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『幻想の終わり/Goodbye gives strength』

 ルドフレアと(みお)の蘇生が完了して少し。時刻は午前四時になろうとしていた。

 太陽はまだ昇らない。夜明けはまだ、訪れない。


「――――」


 悪魔のスープは無事すべて処分され、製造者のセラは当然として被害者二人からの報復を受けていた。

 だが、物騒な魔術界隈の人間とはいえそこは仲間内。セラが受けた報復とは――首から『私は料理で二人殺しかけました』と書かれたホワイトボードを下げるという、側から見れば軽いものだった。


 ある意味惨めな格好のまま、厨房の清掃を黙々とこなすセラ。それを余所に、黒乃(くろの)が作った体の温まるコンソメスープを飲むルドフレアと澪。


「――ったく、まさかセラがあんなもん作るなんてな。危うく死ぬところだったぜ」


 と、吐き捨てるように澪。そりゃまあ、少し舐めただけで心停止するような液体を手作りするなんてとんでもないことだ。

 むしろよく『すべての戦闘行為を禁止させる』という『十二番目(ミゼリコル・トゥエ)の剣(・レーヌ)』の能力が発動している最中にそんなことができるものだ。

 残りおよそ二十一時間、世界中の人間は魔術を使うことはおろか、人を殴ることすらできないというのに。


 うっかりで人を殺す、ということに対して、剣の能力は発揮されないらしい。それはそれで新たな発見だが、黒乃たちにとっては意味のない発見だ。


「でもクロノが助けてくれたんでしょ? 心臓マッサージとか、人工呼吸とかでさ」


 人工呼吸――、ルドフレアが口にしたその単語に、澪の動きが固まる。


「ああ、昔一通り訓練は受けてたから。まさかこんな形で実践するとは思ってなかったけど」


「――ちょっと待て。人工呼吸って、アタシにもやったのか……?」


「えッ⁉ や――まあ、緊急事態だったし……。その……も、もしかして初めてだったとか?」


 茶化すように引きつった笑顔を見せる黒乃だったが、澪は顔を逸らす。


「いや……違うけどさ」


 もっと激昂するかと思ったが、意外にもしおらしい反応だ。それを見て、好きでもない男に人工呼吸されて心の底から落ち込んでいると判断した黒乃は、頭を下げた。


「……そのごめん。僕がもっと的確に状況を教えていたら、澪がアレを口にすることもなかった。本当にごめん」


 謝罪する黒乃。だが澪は全く聞いていなかった。何故ならルドフレアに内緒話を持ち掛けていたからだ。頭を下げている黒乃には見えないところで。


「なあ、人工呼吸ってのはキスに入るのか?」


「さあ、ボクは入らないと思うけど。なに? もしかして気にしちゃってるの~?」


「声がでけぇ! おいフレア、よく考えてみろ。アタシはまだ十八の少女だ。まだまだ思春期なんだぞ。それに彼氏も彼女もいない。特別好きってわけじゃなくても、それなりに知ってる男からキスをされたとなれば多少意識するもんなんだ。ハプニングキスから始まる恋だってあるかもしれないだろ?」


 小声かつ怒涛の早口。ルドフレアはそれを何となくかわいい小動物でも見るような表情で右から左へ聞き流していた。


「おいその腹立つ顔やめろ。とにかくだ。人工呼吸はキスなのか、そうじゃないのか。どっちなんだ⁉」


「だからボクはそうじゃないと思うって。……それにしても、案外乙女だねぇ。でもいいの? クロノはもうアリサとソフィの三角関係が出来上がってるけど」


 しれっととんでもないことを言うルドフレアだった。


「――あー」


 そして、それを聞いて突然何かに納得する澪だった。黒乃に向き直った澪は、なんかもうどうでも良くなって、先ほどの気持ちをすべて忘れて声をかける。


「ま、顔上げろよ黒乃。よくよく見たらその姿もあんま好きじゃないし、もうどうでもいいわ」


「何で唐突にディスられてるんだろう⁉」


 話が落ち着くべきところに落ち着いたところで、黒乃は先ほどから気になっていたことを素直に聞いてみる。


「……ところで澪、その目――大丈夫なのか?」


「ん――ん、まあ」


 右目を覆うように付けられた黒い眼帯。先の戦闘で負傷したものだ。今は剣の効果時間内なので、魔術や別の剣による治療は不可能だが、後々完治させることは可能だろう。

 だが澪はどこか遠くを見るように、呟く。


「――なんかさ、前より調子いいんだよ。この右目は確かに見えてないはずなのに、なのに前よりずっと『視える』気がするんだ」


 視力を失った人は、代わりに聴力など別の感覚が発達するという話を聞いたことがある。澪は元々、(しき)の力でバラバラになった魂を縫合していた。それが影響して今の性格になり、第六感とも言うべき勘が鋭くなった。


 つまり澪は今、片目を封じられたことでよりその感覚が鋭くなったのかもしれない。


「でも思いっきりスープに手を出してたけど」


 痛いところを突かれたように、澪はがくんと姿勢を崩した。


「そこはほら、アレだ。まだ体に馴染みきってないんだ」


 バツが悪そうに呟く澪だった。黒乃と同じように、まだ新たな自分というものが受け入れられたわけではないのだろう。


「……そういや、フレアは? さっき『ヘヴンズプログラム』がどうのって言ってたけど」


「あ! そうそう、『ヘヴンズプログラム』とその制御AIの調整がしたくてさ」


 黒乃はポケットから端末を取り出す。今は変身することはできないが、制御AIである『ターズ』がインストールされたことにより暴走の心配はなくなった。つまり自分の意のままに操れる力をようやく手に入れたのだ。


「確かに暴走はもう起こらない。でも、どうせ『K』もジョイが強力することでAIを完成させてくるだろうしさ。『イノセント・エゴ』との対話――つまりは、戦いのその先のことも視野に入れて、パワーアップさせたいと思ってるんだ」


「でも、そんな簡単にパワーアップなんてできるもんなのか? そもそも『ヘヴンズプログラム』自体、なんで作れたのかよく分かんねぇ代物だろ」


 澪が訊く。その疑問も当然だ。黒乃の父――剣崎惣一朗(けんざきそういちろう)は、財団の力とアルフレド・アザスティアの協力を得て『ヘヴンズプログラム』を作り上げた。

 本当の意味で心を持たないエルネストに心を与え、カードに縛られた悲しき運命から解き放つための力。


 『イノセント・エゴ』の生み出した神の力に干渉できる力。そんなものを作り上げたというのだから、信じがたいほどこの上ない。開発に関わったアルフレド本人も、なんで機能しているのか分からないと認めていたし。


「『ヘヴンズプログラム』はアリシアってエルネストを助けるために作られたんでしょ? だったらそのアリシアも開発に協力したんじゃないかな。彼女のことを知る人がいない以上、これはただの推測で可能性だけど、アリシアが持っていたカードは『十四番目(ジョーカー)』だったのかもしれない。それを解析することで『ヘヴンズプログラム』は作られた」


 それは確かに、もう証明しようのない可能性だった。

 

「――待てよ。だったら『K』の『ヘヴンズプログラム』はどうなる? それにこっちの世界にあった『十四番目(ジョーカー)』が向こうの世界のアリサ――ソフィに渡った理由は?」


「……だから可能性の話なんだって。これはあくまでも仮説。真実はもう闇の中なんだから。……でも、開発の基礎に関わったカードの違いは、クロノと『K』の『ヘヴンズプログラム』の違いに繋がるかもしれないね」


 同じ景色を持ちながら――枝の分かれた世界。『K』はどのような道を辿りあの『答え』に行きついたのだろうか。未来を求める心は変わらない。だがその手段は、絶望に塗れ哀しみに囚われている。

 

「分かったよ、フレア。頼む、僕に力を貸してくれ」


 黒乃は端末をルドフレアに差し出す。


「……オーケー。でも、クロノ。『ヘヴンズプログラム』は多分、天上に至るシステムだ。君は間違いなく変わる。新たな自分を受け入れる覚悟は出来てる?」


 新たな自分――そう言われ、黒乃は想起する。織の言葉。セラの言葉。

 そして試される覚悟。


「――――」


 黒乃がその決意を答えようとする。しかしその時、エントランスに新たな足音が響いた。

 振り返ると、揺れる白髪と煌めく紫色の瞳を見つけた。アリサだ。


「――ここに居たんだ、黒乃」


「ああ……どうかした?」


 アリサの表情は重い。


「兄さんの目が覚めたの。話がしたいって」


 その声はソフィに似た、重く悲しい声だった。


「――入ってくれ」


 扉をノックすると、その声が聞こえてきた。黒乃(くろの)は部屋に入る。そこは傷の治療を終えた彼が運び込まれた部屋だ。


「どうも」


 部屋は九畳か十畳ほど。内装はあまり凝っておらずビジネスホテルの一室のようだ。特徴的な点と言えば、今はカーテンが閉められているが、昼間ならば海を一望できるような大きな窓が設置されている。

 そして窓際と少し空間を空けるようにして置かれたベッドに、ヴォイド・ヴィレ・エルネストの姿はあった。

 オレンジ色の髪にエメラルド色の瞳――病院服の代わりにワイシャツを着ていた。


「ん――――ああ、呼び出してすまないな、黒乃君」


 一瞬、黒乃の姿を見たヴォイドが驚いた表情をみせる。それもそうだ。片目が紫色になり、髪の一部が白に染まった黒乃の姿を見るのは、ヴォイドにとって初めてのことだ。


「……なんだか、こうして君と二人で話すのは随分と久しいことのように思える」


 あの日――フィーネ・ヴィレ・エルネストが亡くなった日に姿を消してから、あの島で再開するまでほぼ五日。だがその五日を思えば、確かに黒乃も随分と長い旅をしてきたように感じる。


「怪我の具合はどうですか?」


「ソフィのおかげで問題はない。あとで礼を言わないとな」


「……きっと、喜びます。彼女は今、光の中に向かおうとしている。きっとヴォイドさんのこともお兄さんみたいに思ってくれますよ」


 ヴォイドは頷く。既に一度、兄と呼ばれたのだ。過去にアリサにそうしたように――新たな家族として接してやれば、ソフィは必ず受け入れてくれる。


「……だが、オレにはもう時間がない。黒乃君、君はオレの持っていた剣の能力を知っているか?」


 ヴォイドは寂しげな表情を浮かべて黒乃に問う。それに応える黒乃もまた顔を暗くした。


「はい、『ヘヴンズプログラム』が僕に。――『十一番目(オース・オブ)の剣(・ジャック)』は、力の代償に命を削る……」


 アリサの表情で、ヴォイドの言葉で、残された時間が多くないことは感じ取っている。それでも黒乃は意を決して聞いた。聞かなければ、前に進めないような気がしたから。


「教えてください。あと、どれくらい……ヴォイドさんはここにいられるんですか……?」


 黒乃の問いを聞いたヴォイドの反応は、どこか――織と似た雰囲気を纏っていた。自らの死期を悟り、死を受け入れ、命を使い切ることに後悔をしていない――そんな想いを、ヴォイドは持っていたのだ。

 そしてその事実を告げる声音もまた、緩やかな波のように優しいものだった。


「最後に聞いたカウントは三十六。現在時刻から逆算するとおそらく――三十三時間。それがオレに残された最後の時だ」


「……どうして、そこまで……」


 言葉を失うことはなかった。口を突いて出たその言葉はきっと、単純な疑問だった。そこまで命を削ってしまえばもう――この『起源選定(きげんせんてい)』の最後を見届けることもできない。

 それ以上に、最愛の妹と永遠の別れをしなくてはならない。

 いずれ来る別れだとしても、こんなに早すぎる必要はないはずだ。


「オレが――そうするべきだと判断した。それだけだ」


 波紋を起こすこともやめた凪の海のように、ヴォイドは穏やかに答えた。何も後悔することはない。そう言っているようだった。


「……」


 黒乃の表情は重く沈む。別にヴォイドの判断が間違っているとは思わない。むしろ最善だとすら思う。

 だが――そんな残酷な最善しか存在しなかった状況。それが憎くて仕方がない。

 

「そんな顔するなよ。……それにこれで一つ分かったこともある。オレはカードを失ったが『心無き者(ホロウサイド)』に堕ちることはなかった。それはアリサの言う――人とエルネストの血の可能性の証明だ」


 かつて『心無き者(ホロウサイド)』に堕ちたエリー・イヴ・エルネストは、ヴォイドの血を浴びて僅かに意識を取り戻した。

 それを見たアリサは、人の血液が、『十四番目(ジョーカー)』を生んだそれが――再び新たな可能性となる希望を感じた。

 そしてそれは今、ヴォイドによって立証されたのだ。

 

「――これが、オレの役割だったのかもしれないな」


「役割……?」


「時々考えるんだ。『イノセント・エゴ』の創り上げたこの世界では、みな何かしらの役割を与えられていて――オレたちはそれを演じているだけじゃないか、と」


 与えられた役割、歯車――無数にあるそれらが組み合わさり、運命というシステムは創り上げられている。黒乃は小さくかぶりを振った。

 

「もしそうだったら、僕は嫌だな。決められたレールを辿るだけなんて、生きてるって言えないと思います」


「――だからこそ君は『ヘヴンズプログラム』を宿し、運命を超えようとしているのかもしれない。君の役割は多くの人から託された想いによって変えられたのかもな」


「僕の……役割……」


 もし、もし仮にこの世界に生きる人間のすべてに役割が与えられているのだとして。だとしたら自分にはどのようなものが与えられているのだろうと、黒乃は思った。

 そしてヴォイドの言う通り、多くの人の願いが黒乃の役割が変化しているのだとしたら。


「もし託せるのなら、オレは君に未来を託したい。願いを背負い未来へ繋げる。悲しみが終わる平和な未来に辿り着く――それが君の役割だったらオレは嬉しい」


 黒乃は無意識のうちに、左目を抑えていた。変わりゆく自分、託された想い、未来へ辿り着く役割。

 平和――黒乃は少年期から海外で訓練を積み、安寧とは無縁の日常を送っていた。


 だがこの五年。ひょんなことから『ヘヴンズプログラム』を宿しつつも、アリサと出会い平和な日常を送ることができたのは紛れもなくヴォイドのおかげだ。感謝してもしきれない。


「あの日、病院の屋上でオレは訊いたな。覚悟はあるか、と。今はどうだ?」


「覚悟ならあります。未来を掴むための方法も見えている。――でも、僕に平和を教えてくれた貴方のように、できるかどうか……」


「はは――オレのようにする必要はない。君ならもっとうまくやれるさ。君はもう、オレよりずっと強い。だから自信を持て」


 ゆっくりと胸に手を当て、拳を作る。これ以上、迷うことは許されない。自分にそう言い聞かせるように。そしてヴォイドを安心させるように、黒乃は真っすぐな眼差しを向けた。


「いい目になったな。……さて、今後のことはどうなってる? アリサから『十二番目(ミゼリコル・トゥエ)の剣(・レーヌ)』が発動していることは聞いたが……夜代蓮(やしろれん)は?」


「蓮は今……」


 返答に困る質問だった。蓮は今、織になっている。男から女へと。そしてその意識は別人であるため、現在蓮は眠っているとも言えるだろう。とはいえ、素直にそう説明して理解してくれるだろうか。

 とりあえず話をスムーズに進めるために、今後のことは考えている途中だと話したほうがいいだろうか。


 ――いや。

 織は誰かに覚えていてもらうことで、その死を受け入れていた。だとすれば、ここで彼女の存在を隠すことはしてはいけない。


「理屈はよく分からないんですけど、(しき)っていう女の人になっていて」


「織? 女――ああ、あの場にいた見覚えのない彼女か。……驚いたな。彼の意識はあるのか?」


「今は織の人格になっているので、多分眠っている状態に近いと思います。でも織は夜明けと共に再び消えると言っていました。『一夜(ひとよ)かぎりの幻想』――」


「……そうか。彼女もまた、消え往くものか」


「織は言っていました。誰かが覚えていてくれる限り、自分が生きていた痕跡は世界に残る。だから良い……って」


 ――誰かが覚えていてくれる限り、自分が生きていた痕跡は世界に残る。

 ヴォイドはゆっくりと、黒乃の言葉を繰り返す。


「至言だな。確かにそういう考えも悪くない」


「……とりあえず今は『月夜野館(つきよのかん)』の跡地に向かってます。『K』のいる島にはドローンを置いて動向を把握しつつ、物資の補給、戦力の立て直し……そんなところです。剣の効果時間はあと二十一時間ほどありますが、場合によっては僕かソフィが『十二番目(ミゼリコル・トゥエ)の剣(・レーヌ)』を使うこともできます」


 そうすれば再び二十四時間――最大で四十八時間の休戦期間を設けることができる。ひとまず黒乃が考えられることはこれくらいだ。

 いずれにしても、『K』との決戦に備えた作戦はリーダーである蓮に立案してほしい。それが一番信用に足る最善だから――と黒乃は思った。


「そうか、大体分かった。……藪から棒だが黒乃君。一つお願いがあるんだが、いいか?」


「え? ええ。僕に出来ることなら、なんでも」


「……もし今発動している剣の効果時間内に作戦が決まらない場合、次の剣の発動までに時間を作って欲しい」


「と言うと?」


 戦闘行為を禁じる二十四時間と二十四時間の間の空白。それがヴォイドの要求だ。

 無論その間の時間は、魔術の使用や兵器の使用も可能となる。最悪の場合は『K』からの強襲を受ける可能性まで存在しているが――それでもヴォイドにはやらなければならないことがあった。


「このまま横になってるのは性に合わない。それで――アリサと模擬戦をしたいんだ。決戦の前に、あいつの覚悟を試しておきたい」


「体は……動くんですか?」


「ふっ、甘く見るなよ。――ま、兄貴としてやれることはやっておきたい。だから、頼む」


 おそらく、ヴォイドは無理をしてでもやるだろう。体が動かなくても、剣ではなく魔力を媒介にして身体能力を強化すれば、おそらく戦闘も可能になるだろう。それが残り少ない命を余計にすり減らすことになっても。


 それでも――否、だからこそ。ヴォイドは最期まで兄として妹のために命を使いたいのだ。

 黒乃が断れるはずもない。きっとこの世界の誰もが――止められるはずもないのだ。


「分かりました。アリサや蓮に話しておきます。それに僕も――その空白の時間を使うことになるかもしれないので」


「――ああ、頼む。さて……オレは少し休む。君も少しは羽根を伸ばすと良い」


「……はい。それじゃあ、また」


 小さく頷いて、黒乃は部屋を出た。時刻は午前四時を過ぎたところ。織はまだスズカと話し込んでいるとふんだ黒乃は、アリサかソフィを探すことにした。

 ヴォイドの言う通り少しは休息を取った方がいいのだろうが、その前のもうひと頑張り、と言ったところだ。

 そうして船内を歩いていると――白い髪を揺らしながら歩く後ろ姿を見つけた。

 

「あ――ソフィ」


 名前を呼ぶと、彼女はゆっくり振り返る。その顔色は心なしか以前よりも良くなっているように見える。触れれば消えてしまうような儚いものではない。生命力を取り戻しつつある、影に少しずつ光が射している顔だ。


「……なに?」


 愛想の無い声音は相変わらずだが。


「実は話しておきたいことがあってさ。――ん?」


 ふと、ソフィの手にマグカップが握られているのに気づく。中身はおそらくスープ。黒乃が先ほど作ったものだろう。


「それ――飲んでくれたんだ」


 マグカップの中身について指摘すると、ソフィは僅かに顔を逸らす。


「……べ、別に。薬を飲むのに液体が必要だっただけ」


 わざわざ『液体』などという妙な言い回しをするソフィ。


「あーそういうこと言う? スズカの腕には敵わないけど、中々の自信作なんだけどなー」


「……分かったわよ。飲めばいいんでしょ、飲めば」


 立ち飲みというのも行儀が悪いと思うが、しかしまあこの際どうでもいい。通路の壁に背を預けたソフィはそのままスープを味わう。黒乃は反対側の壁に背を預け、その様子を観察していた。


「味はどうですか、お嬢様?」


「……悪くないわね」


 一切黒乃と視線を合わせようともせず、ソフィは小さく呟いた。その白い頬はほんのりと赤く染まっていた。それを誤魔化すように、ソフィは再びマグカップに口を付ける。


「――そういえばさ。ソフィは人工呼吸ってキスに入ると思う?」


「ブフゥ――――⁉」


 思いもよらぬ質問にソフィはスープを噴き出した。それもそうだ。黒乃は先ほどの澪との出来事からそんな質問をしたのが、ソフィも過去に一度、同じ経験をした。

 山で黒乃と共に遭難した時――川から引き上げた黒乃は呼吸をしておらず、蘇生措置を行った。

 図らずも気にしていたことを質問され、ソフィの心臓はどくんと勢いよく跳ね上がる。


「ちょ、大丈夫⁉」


「……な、何でもないから。それで? 話しておきたいことって何? 早く言いなさいよね」


「ああ……その、ヴォイドさんがさ、アリサと模擬戦をしたいみたいなんだ。それで僕と君はまだ『十二番目(ミゼリコル・トゥエ)の剣(・レーヌ)』を使えるだろ? だからもし『K』が強襲してくるようなことがあれば、準備をしておいてほしくて」


「……そう。それで?」


「それで、って?」


「……あの男の容体はどうなの」


 それは黒乃にとっては意外な質問だった。これまでソフィとヴォイドの間には一定の距離を分ける線が引かれていた。最もソフィとしては、あの島でヴォイドを助けに行った時にその線を超えたつもりではあるのだが、黒乃はそれを知らない。


「傷は大丈夫。『心無き者(ホロウサイド)』に堕ちる心配もない。――でも」


「……『十二番目(オース・オブ)の剣(・ジャック)』の代償は大きい」


 いつも通りの表情と声音でソフィは呟く。

 

「……分かった。じゃあ、部屋に戻るから」


 けれど、それが強がりなことを黒乃は気付いていた。フィーネが亡くなり、彼女はその心で大いに泣き、悲しんだ。

 これまで欲しくても手に入らなかったもの。冷たく軋んだ体を温めてくれる優しい光。

 それが目の前にあって手を伸ばす――けれど、掴んだ途端にすり抜けていく。


「――ソフィ!」


 黒乃は咄嗟に呼び止めるが、彼女が足を止めることはなかった。


 十月二十四日――午前五時四十五分。夜明けまであと数分。

 船内の一室――遠静鈴華(えんじょうすずか)夜代織(やしろしき)の会話は、終わっていた。


 自分が消えてからのこと、スズカに芽生えた(れん)への恋情、忘れていた過去に縛れたセラ、自分が現在いるべき場所すら迷う(みお)、未来を直視できない蓮、全員を見届けるルドフレア。運命に囚われたソフィ。運命を変えようとするアリサ。運命を超えようとする黒乃(くろの)

 長いようで、話し始めてしまえばあっという間だった。


「――思いがけないことだったけれど、でも満足よ。もう一度貴女たちに――貴女に会えてよかった」


 黒白の混じり合う一本の日本刀――『夜束ノ刹那(よつかのせつな)』を抱いて、ベッドに横になる織。

 その乱れた濡鴉とブラックドレスを見て、スズカはそっと手を伸ばした。髪を整え、服を整え、その様子は子供をあやす母親のよう。

 

「いいんですか? これ以上、誰にも会わなくて」


「ええ、良いの。蓮は以前の貴女から始まり――わたしは今の貴女に終わる。それってとても素敵なことじゃない?」


「織はすぐそうやって大げさな言い方をするんですから。言われる方の身にもなってください」


「まあわたしはちょっとしたボーナスキャラみたいなものだから。これくらいで丁度良いのよ」


 スズカは垂れる横髪を丁寧に掻き上げて、織の顔を覗き込む。目に焼き付けるように。忘れないように。

 その双眸に手を伸ばす――織。


「……ごめんなさい。貴女の記憶――取り戻せなかった。それだけが唯一の後悔よ」


 スズカは目を瞑り、ゆっくりとかぶりを振って否定する。

 

「私は以前の私のことを知りません。でも――思うんです。遠静鈴華ならきっと、許してくれるって。彼女の想い――成そうと思ったことのすべては私が背負います。それで……彼女は満足だと思うんです」


 それは何物でもない。現在の遠静鈴華だからこそ言えることだ。そしてこの本心を吐露したからこそ――今、彼女もまた、遠静鈴華として定義されたのだろう。

 織は優しく笑う。


「ふふふ――あっははは――今の言葉、蓮にも聞かせてあげたいわ」


「……でも、蓮くんはまだ諦めていません」


「ええ。だから、誰かが諦めさせてあげなければならない。その役割は『誰か』に託すわ」


「託すって……そんな勝手なこと、誰が引き受けるっていうんですか」


 カーテンが開かれた窓。水平線の先に――光が昇り始める。織はスズカの温かい手を握り、スズカは織の冷たい手を握り締める。


「いるわ。想いを背負い、未来へ繋げて、きっと辿り着く――そんな役割を持った爽やか青年がね」


 織は再びスズカを見た。髪を解き、伊達眼鏡を外した本来の彼女の姿を。精一杯微笑む――終わりの時はもう、そこまで来ている。

 悲しむことなどない。これは『一夜(ひとよ)だけの幻想』。(ひと)の生きる()に許された、ただ一夜限りの奇跡。夢のような、それでいて、名残の雪を見ているようなものだ。

 雪はいずれ溶けて、夢はいずれ覚める。


 だから――悲しむ必要などない――。


 ――それでも頬には、涙が流れていた。


 涙で視界が揺らぎ、スズカの表情が見えなくなる。それは駄目だ。急いで涙を拭う。握った手をもっと強く握る。この温かさを忘れないために。忘れさせないために。

 

「それじゃあね、スズカ。また会えてよかった。そう、皆にも伝えてちょうだい」


 涙混じり声。それでも織は余裕を崩さない。

 どこまでも優雅に、美しく、幽玄に、夢幻のように――命を輝かせる。


「……はい」 


 スズカもそれに精一杯の笑顔で答えた。

 

「――次は、輪廻の果てで会いましょう」


 こうして夜明けは訪れた。午前六時過ぎ。世界は――優しき慈愛に包まれている。

 それでも消えゆく命はある。

 生きるということは死ぬということであり。

 終わりがあるからこそ、命は輝くのだ。


 ――そして。


「……私だって嬉しいし悲しいんですよ。ねえ……織。もう、泣いてもいいですよね……」


 心があるからこそ、涙は流れる――。


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