『もう一人の何者でもない誰か/Atonement kills God』
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とある無人島――夜代蓮たちが設営した仮設テントを流用し、武骨なデザインの黒い仮面をつけたスーツ姿の男『K』はそこで、歩くスーパーコンピューターを実現させるために開発されたアンドロイド、ジョイと共に彼らの到着を待っていた。
時刻は午前三時過ぎ。灯りと熱を確保するための焚火がばちばちと音を鳴らす。
『K』がその身に宿した『ヘヴンズプログラム』には暴走の危険性があった。だからこそ制御AI『ケース』を未完成の状態とはいえ強奪し、システムの完成を急いだ。
『すべての戦闘行為を中断、禁止する』能力を持つ『十二番目の剣』が二度使用され、四十八時間の休戦時間が生まれた。そして今、およそ二十六時間が経過したところで結論が出た。出てしまったのだ。
「――『K』、残念ながらやはりこの未完成AIでは……。『K』の『ヘヴンズプログラム』の暴走因子は、剣崎黒乃のモノと比べて遥かに狂暴化しています。一時的に完成状態にすることは可能ですが、永続的には不可能――時間にして一分ほどが限界でしょう」
テントの中のベッドで横になっている『K』に、ジョイはそう報告する。
『K』の精神状態は酷いものだった。戦っている最中は、己の背負ったものが体を突き動かし迷い悩むこともなかった。しかしそれ以外の彼は、ある種の鬱病患者に近いものがあった。
「……例えるなら、あの男と比べて私の方が重症だから、あの未完成ワクチン程度では治療できないということか」
その声は重く、暗い。スーツのジャケットを脱いで放り、ただ項垂れる。
「あと一人……あと一人エルネストを殺せば、神は――『イノセント・エゴ』はこの世界に顕現し、その殺害が可能になる。もうすぐ終わる……。だというのにピースが揃わないのでは……!」
「ノット――『K』、私を殺してください。私の中には人間の感情のデータが揃いつつあります。あとは死のデータだけ……私を殺し、そのデータをシステムに組み込めば制御AIが……!」
「――駄目だ!」
『K』は自分の胸に手を当てる。怒鳴ったかと思えば、すぐに泣きそうな表情になる。まるで今の『K』としての人格と、過去に捨て去った剣崎黒乃としての人格がせめぎあっているかのようだった。
「俺の――私の内側のフィーネ・ヴィレ・エルネストが、『Ⅻ』のカードがこう囁いてくるんだよ。『すべてのモノを愛し、すべてのモノを尊び、決してその光を汚してはならない』とな。ああッ――誤算だった‼ 私は完全なエルネストでないが故にカードを影響を受けないと思っていたが……『ヘヴンズプログラム』が私を変えてしまったのか⁉ 私はもう……私自身が誰なのか……分からないんだよ……」
――追憶する。遠い記憶。『彼女』と同じように、『K』が『剣崎黒乃』を捨て、何者でもない存在へと至ったその過程を。
世界を一つ終わらせた、愚かな男の物語を。
✿
すべてのきっかけはなんだっただろうか。二つの世界は同じ景色を持ちながらも差異がある。
こちらとあちらの存在にどのような差異があるのか『K』は知らない。
ただ少なくとも言えるのは、『K』があの日、病院という鳥籠から羽ばたくために翼を広げたのは、決してアリサ・ヴィレ・エルネストと出会ったからではないということ。
あの日出会ったのは白髪紫眼の少女でも、その兄でもない。
未来からの来訪者たちだった。
夜代蓮に『モノクローム』潜入のためのカードになると言われ、『K』は『モノクローム』に向かった。
そこで対決したのは『欲望』――つまり『ⅩⅢ』のカードを持つエルネストだった。
『K』はそこで『ヘヴンズプログラム』を覚醒させ、相手を撃退。その時は勝利の余韻に浸り、何も考えずに『起源選定』を破壊し、世界の未来を取り戻すことだけを考えていた。
――そして『K』はある手段を考えた。『ヘヴンズプログラム』を使えば『イノセント・エゴ』に感情を与え、あくまでも話し合いで『起源選定』を終わらせることができるのではないか、という手だ。
それを蓮に、スズカに、セラに、澪に、ルドフレアに話し、名案だと笑って褒めてくれた。
問題は未完成の『ヘヴンズプログラム』をどう完成させるかだった。
この世界の黒乃は研究資料を手に入れたルドフレアの天才的な頭脳によってシステムを完成させたが、『K』の世界のルドフレアは資料を入手することなく、ひとまずエルネストのカードを手に入れてそれを媒体に感情のデータを学習させる方法を提案した。
あの時の彼らを止めるものは誰もいなかった。エルネストの命を奪わなくても、カードだけ貰えればそれで良いと思っていた。
無論、ほとんどのエルネストは話し合いを拒絶し、戦いになった。そして戦いの果てにカードのみを奪い、『K』たちは次のエルネストのカードを求めて旅をした。
その裏でカードを失ったエルネストが『心無き者』に堕ちていくことを知らず。
そして世界に配られた六枚のカードを手に入れ、もう一つの世界へ渡ることを考え始めた時、世界が敵になった。
『モノクローム会合』を発端として『組織』の本部と支部でテロが発生し、多すぎる死者を出した。
世界中の魔術師が憎しみに駆られていた。家族や仲間を失い、怒りの矛先を求めていた。
そして剣崎財団がテロに関与していることが露呈し、代表の剣崎惣助は雲隠れ。矛先はその弟に向いた。だがそれだけではなかった。世界では『心無き者』による蹂躙が始まっていたのだ。
やがて未来からの来訪者や『ヘヴンズプログラム』――『起源選定』、『エルネスト』のことが世界中の魔術師に露呈し、憎しみは『K』に集められた。
蓮たちは最後まで仲間でいようとしてくれたが、世界の未来を天秤にかけて――敵となった。
『K』を殺し、『ヘヴンズプログラム』を他の誰かに託す。それが世界の総意だった。
誰もが英雄になることを願い、誰もが悪を撃つことを誓った。
『K』は敵となったかつての仲間を皆殺しにして逃亡。その果てに待っていたのは、罪悪感と絶望、極度のストレスによる精神汚染。
記憶障害などを引き起こしつつ、『K』は桐木町に戻り、そこで『組織』の人間に捕縛され――『ヘヴンズプログラム』を抽出するために研究施設に連れていかれた。
最初は監禁と拷問だった。『ヘヴンズプログラム』を取り出す方法が殺す以外に見つからない以上――楽に死なせるものかという憎悪があった。
幸い世界の崩壊までは十年もあったから。思う存分に『K』は痛みと苦しみを与えられた。
だが世界は、二〇二〇年を待たずに『心無き者』によってあっけなく終わった。しかし『ヘヴンズプログラム』という神にすら対抗できる力を持っていた『K』は――生き残ってしまった。
十年の間――ずっと彷徨っていた。体は『ヘヴンズプログラム』を纏ったまま、暗い地下牢のようなところに放置されていたが、精神はずっと闇の中をもがき続け、果てのない苦しみを覚えていた。
ある日――光が差した。
蓮たちが使うはずだった、過去へ行き、未来へ戻るための、一往復分の力を秘めた眩きバタフライ。それは過去へ飛んだ蓮たちが未来へ戻ることなく死亡し、あと一度だけ時を超える力を持っていた。
そしてその時、既に『ヘヴンズプログラム』は暴走するレベルまでバグに侵食されていた。それはつまり、強制的に完成状態へと引き上げられることで、自我を失くしながらもすべての剣を使える条件が整っていたということだ。
時を超えるのと、世界を超えることのどちらが先だったのか――もはや覚えていない。
それでも目を覚ました時、『K』は二〇一〇年の『幽玄世界』に居た。場所はエジプト。広大な夜の砂漠の中で、仰向けになって星を見ていた。
空は広かったが、視界は右目を失くしたおかげで狭く感じられた。
その時の彼に残っていたのは僅かな自我と世界を一つ終わらせたという事実と、そしてこのような運命を仕組んだ神を顕現させ、殺せるだけのチャンスだった。
『K』はいくつかの記憶の欠落を抱えながら、それでも未来を取り戻すことを決めた。
――未来は取り戻す。神を殺して、人類を運命というくびきから解き放つ。
そうして彼は、剣崎黒乃を捨てて、忘れて、『K』となった。この十年で身長は伸びたが、体重は落ちた。削ぎ落した己の分だけ。顔も、度重なる拷問で別人のようになった。髪も瞳もエルネストに寄ってしまった。
男は再び――戦う道を選んだ。それがせめてもの贖罪になると信じて。
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夜明けの直前に一台の高速艇が無人島に辿り着いた。船にはスーツ姿のジェイルズと、ゴスロリ衣装のレベッカ、そしていつも通りの目立たない服装をした何物でもない『彼女』が乗っていた。
いくつかの物資を抱えて、先にジェイルズが焚火を目印に仮設テントに辿り着く。
「――やあ、『K』。その様子では思いのほか満身創痍といった感じだが、とりあえず何か食べるといい」
紙袋の一つを渡す。中身は非常食――と思いきや、どこかの店で買ったのだろうサンドイッチやらパンダの顔を模したクリームパンなどが入っていた。
「……」
「おいおい、そう不満そうな顔をしないでくれよ。ユーはサプリや完全食の方が好みかもしれないが、食事はきちんと行った方が、肉体的にも精神的にもいいんだぞ?」
「不満はないさ。だが、今の私を客観的に見て、こんなものを食べるのはどうかなと思っただけさ」
『K』はパンダパンを手に取り、ジェイルズに見せつける。
過去の自分なら笑顔を浮かべて食べたかもしれないが、今の『K』にはどうもミスマッチだ。
「ま、似合わないのは認めるがね」
『K』は何も言わずパンを袋に戻して、代わりにサンドイッチを手に取った。食事をするような時間ではないが、補給はできるうちにしておいた方がいいだろう。
ジェイルズは適当に取ってきたレジャー用の椅子に座り、状況を報告する。
「君の言う十二番目の剣とやらを使わせたよ。使用者は剣崎黒乃だ。時刻は午前二時十二分。次の開戦は明日のその時間さ。そして物資以外にもお土産が一つ。そろそろレベッカが連れてくるはずだ」
噂をすれば影。足音が聞こえた。それも二人分だ。『K』が視線を向けると、そこにはレベッカと白髪紫眼の彼女がいた。
「……驚いたな、まさか君が来てくれるとは。カードを捧げてくれる決心がついたのかな、アリサ。いや、ソフィと言うべきか」
『K』は静かに立ち上がり、彼女の前に立つ。二人の視線は重なり、けれど言葉は中々出てこない。それでも焚火の音が静寂を許さない。ばちばちと音が鳴る中、『K』はそれに気づいた。
彼女の目に、死んでたまるものかという生命への執着が浮かんでいることに。
もう彼女の中に『破滅願望』は存在していない。あるのはただ、愛する者を手に入れたいという我が儘だ。
「――私は」
彼女が静かに『K』を見返す。
「私は今、アリサでもソフィでもない。あなたと同じ、何者でもない誰か。だから私は望む自分を掴み取るためにここへ来た」
「ほう? だがそれで良かったのかな。確かに今は『十二番目の剣』の効果時間内だ。世界で一番優しい時間が流れている。それでも――手がないわけではない。例えば、二番目の剣には他の魔術や剣の能力を無効化できる能力があるのだがね」
「知っているわ。私は『十四番目』よ。だから『二番目の剣』の効果も、そしてその条件も知っている。確かにあの剣は他の力を無効化できる。でもそのためには無効化する対象の力が発動した時に、同時に発動しなくてはならない」
「その通りだ。確かに、既に発動してしまった以上、今の二十四時間は無効化できない。だが――次は違う。君が持っている『十二番目の剣』なら、無効化できる」
無論、彼女は正しく理解していた。次の休戦はない。今発動している効果が切れた時、いよいよ最後の戦いは始まる。
「――ああ、そういえば『K』。実は彼らの船にはプレゼントを置いてきた。爆弾だよ。彼らはおとりに使ったものを一つ解除してそれで満足しているだろう。次にその剣とやらの力が発動しないなら、起爆スイッチを押してそれで終わりさ」
「だ、そうだが?」
「そんな手が通用するほど、彼らは弱くない。黒乃はすべての記憶を取り戻した。あなたが失くした過去を拾い集めて、それを強さに変えた。そんな彼に影響されて、他の人間も未来へ向かう強さを手に入れた」
『K』が取り溢した、アリサとの最初の出会い。あの夏の日の記憶。永遠に封印されたまま消失した起源の記憶。託された想いなどない。『K』が背負っているのは闇より深き業だけだ。
「黒乃は――必ず幸せな結末に辿り着く。すべての想いを背負って、あなたを倒しに来る」
「――そうか」
それだけ言って、『K』はその身を翻す。彼女に何を言っても無駄だと悟ったのだ。
剣崎黒乃――彼が未だ、どのようにして『イノセント・エゴ』からこの世界を開放するのか分からない。だがおそらく、以前アリサが語ったような不確かな希望を求めた方法に違いない。
――反吐が出る。
希望だとか、可能性だとか、そういった曖昧なものを求めても待っているのは悲劇だけだ。
幸せな結末を求めて、一つの世界は破滅を迎えた。だからこそ最も確実に――神を殺す以外の道はない。例えそれが醜い手段だったとしても、正義に対する悪の所業だとしても。
「JB、レベッカ、そしてジョイ。もう少しだけ私に付き合ってほしい。構わないだろうか」
「無論だ。ユーには恩もある。それに私は彼、夜代蓮と決着をつけてやらなければならない」
「右に同じ。セラ・スターダストの方もボクと決着をつけたがってそうだし」
「どこまでもお供します。『K』」
『K』は三人の返答を得て、静かに頭を下げた。
「その言葉――感謝する」
再び、『K』の心に炎が灯る。地獄の業火――己の身すら焦がし尽くす、これまで背負ってきた怒り、憎しみ、慟哭。そのすべてに誓う。神を――必ず殺してみせると。
(剣崎黒乃が幸せな結末を掴みに来るというのなら、私はそれに立ちはだかる悪となろう。だが黒乃――過去の私自身よ。世界を一つ終わらせた男の悪を、ただの悪と見誤らないことだな――!)
そうして、時は流れていく。最終決戦の火蓋が切って落とされる――その時まで。