまでに――白髪紫眼の女、アリサ・ヴィレ・エルネストの言葉は理解しがたいものだったのだ。
落ち着いて先ほどの言葉を思い出す。
『一つはあなたがアリサであることを捨て、ソフィとしてゼロからすべてをやり直す道。そしてもう一つは――』
寒気を感じた。鳥肌が立った。とてつもないほどに恐ろしいことを言っているように思えた。
『私を殺し、これからはあなたが『アリサ・ヴィレ・エルネスト』として生きる道。あなたが望むなら、私のすべてをあげる。その代わりにあなたの苦しみはすべて私が背負って持っていくわ』
口を開いて、何かを言おうとした。でも声は出ずに、そして思考は端から崩れ去っていく。
何を言っているかは理解できる。
だってそれは、先ほどまで自分が行おうとしていたことなのだ。
――アリサを殺して、アリサとなるか。
――アリサを諦めて、ソフィとなるか。
そして結局、後者を選んだ。選んだはずなのだ。
なのに眼前の女は剣を取れと言って、丸腰のまま首を差し出している。
「ふ……ふ、ふざけているの……?」
膝をついて、両手をついて、許しを請うような体勢で何とか声を絞り出した。
いっそのことすべてが冗談だと言って欲しい。今なら何の嫌味もなく、自然に笑ってあげられる。だから悪いジョークだと言って欲しい。お願いだから。
「私は本気だよ」
なんで、どうして。理解できない。
「……なんでそんなことが、言えるの……?」
「あなたが可哀想だから」
瞬間、顔を上げてアリサを睨みつけた。
「嘘よ! そんな……そんなことで、自分の命と存在をあげてもいいなんて、言えるはずない!」
睨みつけたアリサの表情は、どこまでも凛々しく、自分のやっていることが一片も間違っていないと断言できるほど澄みきっていた。
理屈じゃない。言葉などただの後付けだ。とにかくアリサは彼女を救おうとしてる。
「――あなたの運命は、私が変える」
「……ッ……、もし、もし本当にそんな同情で、私を助けるって……言っているなら……」
爪が食い込み血が流れるほど強く拳を握った。奥歯が砕けるほどに歯を食いしばり、精一杯眼前のアリサを睨みつけた。
アリサの言葉から生まれる感情は、感謝でも怒りでもない。ただの畏れだ。
そしてこれは、畏れからくる拒絶。
「ふざけないで! 私は……私は同情で好きな人を譲ってもらうために生きてきたんじゃない‼ そのために辛い思いをしてきたわけじゃないのよぉ……‼ 私はもうアリサには戻れない! そんなに簡単に言わないで!」
「ならそれは、何の涙?」
――彼女の頬には涙が流れていた。
涙で視界は歪み、零れた雫は砂の色を変える。声は震え、自分がまともに呼吸できているのかさえ曖昧になるほど、感情がぐちゃぐちゃになっている。
「いいの。本当に。私はもう、この先どんなに辛いことがあっても生きていけるほど、掛け替えのない思い出を貰ったから。だから、今度はあなたが幸せになる番だよ」
「……ふざけないでよぉ……う、うぅ……、そんな、そんなこと……!」
アリサの覚悟は本物だ。何度否定しても、その信念は強く突きつけられる。
「なら――黒乃のことを忘れて、ソフィとしてやり直すのがあなたの答え? それでもいいよ。それが、心の底から出た答えなら」
黒乃を――忘れる。
愛する男を忘れ、傷を癒し、すべてをやり直す。『起源選定』は終わり、世界は開放される。
ならその後は、世界中を旅しながらいろんな景色を見て、様々な出会いをして、そうして自分の世界を作り、人生を歩んでいく。
――簡単じゃないか。
だって、一度は黒乃の存在を忘れられた。
あの夏の日。『K』はそのことを忘れ、そして無限の孤独が降り注いだ。夢幻の夢を見た。だから今回も、そうするだけでいい。同じことをもう一度すればいい。
もう一度彼の存在を忘れ、いつか、もし彼と同じくらいに誰かを好きになれたら。
「――――」
それでいい。もうそれでいいのに。
――体が勝手に動いていた。
剣を出現させ、飛び掛かるようにアリサに刃を突き立て、馬乗りになる。
「……ッ、わ、私は……私はぁ………!」
鮮血が広がる。アリサの腹には彼女の剣が――『十四番目の剣』が突き刺さっている。
違う。自分は諦めようとした。だけど体が勝手に動いてしまった。
だって、どう考えたって、もう剣崎黒乃以上に愛しい存在なんて、現れるはずがないんだから。
「はぁ……はぁ……はぁ……、ッ……!」
荒いのは自分の呼吸だ。どうしたって整うはずがない。
一方でアリサは口の端から血を流しながら、それでも『選択』しようとしている彼女に優しく笑いかけた。
母親と同じような、何もかもを包み込むような、温かい微笑みで。
「それがあなたの答えなら――いいよ」
――駄目だ!
「ッ――!」
黒乃にはこの笑顔が必要だ。絶対に奪ってはいけない。こんな穢れて汚れきった自分が、彼にあげられるものなんて何もない。でも彼女なら――恋敵にさえ優しく笑いかけるアリサなら、きっと自分以上に彼を幸せにしてあげられる。
もし――もし黒乃が、ただ一人、どちらかを選ぶならきっと『この』アリサのはずだ。
だったら奪ってはいけない。絶対に。
なら諦めろ。諦めて、一生痛みを抱え続けろ。彼の眩しさから目を逸らせ。永遠に光に目を眩ませる闇であれ。
「……さあ、選んで?」
(でも私は。だからこそ私は。それでも私は。どうしようもないほどに私は。でないと私は。いつか私は。私は……私は――‼)
――アリサとなり黒乃のそばに居続ける。
――ソフィとなり黒乃を忘れてやり直す。
「――今から私は。私が、アリサ・ヴィレ・エルネスト。同情でも何でもいい。私は黒乃が好きだから、もう二度と、絶対に自分を手放さない……!」
涙を流しきって、強く凛々しく開いた目で、掴み取った答えを突きつけた。
「……なら私はソフィとして、すべての苦しみを預かったからね」
この瞬間、何者でもない『彼女』はアリサ・ヴィレ・エルネストとして定義され。
アリサ・ヴィレ・エルネストだった『彼女』はソフィとして定義された。
優しく降り注ぐ雪。
アリサはこの選択の結末に何も後悔はなかった。
ソフィもそうだ。何も後悔することなんてない。もう充分すぎるほどの思い出があって――、
――霞む視界の中で、ソフィは見た。アリサがあの日、お祭りの日に黒乃からプレゼントされ、常に持ち歩くようにしていた月下美人の髪飾りを。
おそらくはさっき、アリサが飛び掛かった時に落ちたのだろう。
ソフィはそれに手を伸ばし、指先で微かに触れる。感覚はないが、確かに触れている。
「……」
月下美人の花言葉は『儚い恋』。そして――『ただ一度だけ、会いたい』。
ソフィはもう一度、優しい笑顔を浮かべて、安らかに目蓋を閉じた。