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『すべてを受け入れよう/See you someday』

 黒乃(くろの)(れん)の攻防は続いていた。互いに磨き上げた肉体を使い、経験、技術――そのすべてをぶつけ合う戦い。


「はぁッ――!」


 黒乃の力強い右ストレートを、蓮は軽くいなして、足技で腹部を狙ったカウンターを返す。


「――!」


 黒乃はすぐに反応し、左手で防御してから即座に姿勢を低くし一度蓮の視界の外側に出る。

 そして足払いを仕掛けるが蓮はそれをステップで避ける。隙が大きくなるジャンプではなく、紙一重で攻撃を避けるステップを行うことで隙を見せず、さらに次の攻撃へスムーズに移行できるのだ。


 蓮は両手で交互にジャブを繰り出し、その後に足を大きく使った回し蹴り。黒乃は咄嗟に姿勢を低くしてそれを回避し、顔面を狙ったアッパーを狙う。無論、蓮はそれに反応する。アッパーが顎に直撃する寸前に横から左手を使い軌道を逸らし、逸らした拳を右手でさらに弾く。

 最低限の動きで反撃に出た蓮は左手で手刀を作り、そのまま黒乃の顔面を狙うが、しかし黒乃はそれを避けた。


 しかしそれも想定内。そこまで読み切って、最後に蓮は黒乃の胴体に思いっきり肘鉄を叩き込んだ。


「――ッ‼」


 そこでようやく一発食らった黒乃――だが、やられっぱなしというわけにはいかない。

 肘鉄を食らい氷の地面へと倒れゆく黒乃は、痛みを堪えて即座にバク転をした。正直着地ができるか怪しいほど強引な動きだったが、狙いは蓮と距離を離すことではなく――肘鉄の仕返しだ。


 先ほど失敗したアッパーを、今度は足で繰り出したのだ。予想外の反撃に蓮の反応は一歩遅れ、攻撃は成功する。


「ッ――⁉」


 そうして互いに一撃ずつ攻撃を受けた二人。実力はほぼ互角。仕切り直し。蓮から距離をとった黒乃が叫ぶ。


「なあ! やっぱり僕には、何度もすごい戦いを経験してきたお前に勝てない部分があるよ。それでも今のところ互角なのは、お前に勝つ気がないからじゃないのか!」


 蓮は死線を何度も潜り抜けてきた経験からくる実力。

 黒乃は体は鍛えられているが実戦経験はゼロに等しい。それでもついていけるのは蓮の動きを読むだけの鋭い直感があるからだ。

 とはいえそんなもので埋まるほど、経験の差というものは曖昧なものではない。


 蓮はやろうと思えば、黒乃をねじ伏せることができるはずなのだ。


「お前の戦法はカウンター――ただ自分に降りかかる火の粉を払っているに過ぎない! 勝つ気がない。誰とも本気で向き合うことがない! それがお前の本質――なんだな」


「……知った風なことを言うな」


「なあ――蓮。スズカの記憶はもう戻らないんだ」


 強く――爪が掌を裂くほどに強く、拳が握られる。冷たい夜風に靡く黒い髪。それが隠す蓮の表情は、漆黒。蓮は体の奥底から絞り出したような声をあげる。


「お前に何がわかる――ッ!」


「だから教えろって言ってるだろ! 蓮……お前はもう逃げられるところまで逃げたんだよ!」


 一度目に織が消えた時点で、蓮は一度すべてを理解していた。スズカの記憶は戻らない。遠静鈴華(えんじょうすずか)はもうこの世には戻らない。それでも諦めきれず、事実から目を背けて、過去に希望を込めた。

 だが――その事実が変わることはなかった。与えられたのは絶望を受け入れるだけの時間だ。


 (みお)とセラが戦いの理由を見出すための時間が必要だったように。蓮には約束を果たせない、大切な人が戻らない絶望を、受け入れる時間が必要だった。そしてその時間はもう終曲に向かっている。


「これ以上マイナスに行くことはない。お前はもう前を向いて進まなくちゃいけないんだ! そうしなければ後ろを向いて逃げることすらできないぞ! なあ蓮、今ここに居るスズカはどうなる⁉ このままじゃお前のことを想って、お前と同じ痛みを一生背負い続けるんだぞ!」


 ヴァイオリンの音色が脳に響く。全身を包み込むような温かい音色。体の内側に囁かれる優しい声。


「なら――ならッ! 消えていく遠静鈴華はどうする‼ 俺が諦めたらあの鈴華は死んでしまうんだ!」


 あの日――遠静鈴華は笑って世界を救った。数日前まで自分を平凡な、どうってことのない女の子だと思っていた彼女は、他人に弱音も吐かずに、自分を犠牲にしたのだ。

 変わるきっかけをくれた彼女。守ると誓った彼女。記憶を取り戻すと約束した彼女。


 その一瞬――蓮は自分ではなく、遠静鈴華に目を向けていた。義務や正義じゃない。そんな仮面の奥深くに眠っていた最初の心――遠静鈴華への恋心。

 それが表層に現れた。


「――織が、言ってた。自分が死んでも誰かが覚えていてくれる限り、世界に生きていた証拠が残るって。確かにお前が諦めることで、遠静鈴華さんは一生戻らない存在になるのかもしれない。でも忘れるわけじゃない。お前やセラは覚えてるだろ。僕も織と同じだ。君らが覚えている限り、遠静鈴華さんはずっと君らの中にいると思う」


「そんな綺麗事で割り切れるわけないだろうが‼ 世界は、人の心はそんな簡単じゃない! 綺麗事を貫いて生きていけるほど単純じゃないんだ!」


 蓮は心のままに叫ぶ。感情を吐き出す、ぶつける。それを真正面から受け止める黒乃は、初めて見る感情むき出しの夜代蓮という存在に少なからず驚いていた。

 ああ、そんな風に叫ぶこともできるんじゃないか。と。


「それでも――僕は綺麗事を貫きたい。託された想いを背負い、それを未来へ、悲しみが終わる場所へ繋げる。それが僕の役割だから」


 どこまでも真っすぐで、どこまでも輝かしいその眼差しに、蓮は怯む。黒乃はかつて一度、蓮と同じように挫折し、絶望し、そのうえで再起した。大切な存在を守るため。悲しみの運命を超えるため。

 神さえその瞳に捉えようとする男は――遠かった。


「……お前の話は、聞いてない」


「いいか、スズカはお前のことが好きだ。ならせめて、それを無視するなよ。好きな女の子の気持ちに向き合ってやるのは男の義務だろ?」


 張り詰めた空気を抜くように、黒乃はわずかな微笑みと共にそう言った。その雰囲気はどことなく織に似ていると――蓮は思う。


「……だが、俺はお前より弱い。他の誰よりも弱いんだ」


「だったら証明してみろよ。本気で僕と戦って、完膚なきまでに負けてみせろ!」


 黒乃は『十四番目(ジョーカー)』のカードを出現させ、青白い粒子を放つそれを強く掴み取った。

 未来を――光を掴み取る。これはそのための力だ。


「――変身!」


 『Awakening(アウェイクニング) Heavens(ヘヴンズ) Program(プログラム)』――『IGNITION(イグニッション)』。


 刹那、黒乃の存在は再び書き換えられていく。全身を纏う黒金のフレームに浮かび上がるラインは今は遠き蒼穹――青色。『ヘヴンズプログラム』を起動した黒乃は、凛々しき鎧をその身に、蓮と向き合う。

 そして蓮もまた――、己を書き換える呪文を唱える。


「――我、黒き(シュバルツ・)刃なり(ゼクフィート)


 黒と紫が交じり合った闇夜に怪しい灯りを浮かべるその姿――スズカの『共鳴歌(ヴィブレイド)』があってこそ形にできる蓮の力。思えば最初から答えは出ていたのかもしれない。


 一人では何もできない自分。一人では無力な自分。目を背けてきたのは遠静鈴華の記憶のことだけではなく、自分自身の弱さも含めてかもしれない。自分を弱いと嘲笑いながら、それでも成してきたことはあった。

 だからこそ、妙なところでプライドが形成されていたのかもしれない。


 つくづく面倒な自分だ。と、蓮は嘲笑う。これが最後だ。自分を嘲笑い――自分だけに目を向けるのは、自分を閉ざすのは。

 だからそのために、蓮は全力で黒乃と戦い、そして完膚なきまでに敗北する。

 そうしてようやく自分の弱さを受け入れて『遠静鈴華』を諦めることができる。

 前に――未来に進むことができるのだ。


「行くぞ――黒乃ォ‼」


「ああ――来いよ、蓮‼」


 黒乃と蓮が全力でぶつかり合う一方で、互いに剣を構えるアリサとヴォイドの戦いもまた進んでいた。

 胸に灯った光から引き抜かれた剣――『一番目の剣(ヴィクトリア・エース)』。それを握るアリサの手は震えていた。

 兄と繰り広げた剣劇に恐れを成してのことではない。アリサは既にこの戦いを、兄の最後を受け入れる覚悟ができている。


 ならこの手の震えは――何なのか。


「は――、ッ――はぁ……ッ!」


 息が上がる。体が思うように動かないが相手は待ってくれるはずもない。


「行くぞ、アリサ!」


 隻腕のヴォイドは逆手に構えた武骨な白銀の剣をアリサに振りかざす。それを正面から受け止め、アリサは衝撃に耐え切れず後方へ飛ぶ。


「……知らなかった。人と戦うことが、こんなにもツラいなんて」


 そう。アリサの手に力が入りきらない理由。自らのペースを掴み切れず、息さえ整わない理由。 

 それは『戦い』という行為そのものへの恐れだった。

 同時に、これまで何度もこんな思いを兄が味わってきたのだと思うと、どうしたって自分の覚悟が半端なもので、絶対に勝てるものではないと現実を突きつけられる。


 それでもアリサは剣を握る。構えなど我流だ。格闘術はヴォイドから教えてもらった型があるが、剣術など習ったことなどない。


 そんなアリサの想いを――戦うことへの恐れをヴォイドは見抜いていた。

 

「その程度か、アリサ。その程度の気持ちでお前は誰かの運命を変えられると本気で思っているのか!」


「ッ――!」


 両手に力が入る。奥歯を噛み締め、全身に熱を込める。ヴォイドの言う通りだ。この程度の恐怖を克服できないで、誰かの運命を変えることなどできない。

 エルネストの悲しみも、世界の破滅も――何よりソフィのことも。


「――すぅ、はぁ――――……ッ、‼」


 一度深呼吸をしたアリサは、剣を構えヴォイドに肉薄する。重なる刃と刃、甲高い音は鼓膜にねっとりと絡み、アリサは表情を歪ませる。それでも何度も剣を振り下ろす。ただの力任せではない。

 ヴォイドは片腕だ。手数だけで言えばアリサは圧倒的に有利なのだ。だからこそ、その優位性を見捨てることなく、拾い上げにいく。


「はああああああぁぁぁぁぁッ――――‼」


 アリサの繰り出す連撃。雑に見えて少しずつ相手の防御の癖、順番などを頭に入れていく。


「――やるな!」


 向かい来る袈裟切りをヴォイドは軽く刃で受け流すが、すぐにアリサは体術を絡めて態勢を変え、突き、そして右切上、そうして連撃の末に――一時は鉄壁とさえ思ったヴォイドの防御を突き崩す。

 これで勝てる。アリサは内心そう思った。ヴォイドの持つ剣を弾いた。これでは防御は間に合わないだろう。

 それでも、ヴォイドは防いだ。


「――――ッ⁉」


 簡単だ。剣が弾かれたのはフェイクだったのだ。強く握りしめた剣を手放すことなく、即座に逆手に持ち替え最低限の動き、最速の動作でアリサの斬撃を受け止めた。

 それも剣の柄で、だ。刹那――ヴォイドは受け止めた刃を押し返すのと同時に再び柄を持ち替え、そのまま振り下ろす。


 本来の模擬戦であれば、ヴォイドはすぐに剣を止めただろう。だがこれは文字通り最期の戦いだ。

 ここでアリサが負けるようであれば、この先に未来はない。


「――――」


 冷徹に、これまでアリサの前では見せることのなかった戦士の覚悟を持って、刃は煌めく。

 無論、アリサもそれを理解していた。ヴォイドの――兄の目が、今まで見てきたどの表情とも違うことなど簡単に気付けた。

 これまで見せることのなかった表情。見せないようにと隠してきた表情。平和を作るために戦いに身を投じた男の眼。


 アリサの思考は加速する。この刃を防ぐことができなければ、この先、生きていくことはできない。

 誰も守れない。何も成すことができない。何よりヴォイドが安心できない。


 とにかく何とかしなくてはいけない――その必死の想いのままに、アリサは右手で握っていた剣を消失させ、すぐに左手に再出現。そうしてギリギリのところで、ヴォイドの刃を受け止めた。


「ッ――、」


「そうだ、エルネストの剣は即座に出現と消失を行うことができる! 『K』はそれを使いこなしていたぞ!」


 ヴォイドは今この瞬間も、アリサに与えようとしている。自らの経験を、知り得る知識を――生きるための力を。どこまでも妹馬鹿な兄だ。アリサの中で何かが切り替わる。

 呼吸が整い、手の震えが収まり、そして向けた刃の重さをしかと受け止め。眼差しは再び未来へ向けられた。

 ――兄のいない未来の景色へと。


「はぁぁぁぁぁ――‼」


 アリサは剣を消失させ、込めていた力を利用してヴォイドの懐に潜り込む。ヴォイドは即座に牽制とバックステップを行い、剣を振り下ろせる距離へ戻したところで、本気を見せる。

 そう、これまでのは授業の一環だ。あとは本気のヴォイドと相対することで――アリサはより成長する。

 そうして――未来へ羽撃くための翼が完成するのだ。


「お前はもう子供じゃない――ここから先は殺す気で行くぞ‼」


 ヴォイドの動きは加速する。アリサはすぐに先ほどまでのヴォイドの動きが、本気ではなかったことに気づいた。相対した剣は一つ。だが向かい来る斬撃は無限。

 アリサの動きを真似た連撃を防御し終えると、次はその連撃をアレンジし、より精度を上げた斬撃が飛んでくる。

 

「――ッ‼」


 アリサはその紫色の双眸を酷使し、数多の剣閃を見極めなんとか白銀の刃を受け止める。目が追い付かなくなれば音で、それですら追いつかなくなれば直感で。全身に少しずつ鮮血が滲む。


「くッ――‼」


 アリサはただ耐える。防御し、防御し、防御しつくして、攻撃のパターンを見極め、反撃のチャンスを――いや、そうだ。黒乃(かれ)は言っていた。そして自分自身も言った。


 ――待っているだけでは世界は変わらない。


 このまま耐え続けたところでパターンなど見極められるはずがない。ヴォイドは歴戦の戦士と言っても過言ではない。万が一攻撃の中に隙があったとしても経験でねじ伏せるまでだろう。


(だったら――一歩、踏み出すしかない――――‼)


 アリサは踏み出す。活路を切り開くために。腕、足、肩、首、胴体、首、足、背中、向かい来る斬撃を受け止め、少しずつ押していく。

 そして正面からの一刀。アリサはそれを受け止め、即座に剣を消失させた。


「――――」


 勢いのままに交錯する兄と妹。兄は虚を突かれ、妹はすぐに右足を軸に振り返り、再出現させた剣でその背を狙う。それでも――、甲高い音が耳に届く。


(防がれたッ‼)


 ヴォイドは逆手に構えた剣を背に向けて、それをガードした。死角に対応する防御は見事なものだ。

 だが――アリサはそれで止まらない。止まるわけにはいかない。防御と同時に態勢を立て直したヴォイドはアリサと向き合い、続く斬撃を防ぐ。


 が――それはフェイク。刃が重なるのと同時にすぐに剣を消失、再出現。

 そうして繰り返される夢幻の斬撃。無限に対する夢幻で活路を斬り開く。


 フェイク、次もフェイク――虚空を斬り結び、二人は何度も斬り抜け合う。一瞬だけ甲高い音が響き、すぐに片方の煌めきは消失する。


(まだ、まだ――仕掛けるなら―――――――)


 そうしてアリサはフェイクの中に一つだけ、本気の斬撃を潜める。

 

「ッ――⁉」


 何度目かの斬り抜け――ヴォイドの剣が大きく弾かれ、隙が生まれる。


(――今ッ‼)


 アリサは剣を消失――次の出現に備えて右手に突きの構えをとったまま、ヴォイドの懐に潜り込む。


「甘いぞ、アリサ!」


 それは先ほどもヴォイドが使った手だった。意図的に作り出された隙。アリサのフェイクに、ヴォイドもまたフェイクを使ったのだ。――無論、アリサもそれを承知の上で肉薄している。

 ヴォイドが剣を持ち替え、刃を振り下ろす。


「――ッ‼」


 それにアリサは反応した。

 構えた右手ではない。突きの構えで右手より前に突き出していた――左手。

 ヴォイドの刃を左手に出現させた剣で受け止めたアリサは、白銀同士を滑らせ、勢いのままにそれを弾いた。


「――――」


 刹那――音が消えた。これまで体中にこだましていた心臓の鼓動も、耳に届いた自分の荒い呼吸音も、そのすべてが消えた。

 静寂――再び剣を消失。腰を低く、下から上へ向けて、両手でしっかりと、曲線を描きながら構えられた『一番目の剣(ヴィクトリア・エース)』。


「ふ――――」


 その時、ヴォイドは安心したように、とても穏やかな顔をしていた。

 そして一秒後、アリサは心臓めがけ――その切っ先を放った。


 『ヘヴンズプログラム』を纏った黒乃と魔術を発動した蓮の勝負は、意外にもあっけなく終わった。

 勝者は黒乃。彼は海面に点在するバラバラになった氷の上で、月を見上げていた。

 『ヘヴンズプログラム』を使った影響で、その姿は再び変化していた。紫色は右の眼の半分を染め、髪もまた白く染まり、もはや元の黒色の部分の方が少ない。


 背後にはボロボロの姿で海に浮かぶ蓮。なにも黒乃が蓮を負かし、冬の海に突き落としたわけではない。

 ただ蓮が敗北を認めた時点で海に飛び込んだのだ。己の涙を誤魔化すために。頬を流れる水を、海水だと言い訳するために。


 点在する氷の一つに何とか上陸した蓮は、濡れた髪を掻き上げて言う。


「――黒乃、その、礼を言う」


「馬鹿野郎。僕より先に、声を掛けるべき人がいるだろ」


 黒乃は笑って蓮を見送った。夜風は冷たく、雲一つない夜空の星々が照らす海はとても幻想的だ。

 そのまましばらく黒乃はそこにいることにした。人の心――喜び、悲しみ、後悔、とても穏やかな死の感覚、それらが何故か自らの心に入り込んでくるようだった。


「――――」


 船上に戻った蓮の行き先は、既にヴァイオリンの演奏を止めていたスズカのところだった。


 スズカは甲板から黒乃と蓮の戦いの結果を見届けていた。夜風に揺れる長い黒髪と、月の光を反射させる伊達眼鏡のレンズ。ヴァイオリンを入れた黒革のケースを携えた彼女の前に、殴り合いをしてこっぴどくやられたボロボロの男が姿を現す。


 穏やかな声音が風に乗って届く。


「お風呂、沸いてますよ。早くしないと風邪を引いてしまいます」


 ゆっくりと蓮は一歩ずつスズカに近づく。一歩、一歩。その足取りはゆっくりだが、それでもしっかりと彼女自身と向き合おうとしている。


「ごめん」


 それは遠く長い、どこまでも回り道だった――旅の終わりだった。

 かつて交わした約束の結末。それをちゃんと言葉にして。そして、膝から崩れ落ちる。土下座をするように(こうべ)を垂れる。


「俺は――君の記憶を諦める。取り戻せなくて、ごめん」


 夜代蓮はどうしようもなく弱かった。だからこそ、この痛みを、弱さを、後悔を一生受け止めて生きていく。諦めることで前に進む――それが蓮の掴み取った『答え』だった。


 スズカは自分の衣服が濡れることも厭わず、蓮を優しく抱きしめた。優しくてとても弱いその存在を、そっと温めてあげるように。ずっと離さないようにしていた。


「――お前の勝ちだ。アリサ」


 アリサは切っ先を放った。だがそれがヴォイドの体を貫くことなどなかった。

 剣は光子の中に消え、倒れゆく大きな体を、アリサは優しく包み込む。


「う、うぅ――ぁ――――」


 涙が溢れる。その体を抱きしめ、アリサは気づいたのだ。ヴォイドの心臓の鼓動が、とても小さいことに。当然だ。元々死に体だったそれに鞭を打って、強引に戦ったのだ。

 残された命をさらにすり減らして――それでもヴォイドは、最後までアリサに遺そうとした。

 己の持ち得るすべてを。かつて貰った温かい感情を。


「うあああぁぁぁ……ッ、ぁぁ、ぁあ………ッ!」


 ヴォイドはアリサの頭にそっと、手をのせた。小さな子供を、泣きじゃくる赤子を安心させるように。


「勝者が泣くもんじゃない。お前はもう、オレがいなくても生きていける。もう――立派な大人なんだ」


「でも――でも!」


「安心したよ。お前なら必ず運命を変えられる」


 もう片方の手で、アリサの背を優しく何度も叩く。


 ああ――あんなに小さな子供だったのにな。もう立派な翼を持っている。


 十五年前。最初の出会いはきっと、いいものではなかった。幼いアリサの眼にヴォイドは年上の怖い男の人として映っていただろうし、ヴォイドも託されたその幼い少女との接し方に戸惑っていた。


 互いに壁を作っていた。会話もほとんどなく、食事もそっけない。

 そんな決して家族と言い難い生活が続いたある日、アリサはその白髪紫眼の容姿が原因で近所の子供に悪戯をされていた。


 ヴォイドはそれを偶然見つけて、そこで初めて理解したのだ。 失いかけて初めて――気づいたのだ。アリサに怪我をさせたくない。アリサに悲しい思いをさせたくない。アリサを失いたくない。

 ヴォイド・ヴィレ・エルネストにとって、アリサ・ヴィレ・エルネストは大切にするべき妹なのだと。


 ヴォイドはその日から意識を変えて、アリサのことを第一に考えるようになった。それはアリサもだ。その出来事をきっかけに、二人はただの他人から兄と妹になった。長い時間をかけてゆっくりと、なれたのだ。


「ソフィを焚きつけた。きっとお前と戦うことになるだろう。だがそれでいい。……お前があいつの運命を変えてやるんだ。それができるのは黒乃君じゃない。お前だよ、アリサ」


「……うん、……うん……」


 ――走馬灯のように想起される記憶。終わることでやっと振り返ることのできる人生。出すことのできる答え。


「自信を持て。お前がいなければオレはきっとこんなに幸せに終わることはできなかった。お前はもう、オレを変えてくれたんだ。……だから、きっと……できる」


 徐々に、ヴォイドの声が小さくなっていく。鼓動が遠い。光が遠い。

 時間が引き延ばされ、けれど涙は止まらない。

 

 一方でヴォイドは俯いて涙を流すアリサを、どこまでも優しい表情で見ていた。約束は果たした。オムライスを食べ、免許皆伝もした。大事な妹を託せる男も見つけた。大切な家族との別れは確かに悲しいが、それでも自分が死ぬことよりも悲しいことは超えることができた。


「あれ……あるか? オルゴール……」


 アリサはコートの大きなポケットに忍ばせたそれを片手で取り出す。おぼつかない手。それを支えるようにヴォイドが片手を差し出す。

 

 ヴォイドが支え、アリサがネジを回す。そうして二人の手で奏でられる曲――『ソフィ』。

 フィーネ・ヴィレ・エルネストから愛する者へ送られた曲。そして、それをオルゴールという形にしてくれた剣崎黒乃。

 

 優しいその音色に、ヴォイドは魂が――心が溶けていくのを感じた。

 アリサはまだ涙を流してヴォイドの胸にしがみついている。俯いた妹に兄は仕方ないなと微笑みながら、あるお願いする。


「顔を見せてくれないか……お前の……、アリサの……笑顔を…………」


 鼓動が弱くなっていく。間隔が長くなっていく。

 アリサは顔を上げた。兄の最期のお願いなのだ。だったら華々しく叶えてあげたい。

 精一杯の笑顔で、この十五年間分のありったけの感謝を込めて、旅立ちを優しく見送る、不安をかき消す表情を浮かべる。


「……ありがとう、兄さん……!」


 涙を流しながらでも、歯を見せてにかっと明るい笑顔を浮かべた妹の姿を――しかと目に焼き付けた。

 この瞬間、ヴォイドはすべてに満足した。自分の人生が報われたと思った。

 戦いに明け暮れた日々もあった。憎しみに囚われた時もあった。帰る場所を見失ったこともあった。

 ――それでも、それらがあったからこそ、この瞬間に至れたのだ。

 無駄なことなど、ひとつもなかった。


 最愛の妹がいたから――空洞はこんなにも温かく大きなモノで溢れるようになった。


 「――アリサ、ありがとう」


 そうしてこの日――運命を変え、運命を超えようとする二人の起源となる平和を作り出した男の魂は、優しい光に溶けて逝った。

 何の後悔も、思い残すこともなく、幸せに命を使い切ることができたのだ。


「――――――――――」


 何度も叫び、これでもかと涙を流した。受け入れるために、前に進むために。

 妹のために平和を作り――多くのものを取り溢しながらも、最後に残った大切なものを守り抜いた強さを、心に刻むために。


 静寂が雪のように舞い降り――、そして、アリサと黒乃は最後のピースを取り戻した。

 すべての始まりである七年前の記憶。

 遥か以前からこうなることが決まっていたような、運命との出会いの日を。


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