『決戦前昼/Two hairdressers cut each other's hair』
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三月二十五日午後一時。ヴォイドの命は還り、ソフィは敵と共に決戦の地へ向かった。『起源選定』は緩やかに終局へ向かっている。
――最終決戦の時まで残り十二時間を切った。
連日の昼夜逆転により見事に生活リズムが狂ってしまった一行は、何はともあれ羽を休めていた。
今起きているのは黒乃、蓮、スズカの三人、そしてとりあえず拘束してある五人の襲撃者だけだ。
黒乃は一人でラウンジに。
「スズカ、今、大丈夫か?」
そして蓮はスズカの部屋を訪れていた。相変わらず堅苦しいスーツ姿だが、ジャケットは脱いでいた。
「ええ。何かご用ですか?」
スズカも私服がすべて燃えてしまったということもあって、白いシャツにスラックスと蓮と変わらないシンプルな服装。
とりあえず蓮を部屋に入れたスズカは、どこからか持ち込んだ電気ケトルでお湯を沸かし、手際よく紅茶を入れる。
「実は……その、頼みがあるんだ」
「頼み、ですか?」
蓮はすっかり定着しかけている自分の長い黒髪を片手で束ね、それをスズカに見せる。
「髪を――切ってほしいんだ」
そうして、蓮の散髪の準備が始まった。まず始めたのは椅子の下に新聞紙を敷くところから。次にタオルを巻き付け、散髪ケープは大きいゴミ袋に穴を空けて代用した。
「……なんだか、やけに間抜けな格好だな」
苦笑しながら蓮が呟く。まるで何かのコントでもやっているようだ。スズカもそれを見て小さく笑みを溢して、ハサミを手にする。専用のものでもなんでもないただのハサミ。
「でも本当にいいんですか? レンタカーを使って美容室に行った方が良いと思うんですけど」
「ああ、いいんだ。スズカに切ってもらいたい。前髪は以前と同じように、後ろは肩にかかるくらいが理想だな」
「思いのほか注文付けてきますね……。言っておきますけど、私、素人ですからね。ハサミだって専用のものじゃないですし」
思わず苦笑いがこぼれるスズカ。とはいえ蓮も本気じゃないだろう。そんなちょっとした冗談の仕返しにと、ハサミを構え綺麗な黒髪に刃を通す。
パチンッと子気味の良い音が響いた直後、スズカは少し声のトーンを変えて――、
「あ」
「あ、ってなんだ⁉」
「いえ冗談です」
「……冗談でも不安になることを言うな」
パチンッ――。
「あぁ‼」
「より深刻な声に⁉ 今度は本当のやつなのか⁉」
「いえ、冗談です」
「演技派だな……!」
「おかげで蓮くんを騙せました」
「やっぱり本当は失敗したってことか⁉」
「ふふっ、証拠隠滅は簡単です。ああ! さらに髪が!」
「もう余計なことはするな‼」
珍しく会話劇を繰り広げつつ、なんだかんだと手際よく蓮の髪は切られていく。
結局のところ蓮が、三月二十四日の日の出と共に再び消失した織と何かを話すということはなかった。
彼女が蓮に遺したのは長い黒髪。夜代織という存在の名残とでも言うべきそれだけだ。
だが、それだけで充分だったのかもしれない。蓮は明確に変化した。織がいなくとも、蓮の周りには蓮を変えてくれる存在がいた。それでも遺してくれたこの髪は、心の変化に外見が伴うようにという意味での、ほんのささやかな気遣いなのだろう。
「ジェイルズ・ブラッドの対面した時の蓮くん、今までで一番かっこよかったですよ」
「『組織』に居た時、訓練だか講習だかで心理学に触れたことがある。今までの、自分しか見えていなかった俺では知識を生かしきれなかったが、今は違う」
自分に目を向けることをやめ、他人を知る努力をする。それは今の蓮に必要なことであり、蓮自身が望んでいることだ。
やりたいこととやるべきこと――それが一致した今、蓮は一つ新たな扉を開いた。
「相手の思考をトレースする――自分を空にすれば、それもできるだろう」
「でも、それは危険な行為です。自分が相手になるということは、相手が自分になるということ。ほら、深淵がうんぬんかんぬんというやつです」
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている、か」
犯罪者を取り締まる警察官が、犯人の思考、心理を熟知することでその人間性が犯罪者の側に寄ってしまうこともある。犯人に同情し、裏切りを行う交渉人だって例がないわけじゃない。
一歩間違えれば、深い闇の底へ引きずり込まれるだろう。
けれど蓮の中に、不安はなかった。理由は簡単だ。
「でも、スズカが俺を覚えていてくれるだろう? 今の俺を、今までの俺を。そしてスズカが覚えていてくれる限り、俺はそこへ帰ることができる。君が俺の帰る場所なんだ」
不意に、スズカの手が止まる。
「……それ、もしかしてプロポーズ的なものだったりしますか……?」
「いいや。今、結婚しようなんて言ったら死亡フラグだろ?」
スズカの手は止まっている。今はダメだというのなら――ならば戦いが終わった後は?
未来を取り戻し、二〇二〇年に戻ったあとはどうなのだろう。考えるだけで胸が高鳴り、顔が熱くなっていくのを感じる。
「……すまないスズカ、少し考え事をするから目を瞑るよ」
「え、ええ。それは全然……大丈夫です」
「次の戦いが最後になる。これまで俺たちは常に先手を取られ、後手に回ってきたからな。――最後はこちらから仕掛けさせてもらう。そのための策を考え、準備を整えなければ――」
そう言って、蓮は静かに目を瞑った。きっと声を掛ければ返事をしてくれる。眠ったわけではない。ただ集中しているだけ。
だからスズカは静かに散髪を再開した。
(蓮くん……意外と攻めてくるんですね)
パチン、パチンと子気味の良い音がどこか子守唄のように響いていた。
★
「蓮くーん、起きてくださーい。涎が垂れちゃってますよー」
「ん……あぁ、すまない……いつの間にか寝ていたのか」
涎を垂らすほど気が緩んでいたのか、と口元を袖で拭いながら目を開ける蓮。
しかしおかしい。口元には特に変な感触はない。特有のどろっとした感じもない。
「な――なにぃ⁉」
それでも確かに、何かが垂れていた。いや、少なくともよだれが垂れるとかそういうレベルの話ではない。
目の前は大洪水だ。近くに転がったカップから見ておそらくは机に置いておいた紅茶がこぼれて、この光景が完成したのだろう。
「嘘を吐いてごめんなさい。でも蓮くん中々起きてくれないので、いろいろ呼び掛けてたんです」
「そりゃ情けなく涎を垂らしていると言われたら目も覚めるが……にしても何故紅茶がこぼれているんだ?」
幸い散髪ケープ代わりにしていた大きめのゴミ袋が水分を弾いてくれたので、被害という被害はない。
まあカーペットに染みを作ってしまったことは申し訳なく思うが……。
散髪も終わっているようなので、慎重にゴミ袋ケープを脱いで後片付けの態勢に入る蓮。
すると視界に見覚えのあるものが入った。
それは切っ先から柄まで、そのすべてが黒く塗りつぶされた日本刀――『夜束』だった。
「いえ、実はこれを拝借してきまして。それで普段、日本刀を触り慣れていない私は、振り向きざまに鞘の先でティーカップを落としてしまったんです」
一通り片付け終わり、申し訳なさそうな様子のスズカ。確かにスズカが戦闘時に使うのはヴァイオリン。日本刀とは重さも長さも違うので、そんなハプニングも決してあり得ないとは言えないだろうが。
「まあ一応納得した……が、それにしても『夜束』を何に使うつもりだったんだ?」
蓮が椅子の下に敷いた新聞紙を片付けようと手を掛けた時、スズカがちょんちょんと袖を引っ張った。
「それはそのままで大丈夫です。まだ、使いますから」
その時、蓮はすべてを理解した。きっとこれまでの蓮だったら気づかなかったことだ。
「スズカ……まさか」
蓮は近くの机の上に別の新聞紙を用意してから、『夜束』を携えて椅子に座るスズカを見守る。
スズカの髪は長い。記憶を失う前も、その後も、ずっと伸ばしてきた髪だ。普段はポニーテールにしていて、それでも腰に届くほどの長さがある。
「――――」
髪留めを解く。長い黒髪は椅子に座っていることもあって、毛先が床に触れている。それを一束にして左手で首の横に持ってくると――右手にはいつの間にか抜き身になった黒い刃。
まるでヴァイオリンを演奏するような態勢で、『夜束』という弓を、髪という弦に添える。
――そして、鋭い刃は迷いなく弾かれた。
あれだけ長かった髪は一瞬にして肩にかかるくらいにまで短くなり、切られた髪の束は机の上に広げられた新聞紙に置かれる。――アレはおそらく、この先使うのだろう。
そして丁寧でどこか神聖さすら感じる仕草で『夜束』は鞘に納められる。
「ありがとうございました。これ、お返しします」
『夜束』を手渡される。
「……良かった、のか?」
「ええ。髪はまた伸びますし、それに私は、もう一人の私のためにもっといろんな経験をしたいんです。あ、いえ、こう言うともう一人の私を言い訳にしているようであれなんですが……とにかくいろんな髪型をするのって女の子的にすごく良いことなんですよ。だから私も、そうしたいなって」
蓮はその言葉を噛み締めるように、無言だった。
「そしてこれは、蓮くんにあげちゃいます」
「……ん?」
軽やかな動作で渡されたのは、それまでスズカが使っていた髪留め用の紐だ。色は黒でデザインはシンプル。女が使うには少し派手さに欠けるかもしれないが、男が使う分には問題ないだろう。
「……見抜かれてるな」
蓮はそれを慣れない手つきで扱い、後ろ髪を一本に束ねる。
ポニーテール――これまでの蓮とは全くイメージの違う髪型だが、どこか物腰が柔らかくなったようで、とても似合っている。
(ふむふむ、これは……破壊力すごいですね……)
というか似合いすぎて、スズカは内心危機感を覚えていた。これまでシャープだった雰囲気が、甘く柔らかくなった感じで、これは女を落とせそうな感じだ。
「まあ、これでポニーテールの引継ぎもできました」
そしてスズカは先ほどまで自分が使っていたハサミを蓮に差し出す。
「ちょっと待て、俺には無理だ」
「大丈夫です。後ろの切断面をちょっと整えてくれればそれで」
「切断面って……変な言い方するな」
結局変なところで絶対に譲らないスズカの姿勢に折れた蓮は、不器用ながらも器用を気取って挑戦する。人間、できないこともできると強がることで、意外とできてしまうものなのだ。確かそんな話を過去の講習で聞いた、と蓮は思い出す。
同時に、今まで強がり続けていたからこそ中途半端にリーダーが務まっていたのかもな、と自嘲。
「でも本当に良いのか? 俺が髪を切って」
「ええ。蓮くんだからいいんです。蓮くんも、髪が長かった私のこと、ずっと覚えていてくれますよね?」
「――あ、ああ」
パチン、と少しテンポの悪い音が響く。失敗しないよう慎重に、手元にあれば定規だって使うだろうと思うほど慎重に髪を切る音。
「私にとっても、蓮くんは帰る場所なんですよ。私に一番大切だと思える居場所をくれたのは蓮くんなんですから」
「そ、それは……」
「……少し、考え事しますね。決戦で使う『共鳴歌』で奏でる曲と曲順を綿密にしたいので」
そう言って、スズカは静かに目を閉じた。きっと髪を切る蓮の手のもどかしさに不安はあるだろう。それでもスズカは、蓮を信じてすべてを預けた。
(スズカ、意外と攻めてくるんだな……いや、俺が今まで目を背けていただけか。スズカはいつも――)
★
午後一時、一人でラウンジへ向かった黒乃はそこで襲撃者の一人に話しかけた。
「こんにちは。こうして全部思い出すと分かるな。貴方とも随分長い付き合いみたいだ」
黒乃が話しかけたのは迷彩服を着たスキンヘッドの男。五年前、一年前、二週間前、そして今日。こうして顔を合わせるのは四回目だ。もっとも向こうは、黒髪黒眼から白髪紫眼へと変わり果てたその姿を剣崎黒乃だとはまだ認識できていないようだが。
「それにしても兄さんも妙なところで心が広いっていうか、三回失敗して四回目があるなんてね」
「……お前、剣崎黒乃なのか? 随分と洒落た格好になっちまったじゃねえか」
両腕を後ろに回しそのまま手錠をされた状態で、男は黒乃を見上げる。
「悪いけど、お前らと話すことはもうない。僕には僕のやるべきことがあるからね」
最終決戦は近い。そしてその後――どのような選択をしようとも、黒乃の役目は戦いに勝利するだけでは終わらない。だからその前に、片づけるべきものは片づけなくてはならない。
「殺すつもりか?」
「まさか。あの爆弾だってフレアが解体してくれた。僕はただ、お前らが今後僕とその周囲の人間に関わらないようお願いするだけさ」
そう言って、黒乃は男の内ポケットから携帯電話を取り出した。登録された番号は一つ。名前は登録されていないが、相手が誰だか理解している。わざわざ殺し屋を雇うほどに黒乃の存在が邪魔な奴。答えなど考えるまでもない。
携帯電話にルドフレアに用意してもらった小型のアタッチメントを付ける。
「――――」
そして通話ボタンを押す。今は時間的に昼食を取っていてもいい頃合いだろう。特殊な取り決めがない限り電話に出る確率は高い。
『――――』
コールが通話に切り替わるが、しかし返事はない。どうやら出方を見ているようだ。
本来なら相手がそう出た場合、こちらも無言のままで出方をみてどちらが先に主導権を握るかを巡るところなのだが、この際もうどうだって構わない。時間の無駄だ。
黒乃はそう思い、できるだけ声音を柔らかくして声を発する。
「やあ兄さん、黒乃だよ。今、例の五人の前にいる」
『ッ……なんだと?』
驚きの声をあげたのは剣崎惣助。天下の剣崎財団の当主様も、雇った殺し屋の携帯を使って殺害対象から電話がかかってくることに驚愕したらしい。
黒乃は冷たい声音で語り掛ける。
「悪いけど説明している時間はない。端的に言うと僕はもう記憶喪失じゃないんだ。『モノクローム』で会った時とは状況が変わった。これから要求を伝える」
『要求? ふんっ、そんなものが通る立場だと思っているのか? 薄汚い売婦の子供がどの口を叩く?』
母親への侮辱。普段なら怒りさえ覚える。だが怒りを覚えるだけ無駄なことは理解している。だからなんとも思わない。今の剣崎惣助へ抱く黒乃の感情はこれまで出会ってきた人たちの誰にも抱くことのなかった、失望――見限るというものに近い。
惣助は財団を手に入れ、そして魔術の世界に手を伸ばそうとした。それも秩序とは無縁の過激な組織に。その結果、未来の一つでは『組織』への同時多発テロが勃発し多くの犠牲を出した。過去改変の結果、この世界にその未来は訪れないとしてもその事実は忘れてはいけない。
「そんな暴言が吐けるということは、少なくとも録音してないみたいようだね。それは良かった。これで剣崎財団の当主が変わることはなさそうだ」
『……なん、だとぉ?』
声色が変わる。威圧的に相手を追い詰めるものから、わずかに後ろめたさを孕んだものへ。
「父である剣崎総一郎と血が繋がっているのは僕だ。そして剣崎惣助、貴方は父さんの養子であり血縁関係はない」
『仮に……だとしたら? 遺産の話か? ならば問題はない。もし仮に血縁関係がなかったとしても正式な手続きさえ行えば、実子と同じ権利を――』
「そんなことは分かっているさ。だからそこで話を終わらせちゃだめだ。一番の問題は、貴方が僕を愛人の子供だと話をでっちあげて、排除し、剣崎財団の実権を握ったことにある。貴方は欲をかいて最も愚かなことをしてしまった。このことをマスコミにリークすればどうなるか、分かるだろ?」
『……ふ。……フハハハハハ‼ そんな馬鹿な話を誰が信じる? 話をでっちあげているのはお前だ。嘘を吐いて兄を陥れようとするのは良くないことだなぁ?』
惣助が次に口にする言葉を、黒乃は予測し先に言ってやる。
「証拠ならある。そう言ったら?」
『――――』
言葉は帰ってこない。
「父さんのDNAデータを使い、鑑定を行えばいい。いや、一度は行ったはずだ。周囲の人間を納得させるために、結果を改ざんして大きく見せてやったはずだ。だったら改ざんを行った人物を探して、証言を頼めばいい」
『――なんだ、その程度か。この俺がその程度のリスクヘッジをしないと本気で考えたのか?』
「じゃあ何をしても、貴方が鑑定結果を改ざんした証拠は出ないっていうのか」
『当たり前だろうが、馬鹿が!』
惣助の高笑いが聞こえる。それには黒乃を見下す感情と、どこか安心したような感情が入り混じっていた。それもそうか。絶対にバレない、絶対に知らない、知られないはずの事実をいきなり突きつけられて、パニックにならない方がおかしい。
動揺の大きさは罪の大きさに比例する。財団を多少成長させる手腕はあれど、命を懸けた極限下での駆け引きは黒乃が一枚上手だった。
「なあ、確かに貴方はこの通話を録音していないようだが――僕はそうは言ってないぞ」
『……は?』
「僕は――この会話を録音していないなんて一言も言っていない。今、貴方は過去の鑑定結果を改ざんしたことを認めた。証拠は今、この瞬間に完成したよ」
『……ふざけるな‼ でたらめだ‼ いいや、たとえ本当だろうと、マスコミにリークされようと、揉み消せばいい! 財団にはそれだけの力がある‼』
「なら『組織』はどうかな? 他の魔術組織だっていい。『モノクローム』の完成記念式典で、貴方は魔術の世界に触れようとした。それも巨大組織に反抗する犯罪者のような組織と。運よく相手は全員死亡しある意味で貴方は助かったが、事実は消えない」
『……馬鹿な、何故あれのことをお前が……』
「さて――改めて要求を言わせてもらおうか。まあ安心してよ。これが済んだら、僕は剣崎の家を出る。財団は完全に貴方のものになる。この通話の録音も消す。僕らは一生関わることなく生きていくんだ」
これも一つの道だ。争いを避けるために、関わりを拒絶する手段もある。
本当ならやはり、複雑な関係だとしても兄として仲良くなりたかった部分はある。
みんな幸せに笑えるハッピーエンドが良いと思う。
だから、今は無理でもきっと未来はと――人は希望を託すのだ。
そうしてこの日、黒乃は剣崎の家を捨て――代わりに未来へ繋がるものを手に入れた。
具体的には大量のお札的なものを。