『私は私で、あなたはあなたで/Be yourself, not somebody』
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島の東側にある浜辺で、世界の未来を賭けた戦いとは別に――『アリサ・ヴィレ・エルネスト』という存在を賭けた二人のエルネストの戦いが繰り広げられていた。
「はあああァァ――――ッ‼‼」
白い髪を乱しながら、紫色の瞳で『敵』を見定める『彼女』。
剣戟が始まって数度の打ち合い。それだけで相手であるアリサ・ヴィレ・エルネストに本気で戦うつもりがないことが理解できた。
必死な顔をして剣を握っているのに殺意すら持てないとは馬鹿な女だ――私は遠慮なく殺すぞ。そう思い彼女は一歩、強く踏み込む。
「ぐ――ッ!」
全体重を載せた斬撃を受け止め、アリサの表情は強張る。刃を刃で受け止めているが、純粋な殺意の分だけ彼女の方が勢いで勝る。
「……‼」
すぐに力を入れ直して連撃を繰り出す。反撃の隙は与えない。喰らいついた獲物は絶対に離さない。とにかく目の前の存在を切り伏せ――そして自分を獲得する。
「ッ――、ッ――‼」
彼女は剣術を習ったことはない。戦い方も、呼吸法もすべて我流。勝つために磨いた。殺すために磨いた。死ぬために磨いた。けど――もういい。もう死にたいなんて思わない。
何物でもない『彼女』はこの世に未練ができてしまったのだ。剣崎黒乃という未練が。恋をしてしまったのだ。好きになってしまったのだ。愛おしくなってしまったのだ。
(彼のあの優しさに――もっと触れたい……! だから! 私は勝つ‼)
刃と刃が重なり、火花を散らす。
刹那――アリサの使う『一番目の剣』が黄金色に煌めいた。
咄嗟のことに彼女の目は眩み、真白の視界に色が戻った時、景色が変わっていることを認識した。
それはアリサにとっては思い出深い故郷の景色。彼女にとっては忌まわしい記憶の詰まった、翼を折られた鳥の住まう箱庭。
――桐木町。
「世界の移動――それがどうした‼」
剣を構えて向かっていく。そして何十合にも繰り広げられる剣戟。二人だけの戦場には雪と見間違うような白い髪が舞い踊り、月の光をその身に反射させる刃が凛々しく星のように煌めく。
刃と刃が重なる。
しかしアリサはすぐに峰を絡めて攻撃を受け流すような動作を取り、彼女の斬撃を次々と凌いでいく。
「……ここは、私と黒乃の思い出の町。ここで私と彼は出会い、そして互いに好きになった。ねえ、あなただって覚えてるんでしょ? 剣の力を引き出せるってことは――あの夏の日の出会いを!」
フラッシュバックする七年前の記憶。そうだ――『彼女』がまだアリサだった頃。『K』がまだ『剣崎黒乃』だった頃、確かに二人は出会った。
そしてその記憶を彼女はいつか、どこかで思い出し、一方で彼は十年経っても忘却の檻から抜け出せないでいる。置き去りにされた約束――夏の日差しは何も照らしていない。
「だからなんだ……!」
彼女の全力を込めた一撃をアリサは一瞬だけ受け止め、すぐに剣を消失させ体を逸らす。紙一重で刃は虚を切り裂き、アリサはその隙を突いて剣を振るう。当然、彼女はそれを防いだがアリサの目的は攻撃の手を防御に転換させ、その隙に距離をリセットすることだった。
そうして開いた二人の距離。一歩踏み出せば届くが――仕切り直しとばかりに、アリサは剣を構え直す。白髪紫眼、同じ容姿を持っているのにどこかが違う二人の女。アリサはどこまでも冷静に、彼女の殺意を受け流していた。まるで――何かを見極めるように。
「彼は……眩しい?」
「……ええ、そうね」
――光を求めていた。いつもどこかで光を求めていた。虐げられている時も、凌辱されている時も、戦っている時も――ずっと、ずっと、光を求めていた。
その光がついに目の前に現れた。いつからか、先のことなんて考えないようにしていた。自分に明るい未来はないって、そう思っていた。運命にそう思い込まされていた。けれど。
「……彼なら救ってくれる。彼なら私を光のもとへ連れていってくれる。だから――ッ、絶対にお前に負けない! ――私は黒乃が欲しい、欲しいのぉ!」
彼女の心の叫びを、アリサは真正面から受け止め、そのうえで何度もかぶりを振った。
「――ダメだよ、待ってるだけでは世界は変わらない! 誰かに背中を押されるのは良いことだと思う。でも前に進むためには自分の足で歩いていかなくちゃいけないの! あなたは黒乃がいなければ前に進めないの? ううん、そんなことはない! 一人で、自分の足で歩ける強さをあなたはもう持っている!」
「戯言を――!」
彼女は剣を逆手に持ち直し、そのまま投擲した。狙いはアリサ――ではなくその後ろ。音を立てて地面を跳ねる剣。それは『十四番目の剣』――ではなくその能力によって姿形を変えた『五番目の剣』。
使用者と剣の位置を入れ替える能力を使い、彼女はアリサの背後へ瞬間移動する。
その手には既に消失、再出現させた漆黒の剣が構えられていた。
「……」
アリサはそれを回避した。防御する隙は無かった。動ける隙は無かった。だから逆に――世界の方を動かした。再び『一番目の剣』を使ったのだ。
世界は変わった。だが景色は変わらない。
ここは元の世界の桐木町。それも黒乃とアリサが、そして彼女が通っていた高校のグラウンドだ。
「な、ッ――なに、を……?」
意図が分からなかった。攻撃は確かに回避され、再び距離を取られたが、それでもこの場所に移動する必要性を感じない。動揺を誘っているのだろうか。彼女は肉薄し攻撃を繰り出す。
「ふざけた真似を!」
首を狙って下段から斬り上げる。アリサはそれを防御するも受け止めきれずに数歩下がり、そこを追撃。斬り上げた刃を同じ角度で振り下ろし、円を描くように軌道を変えてから流れるように斬り抜ける。――少しだが入った。漆黒の刃が血に濡れる。
「ッ……強いね」
頬に血のカーテンを作り、アリサは彼女を認めるようにそう言った。
「いいえ、私にそんな力はない。これは全部黒乃がくれたの。でも、誰かの力を借りて生きることの何が悪いというの? あなただってずっと守られて生きてきたじゃない」
「そう……私はずっと、守られて生きてきた。兄さんが守ってくれて平和を教えてくれた」
アリサは一度目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「……ねえ。この場所はね、黒乃と二度目に出会った場所なの。ここで沢山の思い出を作った。文化祭や体育祭、普通の授業だって彼と一緒なら何でも輝いて見えた。一緒に笑って、一緒に怒られて、それが愛おしかった」
不意に通り過ぎる出会いの春、夏の暑さに身も心も焦がし、秋と共に友情は恋心へ移ろい、冬は手を重ねて同じ温もりを分かち合った。きっと二度と手が届かない。素晴らしく輝かしい青春の日々。
再び黄金の煌めきが二人を包み込む。今度は『夢幻世界』の桐木町。
とある喫茶店の前に二人はいた。
「――ここで私がバイトをしていたら、黒乃も一緒に働くようになった。生活費がピンチだって言って、ほぼ毎日シフト入れて。でも無駄に体力があるから、最初は失敗してばかりだったけど徐々にみんなから頼られるようになった。一度ものすごくお客さんが殺到して、でもその日は私と黒乃しかいなくて……ほとんど自棄になってお店を回してたこともあった。……楽しかったな」
「――――」
再び世界は変わった。今度は展望台だ。
「ここでは星を見たの。兄さんとの思い出の場所でもあるけど、黒乃と一緒に見上げる星はまた少し違って輝いていた」
今度は何でもない歩道橋。
「悩み事があるとここに来る癖があってね。ある日それを黒乃に見られて、近くの自販機でジュースを買って、橋の下を走る車のライトを見ながら何でもない話をした」
そうして何度も何度も、まるで思い出を自慢するようにアリサは世界を移動し、過去の記憶を辿っていく。彼女がどれだけ望んでも手に入れられなかった日々。それを見せつけられるのは、心がじりじりと焦げていくような嫌な感覚だった。
次は浜辺だ。夜の海――けれど無人島のあの浜辺ではない。
「ここで黒乃がオルゴールをプレゼントしてくれたの。『ソフィ』――母さんが私に向けて作った曲が込められた、私の宝物――」
「ッ、もう……いい加減にして! ……私には……そんなの、ない……ッ……! そんなに綺麗で眩しい思い出は……何も……」
振り返ればどれだけ輝かしい思い出を持っているのだろう、この女は。それに対して自分がこれまで積み上げてきた過去は――どす黒い闇しかない。汚い泥に塗れた穢れた思い出しかない。
「……光……光が欲しいの……、彼が、私を……」
荒くなる呼吸、全身の力が抜けていく。流れる涙。それは欲しいものが手に入らなくて泣きじゃくる子供のような我が儘の証。そんな子供を諭すように、アリサは優しい声で告げた。
「光ならもうあるよ。あなたの胸に」
刹那――景色は無人島の浜辺に戻っていた。思い出したように耳に届く波の音。揺れる。例えようもない何かの感情で――『心』が揺れる。アリサは遠くを見ていた。あれからどれほどの時間が経ったのだろう。遠くに強い光を感じる。
「不思議――声が聞こえるの。運命を超えるため――、そう、黒乃も今……」
何かに引かれるように、彼女は顔を上げた。
アリサの手の上に浮かぶ青白い『Ⅰ』のカード――それが不意にバラバラに砕け散る。
「……ぇ……?」
『K』がアリサのカードを破壊したのかとも思った。しかし彼の気配が近くにないことは常に感じ取れている。ならばなんだ。何故、エルネストの――運命に縛られた一族の証であるカードが砕け散ったというのか。
そして、変化はカードだけではなかった。アリサが手元に携えていた『一番目の剣』が錆びていく。アリサはそれを砂に突き立て、武器も何も持たない空っぽの両手を広げて深呼吸をした。
「――――雪だ」
その胸には光が灯っていた。砕け散ったカードが収束し、再構築され、新たなカードがアリサに宿ったのだ。
アリサはゆっくりと掌に落ちてきた雪の欠片を見てから――その小さな冷気が溶けるのを見届けてから、視線を彼女に戻す。
「実はね、神丘先生からあなたの診断結果を聞き出したの。余命一年未満――戦いで負った傷と薬物の後遺症と精神の問題で体が衰弱しきっているって、聞いた。でもね、それはあなたが持つ剣の治癒能力で治せるはずなの。どうして、そうしないの?」
彼女は答えない。ただ砂の上に伏したまま、打ちひしがれていたのだ。
今でも黒乃を想う気持ちは変わらない。でも、あれだけ輝かしい思い出を持っている『アリサ』に……勝てるはずがない。
もう既に彼女は一度、たった一度、決定的に一度、自分ではあの思い出を受け止められないと思ってしまった。
「…………」
不思議と心はからっぽだった。何も満たされていないのに、だからこそ空虚でどうでもいいと切り捨てられた。
「あなたは万が一の時、簡単に死ねるように過去の傷を残したんでしょう? ……分かるよ。だって、私はあなたなんだもん」
そうだ。もし万が一、『アリサ・ヴィレ・エルネスト』を賭けた戦いで負けた時は――自分で自分の命を絶つつもりでいた。もし恐怖でそれができなくなっても、この体ならそう長くは生きられない。だから治療しなかった。
もし自分に、また元気に日の当たる場所を歩ける日が訪れるなら……それは黒乃が隣にいることが必須条件だ。
だから――もういい。彼はどうあがいてもアリサの隣にいて、そして何物でもない彼女はアリサにはなれない。
「……もう、いいわ。この痛みは私のものだから。誰にもあげないで……あと少し背負って、一人で、私は死ぬ……それで、いいの……」
満身創痍。けれど意味はあった。ヴォイドが自らの死を受け入れたように、彼女もまた、苦しみ抜いた生涯を背負って、来るべき未来の礎となることを受け入れられた。
所詮、届くはずなかったのだ。これはただの馬鹿な女が、少し優しくされて勝手に期待して、勝手に裏切られるだけの、それだけの物語。それだけの一生。
もう、それで充分だった。
「――さあ、剣を取って。いいよ、来て」
そう思っているのに――。
「……は……?」
耳を疑った。何かの間違いだと思った。自分の浅ましい願望がついに幻聴を生み出したのかと思った。
顔を上げた。目の前にいるのは――アリサ・ヴィレ・エルネスト。その真っすぐな眼差しは強く、気高い。
自分もそうだ。そうだった。だけどどうしてこんなにも、違うんだ。彼女にとってその名前は絶望の象徴であり、抗えない運命の中に埋もれていくだけの死に体なのだ。
けれどアリサにとってその名前は――誇りだ。
フィーネ・ヴィレ・エルネストの娘として、ヴォイド・ヴィレ・エルネストがその生涯を通して守り抜いた存在として、剣崎黒乃を想い、想われる女として精一杯生きている。
現在のその先――未来をしっかりと見ている。
なのに――アリサは言うのだ。もう終わったつもりでいた彼女を奮い立たせるように、まだ何も終わってはいないと訴えるように、これ以上ないほど残酷な言葉を突きつける。
「あなたが黒乃を本気で好きなことは充分伝わった。そしてあなたは自分に、一人で生きていけるだけの、痛みを受け入れられる強さがあることを知った。さあ――ここから。ここからが私たちの本当の戦いよ」
「な……何を……言って……ッ」
「ずっと、何を選ぶべきか迷ってた。でも兄さんが、ソフィを救えるのは私だけだと言って――それでやるべきことが見えたの。これまで何も選ぶことのできなかったあなたに選択肢を与える。それが私の、選択」
何か、とてもおぞましいことを聞いているような感覚だった。まるでアリサ、ソフィ、何者でもない自分自身――そのどれもが根底からひっくり返されるような恐怖。
「選択肢……?」
「一つはあなたがアリサであることを捨て、ソフィとしてゼロからすべてをやり直す道。そしてもう一つは――」
自分の荒い息遣いが、波の音と一緒に頭の中をこだまする。この島で繰り広げられている多くの戦いを忘れるほどに、この世界には今、アリサと彼女しか存在しないと言わんばかりに、戸惑う呼吸の音しか聞こえてこない。
あとは静寂。何も聞こえない。聞きたくない。
「私を殺し、これからはあなたが『アリサ・ヴィレ・エルネスト』として生きる道。あなたが望むなら、私のすべてをあげる。その代わりにあなたの苦しみはすべて私が背負って持っていくわ」
一瞬が永遠に思え、しかし引き延ばされた時間は眼前の白髪紫眼の女――『アリサ・ヴィレ・エルネスト』の言葉によって完膚なきまでに破壊された。
「――さあ、選んで」