『今を超えるために/Death may divide two people』
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三月二十五日。午前一時。――夜空には数多の星が煌めいていた。
昼間はあれほど曇っていたのに、今の空はまるで天国へ続く階段のようにも見える。
まるで白夜のように明るい夜だ。
すでにアリサとヴォイドは『月夜野館』の跡地へ向かい、戦いの準備をしていた。
アリサの服装は以前にヴォイドが用意した戦闘用の服――青がベースのブレザーとスカートに、軍服にも似た黒いロングコートを羽織っている。
一方でヴォイドもまた空色のシャツにブラックのジャケットとスラックス――その上にグレーのチェスターコートを纏っている。その右手には『組織』が用意した武骨な剣。それは以前にヴォイドが仕事で使っていたものだ。
二人は静寂に包まれた世界で、その時を待っていた。『十二番目の剣』の効果が切れるその時を――最後の時を。
そして船の甲板には黒乃、蓮、スズカ、セラ、澪、ルドフレア、ソフィが集まっていた。
ソフィ以外はブラックスーツを着込み、またスズカは黒革のケースを携えている。
そこには一つのヴァイオリンが入っている。ストラディバリウスのような名器ではないが、音に魔力を込めて他者に譲渡することをできる限り楽にするための特別製だ。
ヴァイオリンを取り出したスズカは――静かに、弓を構える。
それを見て、澪が拳銃を取り出す。トリガーに構えた指は人差し指。自らの十八番である『ファントムトリガー』を使うつもりだ。
狙いは『月夜野館』とは逆。船をまたいだ海上。
「『ファントムトリガー』――『アブソリュート』」
銃口からは冷気を帯びた魔力が発射され、着弾した海面が徐々に凍結していく。あっという間に足場は完成し、黒乃と蓮はそこへ降りていく。二人の間には、張り詰めたような緊張感が存在していた。
これで――二つの舞台は整った。アリサ対ヴォイド。黒乃対蓮。
「――覚えてる? 兄さん。昔、私たちって結構仲が良くない時もあったよね」
アリサの胸に光が灯る。そこから取り出される剣は『一番目の剣』。
純白の刀身に柄を通して五指から手首へと巻き付く鮮やかな赤い布。
戦場に咲く一輪の花――象徴であり神聖視される軍旗のようなその剣を、アリサは静かに構えた。
ヴォイドもまた、右手に握った武骨な剣を逆手に持ち、構える。
「ああ――今考えれば当然だな。ろくに人付き合いも知らないガキが、我が儘な女の子を引き取ったんだ。初めからうまくいくはずもない」
アリサは苦笑を溢し、ヴォイドは思い出を想起する。
スズカによる演奏――『共鳴歌』が始まった。
それにより供給される魔力を使い、ヴォイドは限界の来ている体を動かすための魔術を使う。ただの身体能力の強化だが、これがあってようやくアリサの前に立てる。
美しい音色の中に走馬灯を投影し――一度閉じられたヴォイドの目蓋。少しの沈黙を経て、その双眸は開かれる。
「エルネストの運命を変えるというのなら――その覚悟、見せてもらうぞ。アリサ!」
「望むところよ、兄さん!」
叫ぶように応えたアリサは、兄からの最後の試練に真っ向から立ち向かう。
一方で、黒乃と蓮もまた、戦いの火蓋を切り落とそうとしていた。
「――こんな大掛かりな準備をしてまで、俺を殴りたいのか?」
冷たい夜風に靡く黒い長髪。蓮は、黒乃を挑発するように言った。その声音は平坦で何の感情もこもっていない。他人に意識を向けていない。誰とも向き合っていない。
すべてがどうでもいい――そんな諦めを感じる。
「思えば……あの時の決着、まだついてなかったよな」
病院の屋上。黒乃がソフィと出会い、そして蓮と出会ったあの場所。強引に去り行くソフィを追って、黒乃は蓮と少しの格闘戦を行った。あの時はヴォイドによる仲裁が入ったが――今回は違う。
黒乃は足場の氷が多少荒く、しっかりと踏みしめることができることを確認する。
「さあ蓮、僕にぶつけてみろ! お前の感情のすべてを! そして向き合ってみろ!」
「――来るなら、相手をしてやるまでだ」
蓮の得意戦法はカウンター。それでも黒乃は先手を取ることを決めた。
「――――!」
全力で駆け出す黒乃。
蓮との距離はすぐにゼロとなり、昼間は当てられなかった拳を再び放つ。だが蓮はそれを右手で受け止め、即座に左手で黒乃の拳を横にそらす。威力の受け流し。そして蓮は懐に潜り込み、空いた右手を胸倉に伸ばす。普通ならそのまま投げ飛ばされるコースだ。
だが黒乃とて、少年時代は戦闘訓練を積んでいる。自らを認めようとしない家の名前を使って、あらゆる強さを磨いてきた。
蓮の行動はすべて予測の範囲内だ。黒乃は胸倉を掴もうとする蓮の右手を、空いている左手で下から救い上げるように弾く。すぐに右膝を蓮の腹に叩き込もうとするが、蓮はそれを左手でガード。
だが黒乃の攻撃はそれで終わりではない。構え直した左手で顔面を殴りにかかる。無論蓮もそれを構え直した右手でガード。殴り合い、フェイクを挟み、攻撃を受け流し――そんな互角の攻防が始まった。
その様子を船の上から見るセラ、澪、フレア。ソフィは一人、アリサとヴォイドの戦いを瞬きすることも惜しんで見ている。
「――――」
不意に、澪が船内に目を向けた。セラも澪の様子から、その考えを察する。
一瞬で行われるアイコンタクト。二人はゆっくりと船内へ続く扉を開けた。
「どこ行くのさ」
ルドフレアの問いには、澪が答える。
「野暮用」
船内に入るのと同時に走り出した二人は、澪を先頭に迷わず船倉へと向かう。
「――『起点の鎖』――『その眼を開けなさい』」
可視化した鎖が即座に引きちぎられる。セラはすぐに己の力の第一段階を開放し、その気配を探る。
視覚、聴覚、嗅覚――それらがフル稼働し、セラは結論を出した。
「下に二人。で、三人が船内を探検しているみたいね。三人は私に任せて」
「オーライ」
得意げに笑い、二人は別れる。
始めは勘だった。よくない気配が船に入り込んだ――つまりは自らのテリトリーに侵入された感覚があった。澪の中に宿る織の力。それは神に近い力であり、その勘はある種の未来予知に近いものなのかもしれない。
いずれにしてもロクなことにならないと考えた澪は、それを止めるために行動する。
「まったく、ちょうど剣の効果時間が切れるタイミングを狙ってきたってことは……JBとかいうやつかな」
船倉の入り口に辿り着いた澪は、食料物資の備蓄倉庫となっているその場所の扉がかすかに空いていることに気付く。
すぐに息を殺し、気配を消す。
そして隙間から内部を除くと――大柄の男が二人、プラスチック爆弾を今まさに仕掛けているではないか。
(おいおい、あの大きさじゃあ船が沈むどころじゃないぞ)
一人は迷彩服の上着を着て、無精ひげの目立つ男だ。もう一人はよれよれのスーツを着たスキンヘッド。いずれにしても流浪な感じがする二人。
(つか――誰だあいつら。魔術師ならわざわざ爆弾なんか使う必要はない。ってことは一応括りとしては一般人。だが体格や手際からして素人じゃないな)
戦いの素人ではない一般人、それで思い当たることがあった。
(黒乃を狙ってきたやつらか――ったく、懲りずに来たと思ったら今度は爆弾とはね)
澪は一瞬、あの爆弾を解体するためにルドフレアを呼ぶか悩んだ。しかし事態は急を要するだろうし、もしあの二人が自爆できるほどに覚悟を決めているなら、解体などしている暇はない。
問題は今この瞬間、澪の魔術であの爆弾を即座に無力化し、大柄の男二人を拘束できるかどうかだ。
「――――」
澪は音を立てず、眼帯で覆われた右目に手を置いた。
行けるか、澪――そのような自問に、答えはあっさりと出た。
「行ける」
刹那、澪はゆっくりと扉を開けた。飛び込むわけでもなく、自然に、それが当然のことのように。
そしてすぐさま爆弾向けて詠唱もなく『ファントムトリガー』を放つ。使う属性は氷。
気配のない攻撃。不可視の銃弾――狙いが外れることなど、ありはしない。
「なんだ⁉ あぁぁ――⁉」
「どうした!」
爆弾と一緒に、作業をしていた一人の手が凍り付き、そのまま身動きを封じる。
残り一人。咄嗟のことにあっけにとられている男に、澪はまず回し蹴りをした。
「がッ――⁉」
それは顔面を捉え、その勢いのまま男の体は壁に叩きつけられる。
そして澪はすぐに拳銃を逆手に持ち替えて、小指で引き金を引いた。
「『シージングトリガー』――お前の意識はもう、アタシの手から逃れられない」
束の間、もう一人の男にも魔術を使い、精神の支配権を奪った澪はとりあえず一息つくことにした。
まあこの戦いが終わるまで、この二人がこれ以上何かをすることもない。セラは三人を相手にするようだが問題はないだろう。
むしろ相手は一般人。相手の身の方が心配というものだ。
「――にしてもこいつらタイミングがいいんだか悪いんだか。ま、聞かせてもらおうか。お前らの雇い主について」
それと同じ時刻、船内を走り回るセラは、その匂いを追っていた。今のセラには獣の耳と尻尾が具現化しており、その見た目の通り五感は人並み以上に研ぎ澄まされている。
染みついた火薬の匂い――おそらくは拳銃か爆弾を持ち込んでいる。もしくは両方。爆弾を仕掛けるなら、その場所は船倉だろう。つまりそっちは澪に任せればいい。
三人はバラバラに行動している。一人はラウンジ、もう一人は黒乃の部屋、そしてもう一人は――スズカの部屋。
順番は決まった。
真っ先にスズカの部屋の扉を開けたセラは、ミリタリージャケットにジーンズを履いた角刈りの男を見つけた。
「――チッ」
小さく舌打ちした男は、手に持っていたCDケースを懐にしまい込んだ。
「随分変わった見た目だが、外人か? ま、見られたならしゃあねえ。少し、気を失ってもらおうか」
すぐに殺す――と言わないあたりにほんのわずかに残った良識を感じる。だが、無断で女の部屋に上がり込んで泥棒を働くなんてことと釣り合うはずもない。
「アンタが今懐に入れたCD。ただのアニメの録画よ。返しなさい」
それはわざわざスズカが二〇二〇年から持ってきたお気に入りだ。何としても、奪われるわけにはいかない。
「――そりゃ残念」
刹那、男は取り出したCDケースをそのままセラに投げつけた。そしてすぐさま向かってくる男。前にセラが『K』に使った手と同じだ。重要なものを投げつけ注意をそらし、その隙に攻撃を仕掛ける。
相手は魔術的に見れば素人だ。しかしそれでも戦闘のプロ。セラの気配をそこらの女と一緒のものには思えなかったのだろう。だから念には念を入れて、そんな面倒な手を使った。
「――――」
――無意味だ。目の前の存在の力量を推し量れない時点で――つまりは、セラと目を合わせた瞬間に気を失うか、跪いて土下座をしない時点で、男は既に生殺与奪を握られている。
セラは片手でCDをキャッチし、向かってくる男の拳を軽々と受け止めた。
どころか――、
「なッ――がッ、ああああああ⁉」
「ごめん。どうやらアンタ、カルシウム不足みたいね」
軽く握っただけで相手の拳を骨ごと砕いた。すぐにやりすぎたな、と反省したセラは見事な手刀で男の意識を刈り取った。
――足音がする。今の叫び声を聞いて、仲間が二人駆けつけてきたのだろう。
「さて。ほどほどに片づけましょうか」
セラは静かに、ネクタイを強く締め直した。