『戦いの合間/Her soup is murderous』
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「ちょ、ちょっと――下ろしてください織! 織ぃぃ――!」
可愛らしい悲鳴を上げるスズカをお姫様抱っこする織。その長いポニーテールが床に付かないよう気を付けながら、ゆっくりと部屋へ向かう。
「――スズカ、少し重くなったかしら?」
「え⁉」
直後、スズカはまるで魂でも抜けたように全身の力を抜く。すると織は小さく笑って、その勘違いを正そうとする。
「いいえ、体重の話ではなくて。――わたしが消えてからも、貴女は多くの物を手に入れてきたのね、という意味よ」
「ぁ――――」
スズカは納得したように、けれど少し恥ずかしそうに顔を逸らした。
「――まあでも、ちょっとヤンデレ気質になっていないかしら?」
「なってません!」
抗議の声を上げるスズカに織はやはり――優しく柔らかに微笑むのだった。そうして意外にも広い船内のスズカの個室に着いた二人は、もう二度と果たされないと思われていた再会を心から喜んだ。
スズカの体をベッドに優しく下ろした織は、腰に携えた『夜束ノ刹那』を近くの机に置いてから椅子の位置を動かす。ベッドと椅子――向かい合う二人。
「――久しぶりね、スズカ。また会えて嬉しいわ」
「はい、お久しぶりです。また会えて嬉しいです――」
スズカは着ていたブラックスーツの上着を脱いで、ネクタイを緩め、黒手袋も外す。後頭部で止められた髪も解き、黒縁の伊達眼鏡も外す。
「なに、誘っているの?」
「誘ってません! ただ楽な格好で話をしようと思っただけです!」
「あっははは――ごめんなさい。つい、貴女の反応が可愛らしいものだから」
まったくもう、と頬を膨らませるスズカ。それを愛らしそうに見つめる織――不意に、部屋に置かれた時計に視線がいく。
時刻は午前三時十五分。
「――さっき計算しました。夜明けまでおよそ二時間半です」
「そうね。けれど、それだけあれば充分よ。――さ、聞かせてもらえるかしら、今の貴女のこと」
潔く死を受け入れている織。その姿に僅かながらの哀しみを覚えたスズカは、しかし真っすぐに織を見つめて笑った。
「勿論。話しましょうか、織」
★
織との会話を終えた黒乃は闇夜に包まれた甲板を後にし、船内に入った。レッドカーペットが敷かれ、暖色の照明が設置された通路は、外よりも随分と温かく感じる。豪華客船とまでは言わないものの、最低限の施設を詰め込んだミニ客船。
「本島に戻って、準備を整えて……『K』はまだあの島にいる……、それから……」
ほぼ無意識のうちに独り言をつぶやいていた黒乃はふと、ラウンジの方からいい匂いが漂ってくることに気が付いた。ラウンジには厨房が併設してある。おそらくは誰かが料理をしているのだろう。
時刻は午前三時過ぎ――とはいえ長らくまともに食事取っていなかった黒乃は、匂いに惹かれて歩みを進める。
「――あら、黒乃」
ラウンジへ行くと、薄い緑色の髪が見えた。セラだ。スーツの上着を脱いでシャツの上にエプロンを着ている。見た感じ、調理をしているのは彼女だ。ぐつぐつと煮えた鍋の前に立ち、焦がさないようかき混ぜている。
「珍しいね、セラが料理なんて」
「……それ、馬鹿にしてる?」
「そんなわけないだろ」
黒乃は苦笑いしながら、カウンター越しにセラと会話を進める。
「スズカが作っていたのよ。皆、寝付けないみたいだからスープでもって。でも夜明けまであと少しだし。織と話しておきなさいって無理やり変わったってわけ」
なるほど、と黒乃は納得する。それに疑っていたわけではないが、織が夜明けと共に再び消えてしまうというのは本当のようだ。だとすれば先ほどの会話が最後だったのだろうな、と黒乃は少しばかり悲しさを覚えた。
「セラは話さなくていいの? 仲間だったんでしょ?」
「……別れなら、前にもう済ませたの。折角覚悟を決めたのに勝手に戻ってこられても、困るってもんよ」
セラは小皿にスープを少し掬い、味見をする。数秒、味を確かめてから首を傾げ、塩とコンソメを僅かに足した。
「それに問題はそのあと。蓮はアレを使った。ってことはつまり、いよいよもって自分が持っているすべての手段を失ったわけ。スズカの記憶を取り戻せる、手段を――」
セラは気付いていた。蓮が精神的に追い詰められていることを――選択を迫られていることを。
一見は完璧にリーダーとして振る舞ってきた蓮だが、その根底にはスズカの記憶を取り戻すという想いがあった。
それがあの花火大会の夜、スズカ本人から、もう記憶を諦めようと言われ――酷く憔悴した。
「二年前の約束――それが蓮の行動原理であり、記憶を取り戻すことは願いであり、義務になっていた。ねえ、どうして蓮がこれまであの刀に込められた奇跡の力を使わなかったか、想像できる?」
「……いいや」
「怖かったのよ。あれを使えば記憶は戻るかもしれない。でも保障なんてどこにもない。ま、結局は無理だったし。そりゃそうよね、全盛期の織でさえ無理だったんだから。そして蓮は『答え』を突き付けられた。もう何をしても――スズカの記憶は戻らない」
黒乃の記憶に在る剣の能力を使っても、それは不可能なことだった。つまりこれで蓮は戦う理由を失う。過去に縛られ、現在に迷い――未来を手放す。そうしてもおかしくない。
「セラは――いいの?」
黒乃の問いに、セラの動きが止まる。
「……いいわけないでしょうが。私だって記憶を失う前のあの子を知っているのよ。それに私も約束した。記憶を取り戻してみせるって。――でも、もう打つ手は何もないのよ」
織は自らの死を受け入れていた。他にどうすることもないと理解していたからだ。そしてスズカの記憶も同じなのかもしれない。
遠静鈴華は死んだ――。そしてスズカとして今、新たに生まれ直した命が生きているのだ。ならばそれは否定してはいけない。
「黒乃――どうしようもないことは、この世にいくらでもあるわ。私の……フェンリル因子と薬漬けによって出来上がったこの体も、元に戻ることはない。だからせめて――その痛みを受け入れて、それでも前に進むしかないの」
織の言葉が想起される。ヴォイドの寿命は残り僅か――その命を救う手立てがないのであれば、他に何をすればいいのか。受け入れて、覚えていて、前に進む。それが残されるものの使命。命の使い方なのではないか。
――無言のまま、黒乃はセラの言葉を噛み締めた。
「だから、もしあの馬鹿がこの期に及んでまだ決められないようなら。相棒として、私がぶん殴ってやるわ」
セラは棚から食器を取り出し、スープを注ぐ。
「――それ、僕に任せてくれないか。前に言ったんだ。お前が迷って泥沼にはまりそうだったら、僕が目を覚まさせてやる。って」
「本気? あいつは結構ああ見えて頑固よ。他人を見ているようで、その根底でいつも自分を嘲る自分を見ている。面倒もいいとこよ?」
カウンターに出されたスープ。黒乃はスプーンを手に取り、温かい湯気の立つそれを掬う。
「ああ。それでも、僕だから言えることがあるかもしれない。――それじゃあ、いただきます」
「……そういう時の男同士って、少し羨ましいわ」
そうして黒乃は一口。
「――――⁉⁉⁉」
――刹那。黒乃の目は全力で見開かれ、驚くほど顔が青ざめていく。飲み込むことを拒絶する体を必死に押さえつけ、とにかくこれ以上舌で味わってはいけないと何とかして流し込む。
「ぐァ――はッ、はッ……⁉」
女の子が作ってくれたものを何としても吐き出してたまるものか、という信念のもと、とりあえず一口は済ませた黒乃だったが、正直瀕死だった。その様子を見ていたセラは、心底驚愕した様子を見せる。
「えっ、ちょ――黒乃⁉ だ、大丈夫なの⁉」
背筋をピンと経たせ、何度も深呼吸を繰り返す黒乃は、痙攣し震える口で何とか言葉を紡ぐ。
「な、なんで味見してこの味に……」
正直なところを言えば、匂いは完璧だった。普通にお店で出しているものを想像するほどだ。だというのにこの何とも形容できないこの味。無理やりに例えるならエナジードリンクを煮詰めたのようなこの独特の味は一体何によってできているのだろう。黒乃は厨房に入り、鍋の中を見る。
「――――」
特におかしなものは入っていない。器に盛られたスープもそうだったが、見た目と匂いは完璧だった。
だとすれば何が問題なのだ。黒乃はふと、傍のごみ箱の中身に目を付けた。
「なッ――こ、これは!」
そこには大量のサプリや栄養剤の素となる粉末が入っていた小袋がいくつもあった。
「え、あ……えっ……、えぇ⁉」
二度見三度見を繰り返して、黒乃は必死に視線でセラを問いただす。まさかこれを全部入れたのか、と。セラは目を泳がせながら、小さく頷いた。
「その……疲労回復のドリンクを作ろうとしたのよ……」
何故か、黒乃の脳内ではサスペンスドラマで流れるようなクラシックがエンドレスで流れていた。
「逆になんでこれだけ入れて見た目と匂いは完璧なのさ……。と、とにかくこれは処分しよう。勿体ないけどこれは危険すぎる。というか何で僕とセラはこれを飲んで生きていられるのさ……!」
そもそもこれだけのものがどこにあったのだろうか……。
「なら、私が後で飲んでおくわ。作ったのは私だし、この体なら何ともないから」
それはそれでセラが恐ろしくなる黒乃だった。それから一度大きくため息を吐いた黒乃は、厨房の隅にかけてあったエプロンを着て、改めて厨房に立つ。
「……作り直そう。大丈夫、前に喫茶店でバイトしたこともあるし! 今度こそスープを作ろう!」
「その、私が作ったものがスープじゃないみたいな言い方はやめてちょうだい」
★
新しくスープを作り始め、三十分が経とうとしていた。以前喫茶店でアルバイトをしていた黒乃の腕前は、まあスズカに及ばないまでも人並みくらいにはある。
「――うん、まあ、普及点かな」
味見をして、黒乃はまずまずの完成度だと頷く。やはりスズカの作るものには及ばないだろうが、ちょっとした休憩に飲む分には悪くないだろう。
「それにしても、スズカは君の料理の腕については知らないの?」
先ほどと立場が変わって、厨房に居る黒乃がカウンターに座るセラに声をかける。
「……あのねぇ、私の料理の腕が壊滅的と決めつけるのはやめなさい。今回は……あれよ、薬が効きにくい私を基準に作ってしまったことが原因なのよ。これでも私は名家出身だから、一通りのことはできるわ」
そう言って、温め直したエナジースープを飲むセラ。その様子を黒乃は信じられなそうに見ていた。
とはいえ、スープは完成した。あとはこれを適当に分けて持っていくか、逆に皆を呼ぶかだ。とりあえず人数分の食器があるか確認しないといけない。
「――えーっと、お皿は……」
「左の棚にあるわよ。ああでもスプーンは……」
黒乃の食器探しを手伝うためにセラも厨房に入る。――それが、悲劇の始まりだった。
セラがカウンターを留守にするのと同時に、スープの匂いに釣られたルドフレアがエントランスを訪れた。
「――おやや、中々良い匂いがしているじゃないか! もしかしてクロノとセラが作ってるの?」
スキップでカウンターにやってきたルドフレアは、セラが飲んでいた一見スープのような魔の液体の残りを発見する。
「あー、フレア、良かった。ちょうど今お裾分けに行こうとしたところでさ」
と、黒乃が棚を覗きながら言う。無論、ルドフレアがセラの作ったアレを見つけたことには気付いていない。そしてセラもまた棚を漁っており――。
「それはすっごく助かるね! 生活リズム崩れまくりだけど、まずは少しでもエネルギー摂取しないと!」
「体が温かくなったらすぐに休んだほうがいいよ。一応まだ、剣の効果時間はあるわけだし」
会話をしながら、ルドフレアはスプーンを手に取っていた。本人としてはちょっとした味見のつもりだったのかもしれない。何せ漂っている匂いは食欲をそそるようなものだ。まさか目の前に置かれた液体が、スープとは別の違う何かだなんて――いくら天才でも思うはずがない。
「そうしたいのはやまやまなんだけどね! ところでクロノ、ちょっと端末を借りてもいいかな。『ヘヴンズプログラム』の調整を――」
そして、言葉の途中でスプーンの中身を口に含んだルドフレアは――倒れた。
「んー、フレアー? 『ヘヴンズプログラム』がなんだ――――……はッ⁉」
刹那、驚くほどの速さでフラッシュバックされる映像。埋められるパズルのピース。
エナジースープを飲んでいたセラ。食器を探すために厨房に来たことで空いたカウンター。そしてたった今聞こえた――何かが床に落ちた音。
「ま、まさか⁉」
即座に黒乃は顔を上げて振り返る。カウンターが邪魔してよく見えないが、向こう側には明らかに倒れているルドフレアの足が見えた。
「ふ、フレア――‼」
すぐに厨房を出て、倒れたルドフレアの状態を確認する。一歩遅れてセラも状況に気づく。
「フレア! 無事か、フレア! ――――――な――嘘、だろ。い、息してない……心臓も止まってる……」
呼吸も心臓も止まっているとなれば状況は刻一刻を争う。とにかくルドフレアを再び床に寝かせ、気道を確保。
「ちょ、ど、どうするの!」
自らの作ったもので死人が出るかもしれない。それも仲間が。そんな状況によって、珍しく焦りを見せるセラ。
「とにかく蘇生するしかない! 大丈夫、訓練ならやったことがある……! セラはAEDを持ってきて! 多分船のどこかにある! あと、大至急あの鍋を破壊するんだッ――!」
心臓マッサージに入る黒乃を見て、セラは己の罪深さを再認識した。奥歯を噛み締め、拳を握り、必死で悔しさと戦う。
――状況は、一刻を争う。
とにかくルドフレアを何としても助けるため、そして次の犠牲者を出させないため――セラはどこからともなくダガーを取り出し、それを鍋に向けて投擲。
それによりエナジースープを入れた鍋は衝撃で爆散する。
「――待ってなさい、フレア! 必ず助ける!」
そしてAEDを求めて、駆け出した。更にそこへ、セラと入れ替わる形で澪がエントランスに入ってくる。
「なんだよ、夜中だってのに随分騒がしいじゃねえか――――ってフレア⁉ おい、どうした!」
右目の傷を隠すため、黒い眼帯を付けた澪。その隻眼に映ったのは、ルドフレアに心臓マッサージと人工呼吸を行う黒乃の姿。
「澪! 端的に言えばセラの作ったスープを飲んだらフレアが死んだ! いや死んでない! 今セラがAEDを――‼」
「チッ――毒か!」
それで何となく、セラの作ったスープに毒が入れられ、それによりルドフレアが瀕死の状態に陥ったのだと判断した澪。視線の先は厨房――ダガーが突き刺さり木っ端微塵になっている鍋の残骸。
「――こいつが原因か! だが毒の成分はなんだ⁉」
それに駆け寄った澪は、ルドフレアを蝕む毒を取り除くにはまず、毒の成分を解析する必要があると早合点した。毒の解析――ここには専門の機材などあるはずがない。となると、方法は一つ。人差し指をその残骸に伸ばす。
「ダメだ澪! 絶対に口にするな!」
「へッ――平気だぜ黒乃! この体になってから毒とか薬には強いんだブボバァ――⁉」
――たった一滴舐めただけで、澪は泡を吹いて倒れた。無論、状態はルドフレアと同じ心停止。
「み、澪おおおおおおお――⁉」
その後、少ししてからAEDを手に戻ってきたセラの尽力で、二人の心臓は無事、再び鼓動を取り戻した。
こうして後に『星屑スープ』と名前が付けられることになるあの液体を巡る事件は、幕を閉じることになるのだった。