『その姿は雪のように/Soap bubbles are ephemeral』
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楽しい出来事を待っている時間というのは、あっという間に過ぎていくモノらしい。普段であれば一人虚しく行う食事も、不愛想な看護師による体温検査も退屈で長く感じるのだが、今日に限ってはすべての物事が早く進んだ。
「時間だ。行こう」
消灯の時間を過ぎてから黒乃は部屋を抜け出した。担当医の神丘からは温かい恰好をするように言われたが、残念ながら病院服以外の衣服は用意できなかった。
今度ちゃんとした服を用意できないか頼んでみようか、という考えがよぎるが、それは強欲が過ぎるだろうか。
黒乃の病室があるのが九階。屋上へは十階から行ける。
「……いよいよ、か」
軽い足取りで歩いていると、あっと言う間に屋上へ辿り着いた。これほど近くにあったのに、ここへ辿り着くまでに随分とかかってしまった。噛みしめるように、金属の扉を開ける。
「ぁ――――」
そこには、星空が広がっていた。肌寒い風に揺れる服の裾を押さえ、空を見上げる。
――まるで宇宙を旅しているようだった。
同時に、これまでいた病室をより一層牢獄だと思うようになった。だがそれもある意味では悪くない。空腹は最高のスパイス、と似たような感じだ。普段閉じ込められているからこそ、何でもないこの夜空をより一層――美しいと感じることができる。
普段誰かが立ち寄ることもないからかベンチなどは特に何も置いておらず、この場所自体は屋根の無いコンクリートの無味乾燥とした箱庭。街灯はない。ここを照らすのは眩い一面の星と、青白い光を垂らす月だけ。
けれど――その中でも、はっきりと判った。
「――――」
飛び降りを防ぐために高く設置されたフェンス。格子状のそれに手を絡めて、眼下の景色を眺めている――白髪の女。
服装は黒いシャツに黒いスキニーパンツ、それにトレンチコートを羽織っている。腰に届くほど長い髪は風に揺られて、女自身の姿を隠してしまいそうなほどに広がっては戻る。それは寄せては返す波のよう。
再び――見惚れてしまっていた。
その姿は初めて見た時と変わらず、黒乃の心をどうしようもないほどに射抜き、世界を丸ごと変えてしまうほどの衝撃を与える。
ずっとこの場所で見続けていたい。そう思った。この風景はあまりにも芸術的で、画家であれば絵画で残し、写真家であれば迷いなく撮影したはずだ。きっとこの時間を切り取り、永遠のモノとしたはずなのだ。
黒乃も芸術家であれば――そうしたかった。
「――――」
歩みを進める。それがどれだけ冒涜的な事であったとしても、どれだけ醜いエゴだったとしても、黒乃は彼女に声をかける。かけたい。かけなければならない。
一歩近づくごとに心臓の鼓動が速くなり、それに伴って呼吸も乱れる。
――自分の足音が嫌に鼓膜に響く。
――なんて声をかければいいのか、緊張して口の中が渇く。
――寒さで震える手足が、今にも活動を停止しそうだ。
――ポケットに入れた名札をぎゅっと握った。
――そうしてまたゆっくりと一歩を踏み出し。
気づけば彼女は――隣にいた。
「……隣、いい?」
「――――?」
黒乃の声に彼女は少し遅れて反応した。反応したといっても言葉で返事をしたわけじゃない。ただゆっくりと目を合わせた。
それだけ。しかしそれだけで黒乃の体は凍り付いたように動かなくなってしまった。見惚れて釘付けになったのとは違う。その理由はたった一つ。
彼女の瞳はどうしようもなく――失墜していたのだ。
透き通るような紫色の瞳は変わらない――けれど光がない。
カーテンのように揺れる白髪は綺麗だ――だがどこか濁っている。
芸術品のように白い肌は文字通りの病的――まるで今にも倒れ死んでしまいそうな生気の無さを感じた。
容姿はあの日と同じはずなのに、纏う雰囲気はどこか別人のようだった。驚きを隠せない黒乃を一瞥してから、彼女は踵を返す。
「……さよなら」
唐突な拒絶の言葉。それに対して黒乃は、考えるより先に手が出ていた。
「――待ってくれ!」
彼女の細い腕を掴んでしまった。
「あ、その……ごめん」
そのあまりの細さに驚いた黒乃は、握り潰さないようにと咄嗟に手を離す。大袈裟な比喩じゃない。本当に彼女の腕は細く、できの悪い人形のように簡単に取れてしまいそうな予感がしたのだ。
「……なに」
彼女の声は重い。やはり風貌だけでなく声もあの日と違う。あの日の彼女の声が『どんな暗闇の中に居ようと輝きを放つ光』を持っていたとすれば、この瞬間、黒乃の眼前に立つ彼女は『どんな光の中でさえ闇に囚われている』ような声音だ。
何が彼女をここまで変えてしまったんだ。
黒乃はポケットからあの日拾った従業員証を取り出し、それを彼女に見せた。
「これ、君のだろ――アリサ。一週間前、病室に来てくれた時に拾ったんだ。それで、その……」
言葉に詰まる。黒乃に記憶がないことを彼女は知っているのだろうか。この事実が彼女を苦しめないだろうか。仮にその事実を彼女が受け入れていたとして、なんて言えばいい。
思考が空回りしている間に、彼女は黒乃の手から名札を奪い取る。
「……さよなら」
「だ、だからちょっと待ってくれって!」
考える間もなく黒乃は再び言葉をかける。なんでもいいから彼女を引き留めらなければいけない。
――この次はない。この機会を逃せば、今度こそ本当に会えなくなるような直感がある。
「自分には記憶がないんだ。君が、君だけが記憶を失う前の自分を知ってるんだ! もうここにいるのは嫌だ。頼む、自分の昔のことを教えてくれっ!」
本心をありのままにぶつける。それが功を奏したのか彼女の足は止まった。
吹き抜ける風が冷たく、まるで時間が凍っているようだった。
まだ十秒程度しか経過していないはずだが、いつの間にかまだ十秒がもう一分、いや十分か。そんな風に感覚が引き延ばされる。
「――――」
唾を飲み込み、喉を鳴らす。――そして静寂は破られた。
彼女がポケットから二つ折りの携帯電話を取り出し、それを黒乃へ差し出したのだ。中身を見ると、画面には動画ファイルがいくつか表示されていた。日付の一番古いものは二〇〇七年八月二日となっている。三年前の動画ファイルだ。
黒乃は戸惑いながらも、それを再生した。何かの手掛かりがあると信じて。
『えーと、アリサが携帯を買った記念動画、です。……ねえこれでいいのかな、アリサ?』
黒乃の声だ。いくつかの家族連れが周囲に映っている。全員水着で髪が濡れている。遠くには小さいが監視員用の椅子も見える。場所はどこかの市営のプールで間違いないだろう。
『っていうか、どうして僕がカメラマンなのさ。君の携帯なんだから、君が撮ればいいと思うんだけど……』
画面が大きく変わる。視点が低くなり、より全体を見回せるようになった。どうやら携帯を机かの上に置いたようだ。水着姿の黒乃と、白髪紫眼の彼女――アリサが映る。
『いーでしょ、最初は持ち主を映すの。さ、どうよ、カメラマンさん? 私の美しい肉体は撮れているかしら? って、早速置いてるし……⁉ ちょっと真面目にやってよねー』
『そう言われても……。でもほら、これでちょうど僕らが映るからオッケーだって』
『そう……? ま、それならよろしい。でもさ、何も考えずに撮り始めたけどこういうのってどうしたらいいんだろうね。思い出を撮ろうと思っても、すべてが最高の瞬間ってわけじゃないでしょ? こういうダラーっとしてるのも輝かしい思い出だって感じろ、ってこと?』
『せっかくの夏休みだっていうのに暗いね。ほら、ちゃんと撮ってあげるから、ウォータースライダーとか行ってきなよ。輝かしい青春は待ってはくれないぜ?』
『……さてどうしましょうかね。この暑い夏の日差しの中、こんな女の子が一人でいるところを見たら、世の男の子は普通放っておかないと思うですけど?』
『それってもしかしてナンパのこと言ってる? それなら僕がしっかり守ってあげるから安心しなよ。さ、行こう、アリサ!』
『ふふーん。守ってくれるって言質、取ったからね!』
『え⁉ 言質取られた⁉』
そこで最初の動画は終わっていた。アリサに視線を向けると、この場を去ろうとした足取りを百八十度回し、フェンスに背を預けて月を見ていた。
見るならご勝手に、とでも言っているような投げやりな態度だ。
(なんだ、この微妙な気まずさ。破局したカップルか何かなのか、自分らは……?)
気を取り直して、次の動画ファイルを見る。日付と時刻から見て、プールの動画の直後だろう。
『ふー、遊びきれたね、アリサ』
どうやら電車の中での撮影のようだ。二人とも夏らしいラフな格好をしている。
『やっぱり人が大勢いるところは苦手。今日は黒乃と一緒に居たから平気だったけど、変な目的で近づいてくる人いるからさ。だから君には感謝しているよ。本当、ありがとね』
『アリサの役に立てたならよかった。またいつでも誘ってよ。家賃の為とは言え、折角の夏休みだってのにバイト三昧は気分がアガらないからね。……そうだ、今度は海とかどうかな。ほら、僕らって直に海を見たことってないだろ? 最近人が少ない良い場所があるって、バイト先で教えてもらったんだ』
『……うん。良いと思う。ナイスアイデアだよ、黒乃。絶対に行こうね、約束!』
『ああ、約束』
動画はそこで終わった。